限界社畜の僕がお隣の偏食な天才建築家に「美味しい」を教えることになった件~週末ごはんで育むじれったい恋の味~

たら昆布

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21話

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 シンガポールでの生活が始まって一ヶ月。赤道直下の強烈な太陽と、一日に一度は街を塗りつぶすような激しいスコールにも、僕たちの体は少しずつ馴染み始めていた。
 一条さんは現地の設計事務所と提携し、早くも大きなプロジェクトに着手している。それは、シンガポール屈指の不動産王として知られるタン氏の、広大な私邸の設計だった。

「……話にならない」

 ある日の夕方、土砂降りの雨音とともに帰宅した一条さんは、玄関で靴を脱ぐなり、珍しく感情を露わにして図面ケースをソファに放り出した。

「どうしたんですか、一条さん。打ち合わせ、うまくいかなかったんですか?」

「クライアントのタン氏だ。彼は建築を『権威の象徴』としか見ていない。金に糸目はつけないから、とにかく派手で、威圧感のある、成金趣味の城を作れと言い張る。……俺が提案した、自然光と風の通り道を重視した設計案を、彼は『貧乏臭い』と一蹴したんだ」

 一条さんは、濡れた髪を苛立たしげにかき上げた。
 彼にとって、建築は住む人の心を安らげるためのもの。けれど、今回の相手はそれとは真逆の価値観を持つ人物だった。

「一条さん。……一度、タンさんをこのレジデンスにお招きしませんか?」

「……正気か、凪? 彼は世界中の美食を食い尽くしている男だ。こんな場所で何を出すつもりだ」

「豪華なフレンチや中華じゃ、彼の心は動かないと思います。……一条さんが大切にしている『温度』を、僕の料理で彼に伝えてみたいんです。彼だって、一人の人間なんですから」

 僕は一条さんの瞳を真っ直ぐに見つめた。一条さんはしばらく黙っていたが、やがて小さく溜息をつき、僕の頬を軽く突いた。

「……君のその、根拠のない自信にはいつも救われる。……分かった、セッティングしよう」

 ◇

 三日後の夜。
 レジデンスを訪れたタン氏は、仕立ての良いシルクのシャツを纏い、鋭い審美眼で室内を睥睨していた。

「一条先生。君がこんな質素な……失礼、ミニマムな生活をしているとは驚きだ。私の邸宅も、もっとこう、黄金の柱や大理石の彫刻で埋め尽くすべきだと思わないかね?」

 タン氏の声は傲慢だったが、どこか疲れを含んでいるように僕には聞こえた。
 僕は静かに、最初の一皿を差し出した。

「タン様。本日はようこそ。……まずは、こちらの『冷製・柚子胡椒おひたし』をどうぞ」

 それは、現地の新鮮なオクラとヤングコーンを、日本から取り寄せた最高級の出汁に浸し、ほんの少しの柚子胡椒と柚子の皮を散らしただけの、極めてシンプルな料理だ。

「……ほう。随分と控えめな料理だな」

 タン氏は懐疑的な様子で一口運んだ。
 その瞬間、彼の眉間の皺が、わずかに解けた。

「…………これは。……この香りは、何だ? 鼻に抜ける爽やかさと、後から来る微かな刺激……」

「日本の柚子です。シンガポールの熱気の中で、少しでもタン様の心が涼やかになればと思い、用意しました。……豪華な装飾は、時に人を疲れさせます。ですが、この出汁の香りのように、目には見えないけれど『心地よいもの』が、本当の贅沢ではないでしょうか」

 僕は続けて、メインの「和牛の西京焼き・シンガポールハーブ添え」を運んだ。
 白味噌の甘みと、現地のパクチーやレモングラスの香りが、口の中で驚くほど調和する。

「……一条先生。君のパートナーが作るこの料理には、君の図面に足りなかった……いや、私が忘れていた『静寂』がある」

 タン氏は箸を置き、大きく息を吐き出した。

「私はこれまで、他人に自分を大きく見せることばかりに執心してきた。……だが、今、この質素な部屋でこの料理を食べていると、幼い頃、スコールの音を聞きながら母が作ってくれた質素な粥を思い出す。……派手な城など、いらんな。私が本当に求めていたのは、外の喧騒を忘れ、自分自身に帰れる場所だったのかもしれない」

 一条さんは、驚いたようにタン氏を見つめた。
 そして、そっと僕の手をテーブルの下で握った。

「タン氏。……今の言葉で、新しい図面が見えました。……華やかさではなく、豊かさを。光と影、そして風が奏でる、貴方だけの『静寂の家』を設計させてください」

「……期待しているよ、一条先生。……それと、藤代さん。この柚子の香り……また、食べに来てもいいかね?」

「もちろんです。タン様」

 パーティーが終わり、タン氏を見送った後。
 僕たちは、窓の外で止んだばかりの雨上がりの夜景を見つめていた。

「……凪。君は、最高の外交官だな」

 一条さんは後ろから僕を抱きしめ、首筋に深く顔を埋めた。

「俺が言葉を尽くしても届かなかった壁を、君はたった一皿の料理で壊してしまった。……君といると、俺の建築はどこまでも自由になれる」

「……僕はただ、一条さんが困っているのを助けたかっただけですよ。……でも、タンさん、最後はすごく優しい顔をしていましたね」

「ああ。……あんな顔、初めて見た。……凪。明日は、俺が何か君に作ろう。……君の好きな、あの少し焦げた卵焼きに、柚子を入れてみるのはどうだ?」

「ふふ、それはちょっと苦いかもしれませんね」

 異国の地、シンガポール。
 執着も野心も、美味しいごはんの前では形を変えていく。
 僕たちは、二人の未来を繋ぐ新しい設計図を、柚子の残り香が漂う部屋で、いつまでも眺めていた。
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