12 / 28
12話
しおりを挟む
北欧コンペの祝賀パーティーから数日。僕たちの関係は、明確な「恋人」という言葉こそ交わしていないものの、お互いがお互いを一番の味方だと確信し合える、穏やかで特別な段階に移行していた。
そんな中、今度は僕の勤める広告代理店に、年に一度の繁忙期がやってきた。
新商品の大規模なプロモーションが重なり、毎日が深夜までの残業。一条さんに夕飯を作ってあげるどころか、自分自身の食事さえも、デスクでかじるゼリー飲料や栄養補助食品で済ませるような日々が続いていた。
「……ふぅ。今日も十一時か……」
ようやくパソコンを閉じ、重い足取りでマンションへ帰る。
一条さんには、事前に「しばらく食事は作りにいけない」と伝えてある。佐々木さんが彼を支えてくれているはずだけれど、やっぱりどこかで彼の健康が気にかかってしまう。
405号室、自分の部屋の前に着いたとき、ふわりと良い匂いが漂ってきた。
……出汁の香りと、少しの焦げた匂い。
不思議に思ってドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……お帰り、凪。遅かったな」
僕の部屋のキッチンに、あの一条さんが立っていた。
ワイシャツの袖を捲り、僕のエプロンを少し窮屈そうに着こなし、手には菜箸。
コンロの上では、卵焼き器がチリチリと音を立てている。
「え、えええっ!? 一条さん、どうして僕の部屋に!? しかも、料理……?」
「佐々木に予備の鍵を預かってもらった。……君はいつも俺の健康を優先して、自分のことを後回しにする。……今度は俺が、君を支える番だと思ったんだが」
一条さんは少し気まずそうに、皿の上に完成した「物体」を置いた。
それは、どう見ても形が崩れ、表面が真っ黒に焦げた卵焼きだった。
「……理論上、弱火でじっくり焼けば完璧な黄金色になるはずだったんだ。だが、君のコンロの火力特性が俺の計算と合わなくて……」
一条さんは、まるで見積もりをミスした新人建築家のように、肩を落として項垂れている。
見れば、キッチンカウンターには他にも「苦戦の跡」が残っていた。
切り方が不揃いすぎて、もはや何だったのか分からない野菜の残骸。少し水の量を間違えたのか、柔らかくなりすぎた炊き立てのご飯。
あの完璧主義な一条さんが、世界的な賞を取ったばかりのその手で、僕一人のために、こんなにも格闘してくれた。
「……ふふ、あははは!」
「……笑うな。俺は真剣だ」
「すみません、でも……一条さん、これ。すごく、すごく嬉しいです」
僕はカバンを放り出し、一条さんの手から菜箸を奪うと、そのまま彼の腰に腕を回して、その胸に顔を埋めた。
シャツから香る、焦げた醤油の匂いが、どんな高級レストランの香りよりも愛おしく感じられる。
「一条さん、いただきます。食べさせてください」
「……焦げているぞ。炭の味がするかもしれない」
「いいんです。一条さんが作ってくれたことが、一番の栄養ですから」
不揃いなおかずを並べ、二人で小さなテーブルを囲む。
一条さんは僕が一口運ぶたびに、まるでコンクリートの強度検査でもするかのような、鋭くも不安げな視線を向けてくる。
「……どうだ。やはり、君の作るものとは雲泥の差だろう」
「うーん……確かに、卵焼きはちょっと苦いですね。でも、このお味噌汁……すごく美味しい。お豆腐が、一条さんの好きな形に丁寧に切られてます」
よく見ると、お豆腐は正確な一センチ角の立方体に切り揃えられていた。建築家らしい、あまりにも几帳面すぎる仕事に、僕はまた胸が熱くなる。
「……凪。君がいないキッチンは、広すぎて、寒かった」
一条さんは、僕の手に自分の手を重ねた。
「俺は、君に依存しているわけじゃない。……ただ、君が健やかに、笑って隣にいてくれることが、俺の設計するすべての空間においての『絶対条件』なんだ。……分かってくれるか?」
「……はい。僕も、一条さんに同じことを思っていました」
外は冷たい夜風が吹いているけれど、この小さなキッチンには、雨上がりの午後のような、陽だまりの温かさが満ちていた。
「一条さん。明日の朝、僕がこのお礼に、とっておきのサンドイッチを作ります。だから……今夜は、もう少しだけ一緒にいてもいいですか?」
「……ああ。明日の朝までと言わず、ずっとでも構わないが」
一条さんが、僕の前髪を優しくかき上げる。
二人の間に流れるのは、執着ではなく、お互いの存在を慈しむための穏やかな時間。
失敗作の卵焼きを二人で分け合いながら、僕たちはこれからの、もっともっと美味しい未来について、夜が明けるまで語り合った。
そんな中、今度は僕の勤める広告代理店に、年に一度の繁忙期がやってきた。
新商品の大規模なプロモーションが重なり、毎日が深夜までの残業。一条さんに夕飯を作ってあげるどころか、自分自身の食事さえも、デスクでかじるゼリー飲料や栄養補助食品で済ませるような日々が続いていた。
「……ふぅ。今日も十一時か……」
ようやくパソコンを閉じ、重い足取りでマンションへ帰る。
一条さんには、事前に「しばらく食事は作りにいけない」と伝えてある。佐々木さんが彼を支えてくれているはずだけれど、やっぱりどこかで彼の健康が気にかかってしまう。
405号室、自分の部屋の前に着いたとき、ふわりと良い匂いが漂ってきた。
……出汁の香りと、少しの焦げた匂い。
不思議に思ってドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……お帰り、凪。遅かったな」
僕の部屋のキッチンに、あの一条さんが立っていた。
ワイシャツの袖を捲り、僕のエプロンを少し窮屈そうに着こなし、手には菜箸。
コンロの上では、卵焼き器がチリチリと音を立てている。
「え、えええっ!? 一条さん、どうして僕の部屋に!? しかも、料理……?」
「佐々木に予備の鍵を預かってもらった。……君はいつも俺の健康を優先して、自分のことを後回しにする。……今度は俺が、君を支える番だと思ったんだが」
一条さんは少し気まずそうに、皿の上に完成した「物体」を置いた。
それは、どう見ても形が崩れ、表面が真っ黒に焦げた卵焼きだった。
「……理論上、弱火でじっくり焼けば完璧な黄金色になるはずだったんだ。だが、君のコンロの火力特性が俺の計算と合わなくて……」
一条さんは、まるで見積もりをミスした新人建築家のように、肩を落として項垂れている。
見れば、キッチンカウンターには他にも「苦戦の跡」が残っていた。
切り方が不揃いすぎて、もはや何だったのか分からない野菜の残骸。少し水の量を間違えたのか、柔らかくなりすぎた炊き立てのご飯。
あの完璧主義な一条さんが、世界的な賞を取ったばかりのその手で、僕一人のために、こんなにも格闘してくれた。
「……ふふ、あははは!」
「……笑うな。俺は真剣だ」
「すみません、でも……一条さん、これ。すごく、すごく嬉しいです」
僕はカバンを放り出し、一条さんの手から菜箸を奪うと、そのまま彼の腰に腕を回して、その胸に顔を埋めた。
シャツから香る、焦げた醤油の匂いが、どんな高級レストランの香りよりも愛おしく感じられる。
「一条さん、いただきます。食べさせてください」
「……焦げているぞ。炭の味がするかもしれない」
「いいんです。一条さんが作ってくれたことが、一番の栄養ですから」
不揃いなおかずを並べ、二人で小さなテーブルを囲む。
一条さんは僕が一口運ぶたびに、まるでコンクリートの強度検査でもするかのような、鋭くも不安げな視線を向けてくる。
「……どうだ。やはり、君の作るものとは雲泥の差だろう」
「うーん……確かに、卵焼きはちょっと苦いですね。でも、このお味噌汁……すごく美味しい。お豆腐が、一条さんの好きな形に丁寧に切られてます」
よく見ると、お豆腐は正確な一センチ角の立方体に切り揃えられていた。建築家らしい、あまりにも几帳面すぎる仕事に、僕はまた胸が熱くなる。
「……凪。君がいないキッチンは、広すぎて、寒かった」
一条さんは、僕の手に自分の手を重ねた。
「俺は、君に依存しているわけじゃない。……ただ、君が健やかに、笑って隣にいてくれることが、俺の設計するすべての空間においての『絶対条件』なんだ。……分かってくれるか?」
「……はい。僕も、一条さんに同じことを思っていました」
外は冷たい夜風が吹いているけれど、この小さなキッチンには、雨上がりの午後のような、陽だまりの温かさが満ちていた。
「一条さん。明日の朝、僕がこのお礼に、とっておきのサンドイッチを作ります。だから……今夜は、もう少しだけ一緒にいてもいいですか?」
「……ああ。明日の朝までと言わず、ずっとでも構わないが」
一条さんが、僕の前髪を優しくかき上げる。
二人の間に流れるのは、執着ではなく、お互いの存在を慈しむための穏やかな時間。
失敗作の卵焼きを二人で分け合いながら、僕たちはこれからの、もっともっと美味しい未来について、夜が明けるまで語り合った。
20
あなたにおすすめの小説
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
美澄の顔には抗えない。
米奏よぞら
BL
スパダリ美形攻め×流され面食い受け
高校時代に一目惚れした相手と勢いで付き合ったはいいものの、徐々に相手の熱が冷めていっていることに限界を感じた主人公のお話です。
※なろう、カクヨムでも掲載中です。
【1話完結】あなたの恋人は毎夜わたしのベッドで寝てますよ。
ariya
ファンタジー
ソフィア・ラテットは、婚約者アレックスから疎まれていた。
彼の傍らには、いつも愛らしい恋人リリアンヌ。
婚約者の立場として注意しても、アレックスは聞く耳を持たない。
そして迎えた学園卒業パーティー。
ソフィアは公衆の面前で婚約破棄を言い渡される。
ガッツポーズを決めるリリアンヌ。
そのままアレックスに飛び込むかと思いきや――
彼女が抱きついた先は、ソフィアだった。
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?
krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」
突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。
なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!?
全力すれ違いラブコメファンタジーBL!
支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。
結婚間近だったのに、殿下の皇太子妃に選ばれたのは僕だった
釦
BL
皇太子妃を輩出する家系に産まれた主人公は半ば政略的な結婚を控えていた。
にも関わらず、皇太子が皇妃に選んだのは皇太子妃争いに参加していない見目のよくない五男の主人公だった、というお話。
目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?
綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。
湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。
そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。
その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる