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16話
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大きなプロジェクトの中断を経て、一条さんは憑き物が落ちたような顔をしていた。
世界的な名声よりも、目の前の人のための「家」を作ること。
その新たな情熱を胸に、彼は今、とある老夫婦から依頼された小さな平屋の設計に没頭している。
そんな彼の姿は、以前の刺々しさが消え、どこか凪いだ海のように穏やかだった。
ある日の夕暮れ。
僕がいつものように406号室の扉を開けると、中には見慣れない先客がいた。
二十代半ばだろうか。快活そうな、けれど一条さんを見る目が崇拝に近い熱を帯びた、一人の青年だ。
「……ですから、一条さん! 貴方の才能をこんな個人宅で消費するなんて、業界の損失ですよ!」
「静かにしろ、日向(ひなた)。俺の設計の価値を決めるのは君じゃない」
一条さんは、不機嫌そうに鼻筋を指で押さえている。
日向と呼ばれたその青年は、一条さんの大学時代の後輩で、今は大手組織設計事務所で働く若手のホープらしい。
「あ、藤代。ちょうどいいところに。……夕飯にしてくれ」
僕の姿を見つけた途端、一条さんの表情がふっと和らぐ。
日向くんは、僕のことを「一条のインスピレーションを邪魔する居候」とでも思っているのか、鋭い視線を向けてきた。
「一条さん、この方が噂の……? 失礼ですが、一条さんを軟化させたのが貴方だとしたら、僕は少し納得がいきません。一条慧という建築家は、もっと孤独で、もっと鋭利であるべきなんです!」
日向くんの言葉は、かつての僕なら傷ついていたかもしれない。
けれど、僕は黙ってキッチンへ向かった。
今日用意したのは、一条さんのリクエストで「スパイスから調合したチキンカレー」だ。
玉ねぎを飴色になるまで炒め、クミンやコリアンダーの香りを引き出し、じっくりと鶏肉を煮込む。
キッチンに漂うスパイシーで食欲をそそる香りが、リビングの張り詰めた空気を少しずつ侵食していく。
「……なんだ、この匂い。……集中力を削ぐような、暴力的なほどいい香りだ」
日向くんが、喉を鳴らすのが聞こえた。
「日向、君も食べていけ。意見を戦わせるのもいいが、空腹では正しい判断はできない」
一条さんに促され、日向くんも渋々とテーブルについた。
僕は、彩り豊かな野菜を添えた特製カレーを三名分、テーブルに並べた。
「……いただきます」
一条さんは一口食べると、満足げに目を細めた。
日向くんは「僕は味覚に厳しいですよ」と強がっていたが、スプーンを口に運んだ瞬間、その動きが止まった。
「…………っ」
「どうかな。俺の『孤独』を埋めて余りある味だろう」
「……これ、スパイスの配合が絶妙ですね。……刺激的なのに、後味がすごく優しい。……一条さんの最近の設計案と、同じだ」
日向くんは、それから無言でカレーをかき込んだ。
完食し、額に汗を浮かべた彼は、深く溜息をついて僕を見た。
「……藤代さん。……負けました。一条さんが欲しがっていたのは、僕たちが提示するような華やかな名誉じゃなくて、この『一口の安らぎ』だったんですね」
日向くんの表情から敵意が消え、純粋な敬意へと変わっていた。
「一条さんは、貴方の作るごはんを食べて、初めて『住む人』の体温を理解したんだ。……だから、今の彼の図面には、僕らには描けない優しさがある」
日向くんが帰り、二人きりになった夜。
僕は後片付けをしながら、ふと一条さんに尋ねた。
「一条さん。……後輩の彼に、あんな風に言われちゃいましたね」
一条さんは後ろから僕の腰に手を回し、首筋に顔を埋めた。
「……日向は、俺の過去を追っているに過ぎない。……だが俺は、未来を見ている。……凪。君のカレーには、俺の人生に必要なすべてのスパイスが入っている」
一条さんの唇が、僕の耳元に触れる。
それは執着ではない。お互いの「違い」を認め合い、それを楽しむ余裕が生まれた証拠だ。
「……これからも、俺を飽きさせないでくれ。君の味で、君の温度で」
「……ふふ。もちろんです。明日は、もっと優しい味の和食にしますね」
外には、静かな月光が降り注いでいる。
かつての鋭利な天才は、僕の作るごはんという魔法にかかって、世界で一番温かい建築家へと生まれ変わっていた。
僕たちの関係は、もはや名前など必要ないほど、深く、美味しく、溶け合っていた。
世界的な名声よりも、目の前の人のための「家」を作ること。
その新たな情熱を胸に、彼は今、とある老夫婦から依頼された小さな平屋の設計に没頭している。
そんな彼の姿は、以前の刺々しさが消え、どこか凪いだ海のように穏やかだった。
ある日の夕暮れ。
僕がいつものように406号室の扉を開けると、中には見慣れない先客がいた。
二十代半ばだろうか。快活そうな、けれど一条さんを見る目が崇拝に近い熱を帯びた、一人の青年だ。
「……ですから、一条さん! 貴方の才能をこんな個人宅で消費するなんて、業界の損失ですよ!」
「静かにしろ、日向(ひなた)。俺の設計の価値を決めるのは君じゃない」
一条さんは、不機嫌そうに鼻筋を指で押さえている。
日向と呼ばれたその青年は、一条さんの大学時代の後輩で、今は大手組織設計事務所で働く若手のホープらしい。
「あ、藤代。ちょうどいいところに。……夕飯にしてくれ」
僕の姿を見つけた途端、一条さんの表情がふっと和らぐ。
日向くんは、僕のことを「一条のインスピレーションを邪魔する居候」とでも思っているのか、鋭い視線を向けてきた。
「一条さん、この方が噂の……? 失礼ですが、一条さんを軟化させたのが貴方だとしたら、僕は少し納得がいきません。一条慧という建築家は、もっと孤独で、もっと鋭利であるべきなんです!」
日向くんの言葉は、かつての僕なら傷ついていたかもしれない。
けれど、僕は黙ってキッチンへ向かった。
今日用意したのは、一条さんのリクエストで「スパイスから調合したチキンカレー」だ。
玉ねぎを飴色になるまで炒め、クミンやコリアンダーの香りを引き出し、じっくりと鶏肉を煮込む。
キッチンに漂うスパイシーで食欲をそそる香りが、リビングの張り詰めた空気を少しずつ侵食していく。
「……なんだ、この匂い。……集中力を削ぐような、暴力的なほどいい香りだ」
日向くんが、喉を鳴らすのが聞こえた。
「日向、君も食べていけ。意見を戦わせるのもいいが、空腹では正しい判断はできない」
一条さんに促され、日向くんも渋々とテーブルについた。
僕は、彩り豊かな野菜を添えた特製カレーを三名分、テーブルに並べた。
「……いただきます」
一条さんは一口食べると、満足げに目を細めた。
日向くんは「僕は味覚に厳しいですよ」と強がっていたが、スプーンを口に運んだ瞬間、その動きが止まった。
「…………っ」
「どうかな。俺の『孤独』を埋めて余りある味だろう」
「……これ、スパイスの配合が絶妙ですね。……刺激的なのに、後味がすごく優しい。……一条さんの最近の設計案と、同じだ」
日向くんは、それから無言でカレーをかき込んだ。
完食し、額に汗を浮かべた彼は、深く溜息をついて僕を見た。
「……藤代さん。……負けました。一条さんが欲しがっていたのは、僕たちが提示するような華やかな名誉じゃなくて、この『一口の安らぎ』だったんですね」
日向くんの表情から敵意が消え、純粋な敬意へと変わっていた。
「一条さんは、貴方の作るごはんを食べて、初めて『住む人』の体温を理解したんだ。……だから、今の彼の図面には、僕らには描けない優しさがある」
日向くんが帰り、二人きりになった夜。
僕は後片付けをしながら、ふと一条さんに尋ねた。
「一条さん。……後輩の彼に、あんな風に言われちゃいましたね」
一条さんは後ろから僕の腰に手を回し、首筋に顔を埋めた。
「……日向は、俺の過去を追っているに過ぎない。……だが俺は、未来を見ている。……凪。君のカレーには、俺の人生に必要なすべてのスパイスが入っている」
一条さんの唇が、僕の耳元に触れる。
それは執着ではない。お互いの「違い」を認め合い、それを楽しむ余裕が生まれた証拠だ。
「……これからも、俺を飽きさせないでくれ。君の味で、君の温度で」
「……ふふ。もちろんです。明日は、もっと優しい味の和食にしますね」
外には、静かな月光が降り注いでいる。
かつての鋭利な天才は、僕の作るごはんという魔法にかかって、世界で一番温かい建築家へと生まれ変わっていた。
僕たちの関係は、もはや名前など必要ないほど、深く、美味しく、溶け合っていた。
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