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19話
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成田空港の出発ロビーは、平日の午前中にもかかわらず、多くの旅人で活気づいていた。
僕の荷物は、必要最低限を詰めたスーツケースが二つ。対して一条さんは、仕事道具を詰め込んだ大きなトランクを数個、佐々木さんに運ばせていた。
「藤代様、一条様をよろしくお願いします。……一条様が、自ら日本を離れる決断をなさるなんて、最初聞いたときは耳を疑いましたよ」
チェックインを待つ間、佐々木さんが僕にこっそりと耳打ちした。
「でも、一条様も必死だったんですよ。仕事の合間に、ずっとシンガポールの文化や……あ、そうそう、広東語の勉強までされていて。藤代様に現地で不自由な思いをさせないようにって」
「……えっ。一条さんが、広東語を?」
驚いて隣を見ると、一条さんは無表情を装いながら、搭乗口の案内板を凝視していた。けれど、その指先が少しだけ忙しなく動いている。彼は、僕が知らないところで、僕を支えるための「武器」を一生懸命に手に入れようとしていたのだ。
離陸の轟音とともに、機体は厚い雲を突き抜けた。
窓の外に広がる、一面の雲海。
隣り合った席で、一条さんは機内誌を眺めていたが、やがてそれを閉じ、僕の方を向いた。
「……佐々木に何か余計なことを聞いたか」
「……広東語、勉強してくれてたんですね」
「……現地には多言語が飛び交っている。俺一人なら英語で十分だが、君が市場へ買い物に行ったり、現地のコミュニティに入るとき、俺が隣でサポートできないのは非効率だと思っただけだ」
一条さんは相変わらず理屈っぽい言葉を並べるけれど、その声は、どこまでも優しかった。
「一条さん。……僕のために、そこまでしなくても……」
「凪。勘違いするな」
一条さんは、僕の手をそっと握り、指を絡ませた。
「俺は、君を守るために行くんじゃない。……君という、俺にとって唯一の『住まい』を、世界のどこへ行っても維持したいだけだ。……君がいなければ、俺はまた、ただの空虚な箱を作ってしまう建築家に戻る」
一条さんは、深く息をつき、僕の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺は君に、現地の食材で、現地のスパイスで、新しい料理を作ってほしい。そしてそれを、一番に俺に食べさせてほしい。……そのためのコストなら、俺は喜んで支払う。……これは、俺の人生における、最大の先行投資だ」
彼は、僕が僕らしく新しい環境で羽ばたけるように、そのための土台になろうとしてくれている。
「……僕も。シンガポールで、一条さんが驚くくらい美味しいごはん、作ります。……『チキンライス』とか、研究しなきゃですね」
「ああ。……君の作るものなら、毒でも食べる」
「あはは、毒は入れませんよ」
高度一万メートルの空の上。
小さな座席に並んで座る僕たちの間には、もはや国境も、過去の傷も、何の意味も持たなかった。
シンガポールまで、あと数時間。
新しい街、新しい空気、新しい味。
二人で描く設計図は、今、ようやく真っ白な大地に最初の一線を引いたばかりだ。
僕たちは、繋いだ手の温もりを確かめ合いながら、期待と少しの不安を乗せて、南の国へと降り立とうとしていた。
僕の荷物は、必要最低限を詰めたスーツケースが二つ。対して一条さんは、仕事道具を詰め込んだ大きなトランクを数個、佐々木さんに運ばせていた。
「藤代様、一条様をよろしくお願いします。……一条様が、自ら日本を離れる決断をなさるなんて、最初聞いたときは耳を疑いましたよ」
チェックインを待つ間、佐々木さんが僕にこっそりと耳打ちした。
「でも、一条様も必死だったんですよ。仕事の合間に、ずっとシンガポールの文化や……あ、そうそう、広東語の勉強までされていて。藤代様に現地で不自由な思いをさせないようにって」
「……えっ。一条さんが、広東語を?」
驚いて隣を見ると、一条さんは無表情を装いながら、搭乗口の案内板を凝視していた。けれど、その指先が少しだけ忙しなく動いている。彼は、僕が知らないところで、僕を支えるための「武器」を一生懸命に手に入れようとしていたのだ。
離陸の轟音とともに、機体は厚い雲を突き抜けた。
窓の外に広がる、一面の雲海。
隣り合った席で、一条さんは機内誌を眺めていたが、やがてそれを閉じ、僕の方を向いた。
「……佐々木に何か余計なことを聞いたか」
「……広東語、勉強してくれてたんですね」
「……現地には多言語が飛び交っている。俺一人なら英語で十分だが、君が市場へ買い物に行ったり、現地のコミュニティに入るとき、俺が隣でサポートできないのは非効率だと思っただけだ」
一条さんは相変わらず理屈っぽい言葉を並べるけれど、その声は、どこまでも優しかった。
「一条さん。……僕のために、そこまでしなくても……」
「凪。勘違いするな」
一条さんは、僕の手をそっと握り、指を絡ませた。
「俺は、君を守るために行くんじゃない。……君という、俺にとって唯一の『住まい』を、世界のどこへ行っても維持したいだけだ。……君がいなければ、俺はまた、ただの空虚な箱を作ってしまう建築家に戻る」
一条さんは、深く息をつき、僕の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺は君に、現地の食材で、現地のスパイスで、新しい料理を作ってほしい。そしてそれを、一番に俺に食べさせてほしい。……そのためのコストなら、俺は喜んで支払う。……これは、俺の人生における、最大の先行投資だ」
彼は、僕が僕らしく新しい環境で羽ばたけるように、そのための土台になろうとしてくれている。
「……僕も。シンガポールで、一条さんが驚くくらい美味しいごはん、作ります。……『チキンライス』とか、研究しなきゃですね」
「ああ。……君の作るものなら、毒でも食べる」
「あはは、毒は入れませんよ」
高度一万メートルの空の上。
小さな座席に並んで座る僕たちの間には、もはや国境も、過去の傷も、何の意味も持たなかった。
シンガポールまで、あと数時間。
新しい街、新しい空気、新しい味。
二人で描く設計図は、今、ようやく真っ白な大地に最初の一線を引いたばかりだ。
僕たちは、繋いだ手の温もりを確かめ合いながら、期待と少しの不安を乗せて、南の国へと降り立とうとしていた。
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