8 / 28
8話
しおりを挟む
「凪、久しぶりだな」
職場のエントランスを出た瞬間、聞き覚えのある声に足が止まった。
そこに立っていたのは、一年前、僕に「重い」と言い放って去っていった元カレ、拓海(たくみ)だった。
「……どうしてここに」
「最近、この近くの営業所に異動になったんだ。偶然見かけてさ。……なぁ、少し話さないか? 近くにいい店があるんだ」
断る間もなく、拓海は僕の腕を掴んだ。
前の僕なら、嫌われたくなくて愛想笑いで付いていっただろう。
けれど今の僕には、家で待っている「美味しい」と笑ってくれる人がいる。
「ごめん、急いでるんだ。これから夕飯を作らなきゃいけないから」
「夕飯? またそれかよ。お前、相変わらず誰かの世話焼いて満足してんの? そんなの時間の無駄だって。もっと自分を楽しまなきゃ、また飽きられるぞ」
拓海の言葉が、古い傷口を抉る。
「お前といても面白くない」
呪いのようにまとわりついていた言葉が、足元をふらつかせる。
その時だった。
「……藤代。遅いと思ったら、こんなところで何をしている」
低く、地響きのように落ち着いた声が響いた。
見上げると、そこには黒のチェスターコートを羽織った一条さんが立っていた。
眼鏡の奥の瞳は冷徹なまでに静かで、彼は僕の腕を掴んでいる拓海の手に視線を落とした。
「一条、さん……」
「誰だ、そいつ。知り合いか?」
「あ、えっと……昔の、知り合いで……」
拓海は一条さんの圧倒的なオーラに気圧されたのか、反射的に僕の腕を離した。
「なんだよ、新しく捕まえた男か? 相変わらず趣味が悪いな、凪」
拓海が鼻で笑った瞬間、一条さんが一歩前へ出た。
彼は拓海に怒鳴ることも、殴ることもせず、ただ静かに、けれど逃げ場のないほどの圧迫感を持って告げた。
「君が彼の過去をどう評価していようと構わない。だが、今の彼の時間を奪うことは許さない」
「……あ?」
「彼の作る食事は、俺の人生にとって不可欠なものだ。それを『無駄』だと吐き捨てる無知な人間に、彼に触れる資格はない。……二度と、近づくな」
一条さんは僕の肩を引き寄せると、そのまま一度も振り返ることなく、僕を自分の車へと促した。
車内は、沈黙に包まれていた。
一条さんはハンドルを握ったまま、しばらく動こうとしなかった。
「……すみません、あんなところ見せて。……あの人が言ったこと、気にしないでください」
「何を気にする必要がある」
「だって、僕のやってること、一条さんにとっても負担というか、面白くないんじゃないかって……」
一条さんはエンジンを切ると、ゆっくりと僕の方を向いた。
そして、大きな手で僕の頬を包み込んだ。
「藤代。俺は、面白いから君と一緒にいるわけじゃない。……君がいなければ、俺の生活に色は戻らない。君の献身は、俺にとって救済だ」
一条さんの指先が、僕の耳元に触れる。
「あんな男に言われた言葉で、自分を貶めるな。……今夜は、辛いものが食べたい。君がスパイスを効かせて、俺の不快な記憶をすべて上書きしてくれ」
「……っ、はい。分かりました」
鼻の奥がツンとした。
執着なんて言葉じゃ足りない。これは、お互いの存在を肯定し合うための、一番優しい約束だ。
その夜、作った麻婆豆腐は、いつもより少しだけ辛くて、けれどそれ以上に、僕たちの絆を熱く、深く結びつけてくれた。
職場のエントランスを出た瞬間、聞き覚えのある声に足が止まった。
そこに立っていたのは、一年前、僕に「重い」と言い放って去っていった元カレ、拓海(たくみ)だった。
「……どうしてここに」
「最近、この近くの営業所に異動になったんだ。偶然見かけてさ。……なぁ、少し話さないか? 近くにいい店があるんだ」
断る間もなく、拓海は僕の腕を掴んだ。
前の僕なら、嫌われたくなくて愛想笑いで付いていっただろう。
けれど今の僕には、家で待っている「美味しい」と笑ってくれる人がいる。
「ごめん、急いでるんだ。これから夕飯を作らなきゃいけないから」
「夕飯? またそれかよ。お前、相変わらず誰かの世話焼いて満足してんの? そんなの時間の無駄だって。もっと自分を楽しまなきゃ、また飽きられるぞ」
拓海の言葉が、古い傷口を抉る。
「お前といても面白くない」
呪いのようにまとわりついていた言葉が、足元をふらつかせる。
その時だった。
「……藤代。遅いと思ったら、こんなところで何をしている」
低く、地響きのように落ち着いた声が響いた。
見上げると、そこには黒のチェスターコートを羽織った一条さんが立っていた。
眼鏡の奥の瞳は冷徹なまでに静かで、彼は僕の腕を掴んでいる拓海の手に視線を落とした。
「一条、さん……」
「誰だ、そいつ。知り合いか?」
「あ、えっと……昔の、知り合いで……」
拓海は一条さんの圧倒的なオーラに気圧されたのか、反射的に僕の腕を離した。
「なんだよ、新しく捕まえた男か? 相変わらず趣味が悪いな、凪」
拓海が鼻で笑った瞬間、一条さんが一歩前へ出た。
彼は拓海に怒鳴ることも、殴ることもせず、ただ静かに、けれど逃げ場のないほどの圧迫感を持って告げた。
「君が彼の過去をどう評価していようと構わない。だが、今の彼の時間を奪うことは許さない」
「……あ?」
「彼の作る食事は、俺の人生にとって不可欠なものだ。それを『無駄』だと吐き捨てる無知な人間に、彼に触れる資格はない。……二度と、近づくな」
一条さんは僕の肩を引き寄せると、そのまま一度も振り返ることなく、僕を自分の車へと促した。
車内は、沈黙に包まれていた。
一条さんはハンドルを握ったまま、しばらく動こうとしなかった。
「……すみません、あんなところ見せて。……あの人が言ったこと、気にしないでください」
「何を気にする必要がある」
「だって、僕のやってること、一条さんにとっても負担というか、面白くないんじゃないかって……」
一条さんはエンジンを切ると、ゆっくりと僕の方を向いた。
そして、大きな手で僕の頬を包み込んだ。
「藤代。俺は、面白いから君と一緒にいるわけじゃない。……君がいなければ、俺の生活に色は戻らない。君の献身は、俺にとって救済だ」
一条さんの指先が、僕の耳元に触れる。
「あんな男に言われた言葉で、自分を貶めるな。……今夜は、辛いものが食べたい。君がスパイスを効かせて、俺の不快な記憶をすべて上書きしてくれ」
「……っ、はい。分かりました」
鼻の奥がツンとした。
執着なんて言葉じゃ足りない。これは、お互いの存在を肯定し合うための、一番優しい約束だ。
その夜、作った麻婆豆腐は、いつもより少しだけ辛くて、けれどそれ以上に、僕たちの絆を熱く、深く結びつけてくれた。
34
あなたにおすすめの小説
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
美澄の顔には抗えない。
米奏よぞら
BL
スパダリ美形攻め×流され面食い受け
高校時代に一目惚れした相手と勢いで付き合ったはいいものの、徐々に相手の熱が冷めていっていることに限界を感じた主人公のお話です。
※なろう、カクヨムでも掲載中です。
【1話完結】あなたの恋人は毎夜わたしのベッドで寝てますよ。
ariya
ファンタジー
ソフィア・ラテットは、婚約者アレックスから疎まれていた。
彼の傍らには、いつも愛らしい恋人リリアンヌ。
婚約者の立場として注意しても、アレックスは聞く耳を持たない。
そして迎えた学園卒業パーティー。
ソフィアは公衆の面前で婚約破棄を言い渡される。
ガッツポーズを決めるリリアンヌ。
そのままアレックスに飛び込むかと思いきや――
彼女が抱きついた先は、ソフィアだった。
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?
krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」
突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。
なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!?
全力すれ違いラブコメファンタジーBL!
支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。
結婚間近だったのに、殿下の皇太子妃に選ばれたのは僕だった
釦
BL
皇太子妃を輩出する家系に産まれた主人公は半ば政略的な結婚を控えていた。
にも関わらず、皇太子が皇妃に選んだのは皇太子妃争いに参加していない見目のよくない五男の主人公だった、というお話。
目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?
綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。
湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。
そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。
その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる