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17話
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季節は巡り、窓の外には紫陽花が鮮やかな色を添え始めていた。
一条さんとの生活は、もはや日常そのものとなっていた。朝、僕が作るサンドイッチを二人で頬張り、夜は彼が仕事から戻るのを待って、今日あった出来事を報告し合いながら温かいスープを啜る。
そんな、当たり前でいて奇跡のような日々の中に、不意に「変化」の兆しが訪れた。
「……藤代くん。君のこれまでの働きぶりを評価して、シンガポール支社への異動を打診したいと考えているんだ」
午後の会議室。上司から告げられたその言葉に、僕は目の前が真っ白になった。
期間は三年間。キャリアアップとしてはこれ以上ないチャンスだ。以前の僕なら、二つ返事で引き受けていただろう。自分に価値を見出せず、どこへ行っても同じだと思っていたあの頃なら。
けれど、今の僕には、この街に、このマンションの隣の部屋に、守りたい温もりがある。
その日の帰り道。僕はスーパーに寄る気力も起きず、ぼんやりと雨に濡れるアスファルトを見つめていた。
一条さんに、なんて言えばいいんだろう。
「三年間、海外へ行ってきます。だから、その間は一人でごはんを食べてください」なんて。
ようやく健康を取り戻し、人間らしい情緒を育み始めた彼を、またあの無機質な孤独の中に突き放すような真似ができるだろうか。
「……ただいま」
重い足取りで406号室の扉を開ける。
一条さんは珍しくデスクにおらず、キッチンで僕のためにコーヒーを淹れてくれていた。
僕がプレゼントしたヘアクリップで前髪を留め、おぼつかない手つきで豆を挽く彼の背中。その姿を見るだけで、胸の奥が締め付けられるように痛む。
「……凪か。今日は遅かったな。顔色が悪いぞ、雨に濡れたか?」
一条さんは僕の異変にすぐさま気づき、温かいタオルを差し出してくれた。
「……一条さん。あの、お話があるんです」
僕は意を決して、会社から打診された転勤の話を打ち明けた。
一条さんは黙って僕の話を聞いていた。その端正な横顔は、彫刻のように微動だにせず、何を考えているのか読み取れない。
「……三年間か」
長い沈黙の後、一条さんはポツリとそう呟いた。
「一条さん。僕……本当は行きたくないんです。一条さんのごはんを作れなくなるのが、何より嫌なんです。でも、仕事としてのチャンスなのも分かっていて……。どうすればいいのか、自分でも分からなくて」
情けないことに、声が震えた。
一条さんは僕の前に立ち、僕の震える肩に大きな手を置いた。
「……凪。君は、俺のために自分の未来を捨てるつもりか?」
「捨てるとか、そんなんじゃなくて……」
「俺が、君の人生を縛り付ける鎖になることは、俺自身のプライドが許さない。……俺の建築は、人が自由になるための場所だ。その場所を支えてくれる君が、俺への遠慮で不自由になるのは、本末転倒だろう」
一条さんの言葉は、どこまでも理知的で、そして優しかった。
執着して引き止めることも、無理に突き放すこともしない。彼は、僕を一人の自立した人間として、真っ直ぐに尊重してくれている。
「……でも、一条さんがまた、栄養剤ばかりの生活に戻ったら……」
「戻らない。……君が教えてくれたのは、レシピだけじゃない。誰かと食べる喜びそのものだ。それは、君がどこにいても、俺の中に残り続ける」
一条さんはそう言って、僕の頬を優しく撫でた。
けれど、その指先がわずかに震えているのを、僕は見逃さなかった。彼だって、本当は寂しくてたまらないはずなのに。
「……ただ。俺からも一つ、提案がある」
一条さんは少しだけ視線を逸らし、耳の先端を赤くしながら言った。
「シンガポールには、俺の知人が設計している大規模な都市開発のコンサルタント案件がある。……俺は、拠点をどこに置いても仕事ができるフリーランスだ。……君が海を渡るなら、俺もそこを拠点の一つにすることを検討しよう」
「え……?」
「君が俺の食事を作るのが『日常』なら、その日常を維持するために、俺が動くのは合理的だ。……もちろん、君の仕事を邪魔するつもりはない。ただ、週末に君の作るカレーが食べられる距離に、俺もいたい。……それだけだ」
一条さんの、不器用すぎる「一緒にいたい」の言葉。
それは、相手を縛るのではなく、自分が相手に合わせて形を変えるという、彼なりの究極の愛の形だった。
「……一条さん。それって、すごくコストがかかる選択ですよ?」
「建築家は、最高の空間のためには投資を惜しまないものだ。……俺にとって、君の隣以上に価値のある土地は、この世界のどこにもない」
雨音が、静かに部屋を包み込む。
「……僕も、一条さんと一緒なら、どこへだって行けます。……シンガポールでも、とびきり美味しいごはん、作りますね」
「ああ。……楽しみにしている」
僕たちは、初めて深いキスをした。
レモンのような爽やかな香りと、少しの苦味。
それは、二人が選んだ新しい未来の味だった。
執着ではなく、信頼で繋がれた僕たちは、もうどんな嵐が来ても、二人で最高の「居場所」を築いていける。そう確信した、雨上がりの夜だった。
一条さんとの生活は、もはや日常そのものとなっていた。朝、僕が作るサンドイッチを二人で頬張り、夜は彼が仕事から戻るのを待って、今日あった出来事を報告し合いながら温かいスープを啜る。
そんな、当たり前でいて奇跡のような日々の中に、不意に「変化」の兆しが訪れた。
「……藤代くん。君のこれまでの働きぶりを評価して、シンガポール支社への異動を打診したいと考えているんだ」
午後の会議室。上司から告げられたその言葉に、僕は目の前が真っ白になった。
期間は三年間。キャリアアップとしてはこれ以上ないチャンスだ。以前の僕なら、二つ返事で引き受けていただろう。自分に価値を見出せず、どこへ行っても同じだと思っていたあの頃なら。
けれど、今の僕には、この街に、このマンションの隣の部屋に、守りたい温もりがある。
その日の帰り道。僕はスーパーに寄る気力も起きず、ぼんやりと雨に濡れるアスファルトを見つめていた。
一条さんに、なんて言えばいいんだろう。
「三年間、海外へ行ってきます。だから、その間は一人でごはんを食べてください」なんて。
ようやく健康を取り戻し、人間らしい情緒を育み始めた彼を、またあの無機質な孤独の中に突き放すような真似ができるだろうか。
「……ただいま」
重い足取りで406号室の扉を開ける。
一条さんは珍しくデスクにおらず、キッチンで僕のためにコーヒーを淹れてくれていた。
僕がプレゼントしたヘアクリップで前髪を留め、おぼつかない手つきで豆を挽く彼の背中。その姿を見るだけで、胸の奥が締め付けられるように痛む。
「……凪か。今日は遅かったな。顔色が悪いぞ、雨に濡れたか?」
一条さんは僕の異変にすぐさま気づき、温かいタオルを差し出してくれた。
「……一条さん。あの、お話があるんです」
僕は意を決して、会社から打診された転勤の話を打ち明けた。
一条さんは黙って僕の話を聞いていた。その端正な横顔は、彫刻のように微動だにせず、何を考えているのか読み取れない。
「……三年間か」
長い沈黙の後、一条さんはポツリとそう呟いた。
「一条さん。僕……本当は行きたくないんです。一条さんのごはんを作れなくなるのが、何より嫌なんです。でも、仕事としてのチャンスなのも分かっていて……。どうすればいいのか、自分でも分からなくて」
情けないことに、声が震えた。
一条さんは僕の前に立ち、僕の震える肩に大きな手を置いた。
「……凪。君は、俺のために自分の未来を捨てるつもりか?」
「捨てるとか、そんなんじゃなくて……」
「俺が、君の人生を縛り付ける鎖になることは、俺自身のプライドが許さない。……俺の建築は、人が自由になるための場所だ。その場所を支えてくれる君が、俺への遠慮で不自由になるのは、本末転倒だろう」
一条さんの言葉は、どこまでも理知的で、そして優しかった。
執着して引き止めることも、無理に突き放すこともしない。彼は、僕を一人の自立した人間として、真っ直ぐに尊重してくれている。
「……でも、一条さんがまた、栄養剤ばかりの生活に戻ったら……」
「戻らない。……君が教えてくれたのは、レシピだけじゃない。誰かと食べる喜びそのものだ。それは、君がどこにいても、俺の中に残り続ける」
一条さんはそう言って、僕の頬を優しく撫でた。
けれど、その指先がわずかに震えているのを、僕は見逃さなかった。彼だって、本当は寂しくてたまらないはずなのに。
「……ただ。俺からも一つ、提案がある」
一条さんは少しだけ視線を逸らし、耳の先端を赤くしながら言った。
「シンガポールには、俺の知人が設計している大規模な都市開発のコンサルタント案件がある。……俺は、拠点をどこに置いても仕事ができるフリーランスだ。……君が海を渡るなら、俺もそこを拠点の一つにすることを検討しよう」
「え……?」
「君が俺の食事を作るのが『日常』なら、その日常を維持するために、俺が動くのは合理的だ。……もちろん、君の仕事を邪魔するつもりはない。ただ、週末に君の作るカレーが食べられる距離に、俺もいたい。……それだけだ」
一条さんの、不器用すぎる「一緒にいたい」の言葉。
それは、相手を縛るのではなく、自分が相手に合わせて形を変えるという、彼なりの究極の愛の形だった。
「……一条さん。それって、すごくコストがかかる選択ですよ?」
「建築家は、最高の空間のためには投資を惜しまないものだ。……俺にとって、君の隣以上に価値のある土地は、この世界のどこにもない」
雨音が、静かに部屋を包み込む。
「……僕も、一条さんと一緒なら、どこへだって行けます。……シンガポールでも、とびきり美味しいごはん、作りますね」
「ああ。……楽しみにしている」
僕たちは、初めて深いキスをした。
レモンのような爽やかな香りと、少しの苦味。
それは、二人が選んだ新しい未来の味だった。
執着ではなく、信頼で繋がれた僕たちは、もうどんな嵐が来ても、二人で最高の「居場所」を築いていける。そう確信した、雨上がりの夜だった。
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