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15話
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順風満帆に見えた一条さんの世界に、突如として暗雲が立ち込めた。
北欧コンペで勝ち取った美術館のプロジェクトが、現地の政情不安と予算凍結により、無期限の中断に追い込まれたのだ。
一条さんにとって、あの建築は単なる仕事ではなく、自らの美学と「居場所」への祈りを込めた集大成だった。その道が閉ざされたと聞いた日から、一条さんは再び、以前のような――あるいはそれ以上に酷い、「食事を拒絶する仕事鬼」へと逆戻りしてしまった。
「一条さん、入りますよ」
406号室の空気は、澱み、冷え切っていた。
カーテンは閉め切られ、床にはクシャクシャに丸められた図面が散乱している。
一条さんは、かつての「死神」のような眼差しでデスクに向かっていた。
「……藤代か。悪いが、帰ってくれ。今は何も喉を通らない」
差し出した温かいお茶にも目もくれず、一条さんは低く、拒絶の声を絞り出す。
その頬はこけ、眼鏡の奥の瞳からは生気が失われていた。
かつての孤独な城に、彼は自分から戻ろうとしている。
「食べなきゃダメです。一条さんが倒れたら、誰があの建築の続きを考えるんですか」
「……もう、続きなどない。俺がどれだけ情熱を注ごうと、外側の理屈で一瞬にして無に帰す。……そんなもののために、体を生かしておく必要などない」
その言葉に、僕は胸が張り裂けるような思いがした。
一条さんの「居場所」を作りたいという願いが、世界に拒絶された痛み。
でも、僕は知っている。彼が本当に大切にしていたのは、豪華な美術館という「箱」そのものではないことを。
僕は黙ってキッチンに立った。
今回ばかりは、豪華なお祝い膳も、スタミナのつく肉料理も違う。
僕が取り出したのは、一条さんが以前、海沿いの祖父の家で話してくれた思い出。
――「庭で採れた野菜で作った、温かい味噌汁」。
僕は、宿のスタッフに分けてもらった、少し粗削りだけれど力強い香りのする田舎味噌を鍋に溶いた。
具材は、一条さんの祖父が作っていたという、大ぶりに切った大根と里芋。
それから、今の彼の胃に負担をかけないよう、じっくりと時間をかけて炊き上げた、真っ白なお粥。
コトコトと鍋が鳴る。
出汁の香りが、凍りついた部屋の空気を少しずつ、、ゆっくりと解かしていく。
「……藤代。言ったはずだ。何もいらないと」
「いらなくても、置いておきます。……一条さん。あなたが昔、お祖父さんの家で食べたのは、世界一のデザインの食事でしたか?」
僕は、お盆に乗せたお粥とお味噌汁を、彼のデスクの端に置いた。
「違いますよね。ただ、そこに誰かがいて、自分のために火を使ってくれた。その『温度』が、一条さんを救ったんですよね? ……今の僕にとって、一条さんのプロジェクトがどうなるかは、二の次です。僕が守りたいのは、建築家の一条慧じゃなくて、僕のごはんを食べて『美味しい』って言ってくれる、あなた自身なんです」
一条さんは、ぴくりと肩を震わせた。
「……君は、勝手だな。俺がこれほど絶望しているというのに」
「勝手でいいです。……さあ、食べてください。お祖父さんの味には敵わないかもしれないけど、僕の精一杯の『おかえり』です」
一条さんは、震える手でゆっくりと、お粥の匙を握った。
一口。真っ白なお粥が彼の唇を湿らせ、喉を通っていく。
次に、お味噌汁を啜る。
根菜の甘みが溶け出したその汁を飲み込んだ瞬間、一条さんの目から、大きな涙の粒がポロリとこぼれ落ちた。
「…………。……温かい……」
「……はい」
「……俺は、また見失っていた。……箱の大きさにばかり囚われて、その中にあるはずの、一番大切な光を……」
一条さんは、それから取り憑かれたようにお粥を口に運び、お味噌汁を飲み干した。
空になった器を置いたとき、彼の瞳には、わずかだけれど確かな光が戻っていた。
「藤代。……いや、凪」
一条さんは椅子から立ち上がり、ふらつく足取りで僕に近づくと、その長い腕で僕を強く、強く抱きしめた。
執着ではない。それは、暗い海の底からようやく浮上してきた者が、必死に空気を求めるような、切実な感謝の抱擁だった。
「……もう、大丈夫だ。俺には、帰る場所がある。君が作ってくれる、この場所が……俺の、真の原点だ」
一条さんの涙が、僕の肩を濡らす。
プロジェクトは中断したかもしれない。けれど、一条さんの心の中に、より強固な、決して壊れることのない「家」が建ったことを、僕は確信していた。
「……おかわり、ありますよ。一条さん」
「……ああ。全部、食べる。食べて、また新しく、書き直そう。君と過ごすための、最高の家を」
雨上がりのような、清々しい夜。
僕たちは繋いだ手を離さず、新しい設計図――二人の未来の物語を、再び描き始めた。
北欧コンペで勝ち取った美術館のプロジェクトが、現地の政情不安と予算凍結により、無期限の中断に追い込まれたのだ。
一条さんにとって、あの建築は単なる仕事ではなく、自らの美学と「居場所」への祈りを込めた集大成だった。その道が閉ざされたと聞いた日から、一条さんは再び、以前のような――あるいはそれ以上に酷い、「食事を拒絶する仕事鬼」へと逆戻りしてしまった。
「一条さん、入りますよ」
406号室の空気は、澱み、冷え切っていた。
カーテンは閉め切られ、床にはクシャクシャに丸められた図面が散乱している。
一条さんは、かつての「死神」のような眼差しでデスクに向かっていた。
「……藤代か。悪いが、帰ってくれ。今は何も喉を通らない」
差し出した温かいお茶にも目もくれず、一条さんは低く、拒絶の声を絞り出す。
その頬はこけ、眼鏡の奥の瞳からは生気が失われていた。
かつての孤独な城に、彼は自分から戻ろうとしている。
「食べなきゃダメです。一条さんが倒れたら、誰があの建築の続きを考えるんですか」
「……もう、続きなどない。俺がどれだけ情熱を注ごうと、外側の理屈で一瞬にして無に帰す。……そんなもののために、体を生かしておく必要などない」
その言葉に、僕は胸が張り裂けるような思いがした。
一条さんの「居場所」を作りたいという願いが、世界に拒絶された痛み。
でも、僕は知っている。彼が本当に大切にしていたのは、豪華な美術館という「箱」そのものではないことを。
僕は黙ってキッチンに立った。
今回ばかりは、豪華なお祝い膳も、スタミナのつく肉料理も違う。
僕が取り出したのは、一条さんが以前、海沿いの祖父の家で話してくれた思い出。
――「庭で採れた野菜で作った、温かい味噌汁」。
僕は、宿のスタッフに分けてもらった、少し粗削りだけれど力強い香りのする田舎味噌を鍋に溶いた。
具材は、一条さんの祖父が作っていたという、大ぶりに切った大根と里芋。
それから、今の彼の胃に負担をかけないよう、じっくりと時間をかけて炊き上げた、真っ白なお粥。
コトコトと鍋が鳴る。
出汁の香りが、凍りついた部屋の空気を少しずつ、、ゆっくりと解かしていく。
「……藤代。言ったはずだ。何もいらないと」
「いらなくても、置いておきます。……一条さん。あなたが昔、お祖父さんの家で食べたのは、世界一のデザインの食事でしたか?」
僕は、お盆に乗せたお粥とお味噌汁を、彼のデスクの端に置いた。
「違いますよね。ただ、そこに誰かがいて、自分のために火を使ってくれた。その『温度』が、一条さんを救ったんですよね? ……今の僕にとって、一条さんのプロジェクトがどうなるかは、二の次です。僕が守りたいのは、建築家の一条慧じゃなくて、僕のごはんを食べて『美味しい』って言ってくれる、あなた自身なんです」
一条さんは、ぴくりと肩を震わせた。
「……君は、勝手だな。俺がこれほど絶望しているというのに」
「勝手でいいです。……さあ、食べてください。お祖父さんの味には敵わないかもしれないけど、僕の精一杯の『おかえり』です」
一条さんは、震える手でゆっくりと、お粥の匙を握った。
一口。真っ白なお粥が彼の唇を湿らせ、喉を通っていく。
次に、お味噌汁を啜る。
根菜の甘みが溶け出したその汁を飲み込んだ瞬間、一条さんの目から、大きな涙の粒がポロリとこぼれ落ちた。
「…………。……温かい……」
「……はい」
「……俺は、また見失っていた。……箱の大きさにばかり囚われて、その中にあるはずの、一番大切な光を……」
一条さんは、それから取り憑かれたようにお粥を口に運び、お味噌汁を飲み干した。
空になった器を置いたとき、彼の瞳には、わずかだけれど確かな光が戻っていた。
「藤代。……いや、凪」
一条さんは椅子から立ち上がり、ふらつく足取りで僕に近づくと、その長い腕で僕を強く、強く抱きしめた。
執着ではない。それは、暗い海の底からようやく浮上してきた者が、必死に空気を求めるような、切実な感謝の抱擁だった。
「……もう、大丈夫だ。俺には、帰る場所がある。君が作ってくれる、この場所が……俺の、真の原点だ」
一条さんの涙が、僕の肩を濡らす。
プロジェクトは中断したかもしれない。けれど、一条さんの心の中に、より強固な、決して壊れることのない「家」が建ったことを、僕は確信していた。
「……おかわり、ありますよ。一条さん」
「……ああ。全部、食べる。食べて、また新しく、書き直そう。君と過ごすための、最高の家を」
雨上がりのような、清々しい夜。
僕たちは繋いだ手を離さず、新しい設計図――二人の未来の物語を、再び描き始めた。
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