限界社畜の僕がお隣の偏食な天才建築家に「美味しい」を教えることになった件~週末ごはんで育むじれったい恋の味~

たら昆布

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12話

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 北欧コンペの祝賀パーティーから数日。僕たちの関係は、明確な「恋人」という言葉こそ交わしていないものの、お互いがお互いを一番の味方だと確信し合える、穏やかで特別な段階に移行していた。

 そんな中、今度は僕の勤める広告代理店に、年に一度の繁忙期がやってきた。
 新商品の大規模なプロモーションが重なり、毎日が深夜までの残業。一条さんに夕飯を作ってあげるどころか、自分自身の食事さえも、デスクでかじるゼリー飲料や栄養補助食品で済ませるような日々が続いていた。

「……ふぅ。今日も十一時か……」

 ようやくパソコンを閉じ、重い足取りでマンションへ帰る。
 一条さんには、事前に「しばらく食事は作りにいけない」と伝えてある。佐々木さんが彼を支えてくれているはずだけれど、やっぱりどこかで彼の健康が気にかかってしまう。

 405号室、自分の部屋の前に着いたとき、ふわりと良い匂いが漂ってきた。
 ……出汁の香りと、少しの焦げた匂い。
 不思議に思ってドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。

「……お帰り、凪。遅かったな」

 僕の部屋のキッチンに、あの一条さんが立っていた。
 ワイシャツの袖を捲り、僕のエプロンを少し窮屈そうに着こなし、手には菜箸。
 コンロの上では、卵焼き器がチリチリと音を立てている。

「え、えええっ!? 一条さん、どうして僕の部屋に!? しかも、料理……?」

「佐々木に予備の鍵を預かってもらった。……君はいつも俺の健康を優先して、自分のことを後回しにする。……今度は俺が、君を支える番だと思ったんだが」

 一条さんは少し気まずそうに、皿の上に完成した「物体」を置いた。
 それは、どう見ても形が崩れ、表面が真っ黒に焦げた卵焼きだった。

「……理論上、弱火でじっくり焼けば完璧な黄金色になるはずだったんだ。だが、君のコンロの火力特性が俺の計算と合わなくて……」

 一条さんは、まるで見積もりをミスした新人建築家のように、肩を落として項垂れている。
 見れば、キッチンカウンターには他にも「苦戦の跡」が残っていた。
 切り方が不揃いすぎて、もはや何だったのか分からない野菜の残骸。少し水の量を間違えたのか、柔らかくなりすぎた炊き立てのご飯。

 あの完璧主義な一条さんが、世界的な賞を取ったばかりのその手で、僕一人のために、こんなにも格闘してくれた。

「……ふふ、あははは!」

「……笑うな。俺は真剣だ」

「すみません、でも……一条さん、これ。すごく、すごく嬉しいです」

 僕はカバンを放り出し、一条さんの手から菜箸を奪うと、そのまま彼の腰に腕を回して、その胸に顔を埋めた。
 シャツから香る、焦げた醤油の匂いが、どんな高級レストランの香りよりも愛おしく感じられる。

「一条さん、いただきます。食べさせてください」

「……焦げているぞ。炭の味がするかもしれない」

「いいんです。一条さんが作ってくれたことが、一番の栄養ですから」

 不揃いなおかずを並べ、二人で小さなテーブルを囲む。
 一条さんは僕が一口運ぶたびに、まるでコンクリートの強度検査でもするかのような、鋭くも不安げな視線を向けてくる。

「……どうだ。やはり、君の作るものとは雲泥の差だろう」

「うーん……確かに、卵焼きはちょっと苦いですね。でも、このお味噌汁……すごく美味しい。お豆腐が、一条さんの好きな形に丁寧に切られてます」

 よく見ると、お豆腐は正確な一センチ角の立方体に切り揃えられていた。建築家らしい、あまりにも几帳面すぎる仕事に、僕はまた胸が熱くなる。

「……凪。君がいないキッチンは、広すぎて、寒かった」

 一条さんは、僕の手に自分の手を重ねた。
 
「俺は、君に依存しているわけじゃない。……ただ、君が健やかに、笑って隣にいてくれることが、俺の設計するすべての空間においての『絶対条件』なんだ。……分かってくれるか?」

「……はい。僕も、一条さんに同じことを思っていました」

 外は冷たい夜風が吹いているけれど、この小さなキッチンには、雨上がりの午後のような、陽だまりの温かさが満ちていた。
 
「一条さん。明日の朝、僕がこのお礼に、とっておきのサンドイッチを作ります。だから……今夜は、もう少しだけ一緒にいてもいいですか?」

「……ああ。明日の朝までと言わず、ずっとでも構わないが」

 一条さんが、僕の前髪を優しくかき上げる。
 二人の間に流れるのは、執着ではなく、お互いの存在を慈しむための穏やかな時間。
 
 失敗作の卵焼きを二人で分け合いながら、僕たちはこれからの、もっともっと美味しい未来について、夜が明けるまで語り合った。
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