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20話
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機体がチャンギ国際空港の滑走路に滑り込んだ瞬間、窓の外には鮮やかな緑と、日本では見たこともないような巨大な熱帯の樹々が広がっていた。
タラップを降りると、全身を包み込むような、湿り気を帯びた熱い空気。
僕と一条さんの、シンガポールでの新しい生活が、今ここから始まる。
一条さんが現地での拠点として用意していたのは、オーチャード・ロードに近い、超高層のサービスレジデンスだった。
全面ガラス張りのリビングからは、マリーナ・ベイ・サンズを遠くに望む絶景が広がり、キッチンには最新鋭の海外製家電が整然と並んでいる。
「……すごいですね、一条さん。まるでSF映画の中みたいだ」
「機能性は完璧だ。……だが、やはりここもまだ『箱』に過ぎないな」
一条さんは、荷解きもせずにリビングの真ん中に立ち、少しだけ疲れたように眉間を揉んだ。
慣れない異国の地、そして到着早々に始まる現地のデベロッパーとの打ち合わせ。
いくら天才建築家といえど、この環境の変化は彼にとって大きな負荷になっているはずだ。
「一条さん、今日はもう休んでください。……僕、ちょっと近所を見てきます。夜には、何か美味しいものを作りますから」
「……ああ。すまない、凪。……無理はするなよ」
僕は一条さんの背中をそっと押し、空のスーツケースをクローゼットに仕舞うと、一人で街へ飛び出した。
目指したのは、高級なショッピングモールではなく、地元のエネルギーが渦巻く「ホーカーセンター(屋台街)」だ。
熱気と、スパイスの混じり合った強烈な匂い。多種多様な言語が飛び交い、大勢の人がプラスチックの椅子に座って、湯気の立つ皿を囲んでいる。
……あ、これだ。
僕が探していたのは、一条さんが求めていた「温度」のヒントだった。
シンガポールの人々にとって、食事は単なる栄養補給じゃない。それは、家族や仲間と繋がり、一日を肯定するための、最も賑やかで温かな儀式なのだ。
僕は市場(ウェットマーケット)を歩き回り、現地の食材を買い込んだ。
見たこともない野菜、不思議な形のスパイス。広東語で話しかけてくる店主のおばさんに、一条さんから教わった拙い挨拶を返すと、彼女は笑って山盛りの生姜をおまけしてくれた。
レジデンスに戻り、僕はさっそくキッチンに立った。
今日作るメニューは、シンガポールのソウルフードである「バクテー(肉骨茶)」。
けれど、ただの現地の味じゃない。一条さんの疲れた胃を労わり、日本の出汁の優しさを隠し味に加えた、僕なりの「和風・シンガポール飯」だ。
たっぷりのニンニクと黒胡椒、そしてスペアリブ。そこに、日本から持ってきた昆布と干し椎茸の出汁を合わせる。
グツグツと鍋が鳴るたびに、無機質だったガラス張りの部屋に、生活の匂いが染み込んでいく。
「……凪? 何か良い匂いがするな」
寝室で仮眠を取っていた一条さんが、香りに誘われるように起きてきた。
「一条さん、起きたんですか。……ちょうどできましたよ。シンガポールの最初のごはんです」
テーブルに並べたのは、琥珀色に透き通ったバクテーのスープと、ジャスミンライスの炊き込みご飯。
一条さんは椅子に座り、じっとスープを見つめた。
「……バクテーか。だが、現地のものよりずっと香りが柔らかいな」
「一条さん、お疲れでしょう? 現地のスパイスだけだと刺激が強いと思ったので、日本のお出汁をベースにしたんです。……まずはスープを飲んでみてください」
一条さんはレンゲを手に取り、ゆっくりと汁を啜った。
一口。二口。
彼の目元が、ふわりと緩んでいく。
「…………。……ああ。……生き返る、な」
一条さんは、じっくりと煮込まれた肉を口に運び、それからスープに浸したご飯を頬張った。
「不思議だ。ここはシンガポールなのに、君が作ったものを食べると、俺は今、世界で一番安全で、温かい場所にいると感じる。……凪、君は魔法使いか?」
「魔法なんて使いませんよ。ただ、一条さんに『おかえり』って言いたかっただけです」
「……そうか。……お前の言う通りだ。ここはもう、ただのホテルじゃない。俺たちの、家だ」
一条さんは食事を終えると、窓の外の夜景を指差した。
宝石を散りばめたような街の光。
「凪。明日はこの街で、俺が設計する新しいビルの視察に行く。……その帰り、二人でこの街の家具屋を回らないか? この部屋に、もっと君の『色』を足したいんだ」
「……はい! ぜひ、一緒に行きたいです」
執着なんて言葉は、この南国の熱気に溶けて消えてしまった。
僕たちにあるのは、お互いの存在を喜び合い、新しい場所を自分たちの「居場所」へと変えていく、前向きなエネルギーだけだ。
シンガポールの第一夜。
僕たちは、窓の外の知らない星空を見上げながら、同じ温度のスープで心を満たし、深く、安らかな眠りについた。
設計図の第二章は、まだ始まったばかり。
けれど、凪の作るごはんがある限り、一条慧の建築に迷いが生じることは、もう二度とないだろう。
タラップを降りると、全身を包み込むような、湿り気を帯びた熱い空気。
僕と一条さんの、シンガポールでの新しい生活が、今ここから始まる。
一条さんが現地での拠点として用意していたのは、オーチャード・ロードに近い、超高層のサービスレジデンスだった。
全面ガラス張りのリビングからは、マリーナ・ベイ・サンズを遠くに望む絶景が広がり、キッチンには最新鋭の海外製家電が整然と並んでいる。
「……すごいですね、一条さん。まるでSF映画の中みたいだ」
「機能性は完璧だ。……だが、やはりここもまだ『箱』に過ぎないな」
一条さんは、荷解きもせずにリビングの真ん中に立ち、少しだけ疲れたように眉間を揉んだ。
慣れない異国の地、そして到着早々に始まる現地のデベロッパーとの打ち合わせ。
いくら天才建築家といえど、この環境の変化は彼にとって大きな負荷になっているはずだ。
「一条さん、今日はもう休んでください。……僕、ちょっと近所を見てきます。夜には、何か美味しいものを作りますから」
「……ああ。すまない、凪。……無理はするなよ」
僕は一条さんの背中をそっと押し、空のスーツケースをクローゼットに仕舞うと、一人で街へ飛び出した。
目指したのは、高級なショッピングモールではなく、地元のエネルギーが渦巻く「ホーカーセンター(屋台街)」だ。
熱気と、スパイスの混じり合った強烈な匂い。多種多様な言語が飛び交い、大勢の人がプラスチックの椅子に座って、湯気の立つ皿を囲んでいる。
……あ、これだ。
僕が探していたのは、一条さんが求めていた「温度」のヒントだった。
シンガポールの人々にとって、食事は単なる栄養補給じゃない。それは、家族や仲間と繋がり、一日を肯定するための、最も賑やかで温かな儀式なのだ。
僕は市場(ウェットマーケット)を歩き回り、現地の食材を買い込んだ。
見たこともない野菜、不思議な形のスパイス。広東語で話しかけてくる店主のおばさんに、一条さんから教わった拙い挨拶を返すと、彼女は笑って山盛りの生姜をおまけしてくれた。
レジデンスに戻り、僕はさっそくキッチンに立った。
今日作るメニューは、シンガポールのソウルフードである「バクテー(肉骨茶)」。
けれど、ただの現地の味じゃない。一条さんの疲れた胃を労わり、日本の出汁の優しさを隠し味に加えた、僕なりの「和風・シンガポール飯」だ。
たっぷりのニンニクと黒胡椒、そしてスペアリブ。そこに、日本から持ってきた昆布と干し椎茸の出汁を合わせる。
グツグツと鍋が鳴るたびに、無機質だったガラス張りの部屋に、生活の匂いが染み込んでいく。
「……凪? 何か良い匂いがするな」
寝室で仮眠を取っていた一条さんが、香りに誘われるように起きてきた。
「一条さん、起きたんですか。……ちょうどできましたよ。シンガポールの最初のごはんです」
テーブルに並べたのは、琥珀色に透き通ったバクテーのスープと、ジャスミンライスの炊き込みご飯。
一条さんは椅子に座り、じっとスープを見つめた。
「……バクテーか。だが、現地のものよりずっと香りが柔らかいな」
「一条さん、お疲れでしょう? 現地のスパイスだけだと刺激が強いと思ったので、日本のお出汁をベースにしたんです。……まずはスープを飲んでみてください」
一条さんはレンゲを手に取り、ゆっくりと汁を啜った。
一口。二口。
彼の目元が、ふわりと緩んでいく。
「…………。……ああ。……生き返る、な」
一条さんは、じっくりと煮込まれた肉を口に運び、それからスープに浸したご飯を頬張った。
「不思議だ。ここはシンガポールなのに、君が作ったものを食べると、俺は今、世界で一番安全で、温かい場所にいると感じる。……凪、君は魔法使いか?」
「魔法なんて使いませんよ。ただ、一条さんに『おかえり』って言いたかっただけです」
「……そうか。……お前の言う通りだ。ここはもう、ただのホテルじゃない。俺たちの、家だ」
一条さんは食事を終えると、窓の外の夜景を指差した。
宝石を散りばめたような街の光。
「凪。明日はこの街で、俺が設計する新しいビルの視察に行く。……その帰り、二人でこの街の家具屋を回らないか? この部屋に、もっと君の『色』を足したいんだ」
「……はい! ぜひ、一緒に行きたいです」
執着なんて言葉は、この南国の熱気に溶けて消えてしまった。
僕たちにあるのは、お互いの存在を喜び合い、新しい場所を自分たちの「居場所」へと変えていく、前向きなエネルギーだけだ。
シンガポールの第一夜。
僕たちは、窓の外の知らない星空を見上げながら、同じ温度のスープで心を満たし、深く、安らかな眠りについた。
設計図の第二章は、まだ始まったばかり。
けれど、凪の作るごはんがある限り、一条慧の建築に迷いが生じることは、もう二度とないだろう。
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