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14話
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温泉旅行から戻って以来、僕と一条さんの間の空気は、よりいっそう密度を増していた。
一条さんは以前よりも頻繁に僕の名前を呼び、僕がキッチンに立っていると、用もないのに後ろを通って、僕の肩や背中にそっと触れていく。
それは執着というよりも、そこに僕がいることを確認して安心しているような、とても穏やかな仕草だった。
そんなある日の休日。
僕の大学時代からの親友で、今は保育士をしている健斗(けんと)が、僕の部屋に遊びに来ることになった。
「お邪魔しまーす! なんだよ凪、最近連絡が薄いと思ったら、随分と顔色が良くなったじゃないか」
健斗は僕が淹れたコーヒーを飲みながら、ニヤニヤと僕の顔を覗き込んできた。
彼は察しが良く、僕が前の恋人でボロボロになっていた時も、ずっとそばで支えてくれた恩人だ。
「そうかな? ちゃんと自炊するようになったからかな」
「へえ、自炊ねえ。……ところでさ、隣の部屋に住んでる例の『天才建築家』様とはどうなったんだよ? 秘書の人から『救世主』扱いされてるって話だけど」
「えっ、あ、一条さんとは……その、相変わらず週末にごはんを作って、時々一緒にお出かけして……」
僕が言い淀むと、健斗は呆れたように大きな溜息をついた。
「……あのさ、凪。それ、世間一般では『付き合ってる』って言うんだよ? 毎日ごはんを作って、お泊まりして、旅行まで行って。それでお互い『好き』の一言もなし? お前ら、小学生かよ」
「付き合って……ないよ。一条さんは、僕の料理を必要としてくれているだけで……」
「料理だけなわけないだろ。あの無愛想で有名な一条慧が、わざわざ他人のために時間を割くなんて。……お前、自分の価値を低く見積もりすぎ。一条さんにとって、お前がどれだけ特別か、ちゃんと向き合えよ」
健斗の直球すぎる言葉が、胸の奥をチクリと突いた。
分かっている。一条さんの瞳が、僕に向ける熱が、ただの「料理当番」に対するものではないことくらい。
でも、もし言葉にして、この心地よい関係が壊れてしまったら――。
その時、インターホンが鳴った。
「あ、一条さんかな。今日はお菓子を持ってきてくれるって言ってたから」
ドアを開けると、そこには案の定、お洒落なパティスリーの紙袋を手にした一条さんが立っていた。
「……藤代。邪魔だったか? 来客中だと聞いたが」
「いえ、一条さん、入ってください。親友の健斗くんです」
一条さんは健斗を見ると、礼儀正しく、けれどどこか防衛的な、少しだけ冷ややかなオーラを纏って会釈した。
「初めまして。一条です。凪にはいつも世話になっている」
さらりと「凪」と呼び捨てにした一条さんに、健斗の目がキラリと光った。
「初めまして、一条さん! 凪からお噂はかねがね。……いやぁ、一条さんのような素晴らしい方が、凪をこんなに『独占』しているとは。前のカレは凪を全然大事にしなかったから、心配してたんですよ」
「健斗くん! 何言ってるの!」
僕は慌てて健斗を止めようとしたが、一条さんの反応は意外なものだった。
「……前の男の話は、どうでもいい」
一条さんは、僕の隣に自然な動作で立ち、僕の肩に手を置いた。
「今の彼を評価できない人間とは、俺も話が合わないだろう。……凪。この菓子、君が好きなピスタチオのケーキだ。後で一緒に食べよう」
健斗はそれを見て、満足げに僕の耳元で囁いた。
「ほらな? あの目、完全に『俺の居場所だ』って言ってるぞ」
健斗が帰り、二人きりになった夜。
キッチンでケーキを準備していると、一条さんが後ろから包み込むように僕を抱きしめた。
「……一条さん?」
「……あの男に、何を言われたんだ。君が、ずっと考え込んでいるようだったから」
「……健斗くんが、僕たちの関係、なんて呼べばいいのかなって。……一条さんにとって、僕は、何ですか?」
勇気を出して、聞いた。
一条さんは、僕の肩に顎を乗せ、少しだけ困ったように笑った。
「……名前をつけなければ不安か? 俺にとって君は、設計図を引くときも、空を見上げるときも、一番最初に隣にいてほしいと思う存在だ。……これ以上に、相応しい言葉があるなら教えてくれ」
一条さんの腕に、ぎゅっと力がこもる。
執着ではなく、それは大切な宝物を壊さないように守るための、優しい囲い。
「……僕も。一条さんの隣が、一番美味しいって……思います」
言葉にした途端、顔が熱くなった。
僕たちはまだ、「愛してる」とは言わない。
けれど、ピスタチオのケーキを分け合う二人の間には、どんな愛の言葉よりも甘くて、確かな絆が結ばれていた。
一条さんは以前よりも頻繁に僕の名前を呼び、僕がキッチンに立っていると、用もないのに後ろを通って、僕の肩や背中にそっと触れていく。
それは執着というよりも、そこに僕がいることを確認して安心しているような、とても穏やかな仕草だった。
そんなある日の休日。
僕の大学時代からの親友で、今は保育士をしている健斗(けんと)が、僕の部屋に遊びに来ることになった。
「お邪魔しまーす! なんだよ凪、最近連絡が薄いと思ったら、随分と顔色が良くなったじゃないか」
健斗は僕が淹れたコーヒーを飲みながら、ニヤニヤと僕の顔を覗き込んできた。
彼は察しが良く、僕が前の恋人でボロボロになっていた時も、ずっとそばで支えてくれた恩人だ。
「そうかな? ちゃんと自炊するようになったからかな」
「へえ、自炊ねえ。……ところでさ、隣の部屋に住んでる例の『天才建築家』様とはどうなったんだよ? 秘書の人から『救世主』扱いされてるって話だけど」
「えっ、あ、一条さんとは……その、相変わらず週末にごはんを作って、時々一緒にお出かけして……」
僕が言い淀むと、健斗は呆れたように大きな溜息をついた。
「……あのさ、凪。それ、世間一般では『付き合ってる』って言うんだよ? 毎日ごはんを作って、お泊まりして、旅行まで行って。それでお互い『好き』の一言もなし? お前ら、小学生かよ」
「付き合って……ないよ。一条さんは、僕の料理を必要としてくれているだけで……」
「料理だけなわけないだろ。あの無愛想で有名な一条慧が、わざわざ他人のために時間を割くなんて。……お前、自分の価値を低く見積もりすぎ。一条さんにとって、お前がどれだけ特別か、ちゃんと向き合えよ」
健斗の直球すぎる言葉が、胸の奥をチクリと突いた。
分かっている。一条さんの瞳が、僕に向ける熱が、ただの「料理当番」に対するものではないことくらい。
でも、もし言葉にして、この心地よい関係が壊れてしまったら――。
その時、インターホンが鳴った。
「あ、一条さんかな。今日はお菓子を持ってきてくれるって言ってたから」
ドアを開けると、そこには案の定、お洒落なパティスリーの紙袋を手にした一条さんが立っていた。
「……藤代。邪魔だったか? 来客中だと聞いたが」
「いえ、一条さん、入ってください。親友の健斗くんです」
一条さんは健斗を見ると、礼儀正しく、けれどどこか防衛的な、少しだけ冷ややかなオーラを纏って会釈した。
「初めまして。一条です。凪にはいつも世話になっている」
さらりと「凪」と呼び捨てにした一条さんに、健斗の目がキラリと光った。
「初めまして、一条さん! 凪からお噂はかねがね。……いやぁ、一条さんのような素晴らしい方が、凪をこんなに『独占』しているとは。前のカレは凪を全然大事にしなかったから、心配してたんですよ」
「健斗くん! 何言ってるの!」
僕は慌てて健斗を止めようとしたが、一条さんの反応は意外なものだった。
「……前の男の話は、どうでもいい」
一条さんは、僕の隣に自然な動作で立ち、僕の肩に手を置いた。
「今の彼を評価できない人間とは、俺も話が合わないだろう。……凪。この菓子、君が好きなピスタチオのケーキだ。後で一緒に食べよう」
健斗はそれを見て、満足げに僕の耳元で囁いた。
「ほらな? あの目、完全に『俺の居場所だ』って言ってるぞ」
健斗が帰り、二人きりになった夜。
キッチンでケーキを準備していると、一条さんが後ろから包み込むように僕を抱きしめた。
「……一条さん?」
「……あの男に、何を言われたんだ。君が、ずっと考え込んでいるようだったから」
「……健斗くんが、僕たちの関係、なんて呼べばいいのかなって。……一条さんにとって、僕は、何ですか?」
勇気を出して、聞いた。
一条さんは、僕の肩に顎を乗せ、少しだけ困ったように笑った。
「……名前をつけなければ不安か? 俺にとって君は、設計図を引くときも、空を見上げるときも、一番最初に隣にいてほしいと思う存在だ。……これ以上に、相応しい言葉があるなら教えてくれ」
一条さんの腕に、ぎゅっと力がこもる。
執着ではなく、それは大切な宝物を壊さないように守るための、優しい囲い。
「……僕も。一条さんの隣が、一番美味しいって……思います」
言葉にした途端、顔が熱くなった。
僕たちはまだ、「愛してる」とは言わない。
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