限界社畜の僕がお隣の偏食な天才建築家に「美味しい」を教えることになった件~週末ごはんで育むじれったい恋の味~

たら昆布

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13話

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 繁忙期を乗り越えた僕への「報酬」として一条さんが提案したのは、山間にある隠れ家のような温泉宿への旅行だった。
 一条さんが自ら設計に関わったというその宿は、古い木造建築の美しさを活かしつつ、モダンな感性が融合した、彼らしい静謐な空間だった。

 露天風呂から見える紅葉が、夕日に照らされて燃えるように赤い。
 湯上がりの火照った体で、僕たちは宿の離れにある静かな食事処で、地元の食材をふんだんに使った懐石料理を楽しんでいた。

「……一条さん、見てください。この前菜、盛り付けがまるで一つの風景みたいです」

「ああ。空間の余白の使い方が見事だ。ここは俺の恩師でもある、大河原(おおがわら)先生の馴染みの宿でね。彼から教わったのは建築の技術だけじゃない、美学そのものだ」

 一条さんが珍しく饒舌に、自分のルーツについて話してくれている。
 そんな穏やかな空気を変えたのは、隣の個室から出てきた一人の初老の男性だった。

「……おや、慧じゃないか。こんなところで何をしている」

 一条さんの体が、わずかに硬直した。
 そこに立っていたのは、彫りの深い顔立ちをした、厳格そうな雰囲気の男性――一条さんの父親、一条宗一郎(いちじょう そういちろう)氏だった。彼は日本を代表する大企業の役員であり、一条さんとの不仲は佐々木さんからも耳にしていた。

「……父さん。偶然ですね。仕事の休暇です」

「休暇か。コンペの件は聞いた。相変わらず、実利のない芸術家気取りの箱を作っているようだな。……そんなものより、我が社の本社ビルの設計はどうした。身内を蔑ろにして、何が世界だ」

 宗一郎氏の言葉は、鋭い氷の刃のように一条さんを突き刺した。
 隣に座る一条さんの拳が、テーブルの下で固く握られているのが分かる。
 彼は父親にとって、自慢の息子ではなく、自分の野望を叶えるための「道具」に過ぎないのだ。

「……失礼します」

 一条さんは短くそれだけ言うと、食事もそこそこに席を立ってしまった。
 僕は慌てて宗一郎氏に会釈をし、一条さんの後を追った。

 宿の裏手にある、月明かりに照らされた小さな庭園。
 一条さんは池のほとりで、夜風に吹かれながら立ち尽くしていた。

「一条さん……」

「……すまない、凪。見苦しいところを見せた。……あの人と話すと、自分が何のために建築を作っているのか、分からなくなるんだ」

 一条さんの声は、いつも以上に低く、脆かった。

「俺の家には、団欒(だんらん)なんて言葉はなかった。父は常に数字と権力を求め、母はそれに応えるために必死だった。……俺が作った家で、誰かが笑う姿を想像するのが、俺の唯一の救いだった。だが、父に言わせれば、それは無意味な感傷らしい」

 僕は、震える一条さんの背中に、そっと手を置いた。
 この人は、ずっと一人で戦ってきたのだ。冷たいコンクリートの壁に囲まれた、孤独という名の城の中で。

「……一条さん。無意味なんかじゃありません。一条さんの建築は、僕をこんなに幸せにしてくれました。……それに」

 僕は、一条さんの前に回り込み、彼の両手を包み込んだ。

「さっき、お父様と話している時。一条さん、すごく寂しそうな顔をしていました。……今夜は、宿の豪華な料理もいいですけど。……僕に、夜食を作らせてもらえませんか?」

「夜食……? 道具も食材もないだろう」

「宿の方に、少しだけキッチンをお借りします。……一条さんの心が、ちゃんと『家』に帰れるような、そんな味を作りますから」

 一時間後。
 宿のスタッフに無理を言って、厨房の隅で僕が作ったのは、シンプルなお茶漬けだった。
 出汁を丁寧に取り、少しだけ塩を利かせた鮭を焼き、刻んだ大葉を乗せる。

 部屋に戻り、テーブルに置くと、一条さんは不思議そうな顔をしてそのお茶漬けを見つめた。

「……いただきます」

 一口、さらさらと流し込む。
 一条さんの目元が、じわりと潤んでいくのを僕は見逃さなかった。

「……温かい。……父の言葉で凍りついていたところが、溶けていくようだ」

「一条さん。僕は、お父様が言うような『実利』は分かりません。でも、こうして温かいものを食べて、ホッとする。その瞬間のために、一条さんは家を設計しているんですよね?」

「…………。ああ。その通りだ」

 一条さんはお椀を置き、僕を引き寄せて、深く、深く抱きしめた。
 それは執着ではない。孤独な夜を彷徨い続けた旅人が、ようやく見つけた「焚き火」に手をかざすような、切実な安らぎの儀式だった。

「……凪。君は、俺の建築の、最後の、そして最も重要なピースだ。……父の言葉も、世間の評価も、君のこの一杯には敵わない」

 夜風が窓を叩く音がする。
 けれど、この部屋の中だけは、春の陽だまりのような温かさに満ちていた。
 一条さんの孤独を、僕の食事が溶かしていく。
 僕たちは、言葉よりも確かな温度で、互いの存在を刻みつけていた。
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