限界社畜の僕がお隣の偏食な天才建築家に「美味しい」を教えることになった件~週末ごはんで育むじれったい恋の味~

たら昆布

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22話

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 日本から届いた「国立美術館プロジェクト」の再打診。それは建築家・一条慧にとっての悲願であった。
 けれど、その手紙を読んだ僕の心には、喜びと同じくらいの重い葛藤がのしかかっていた。

「一条さん……プロジェクト、受けるべきです。それは分かってます。でも……僕はまだ、ここに来て二ヶ月なんです」

 ダイニングテーブルに広げたのは、僕の雇用契約書だった。
 三年間。それが、僕がこのシンガポール支社で果たすべき責任であり、僕自身が「誰かの付属品」ではなく、一人の社会人として自立するために勝ち取った時間だ。

「……分かっている。君を日本へ連れ戻すことは、君のキャリアを殺すことだ。それは俺が一番したくないことだと言ったはずだ」

 一条さんは、手紙を静かに封筒に戻した。
 日本に戻れば、彼はプロジェクトの責任者として、現場を離れることはできない。一方で、僕はシンガポールに三年間の任期がある。
 かつての僕たちなら、どちらかが自分を押し殺して相手に従っていたかもしれない。けれど、今の僕たちは違う。

「一条さん、日本に帰ってください。……僕は、ここに残ります。この三年間、僕もここで精一杯戦ってみたいんです」

 僕の言葉に、一条さんは一瞬だけ、痛みに耐えるように目を伏せた。
 けれどすぐに顔を上げ、僕の瞳を真っ直ぐに射抜いた。

「……三年間、離れて暮らすというのか。……君のいない食卓に、俺が耐えられると思うか?」

「耐えてください。……その代わり、三ヶ月に一度は、僕が日本に帰るか、一条さんがこっちに来るかしましょう。……今の時代、ビデオ通話だってあります。画面越しに、一緒に夕食を食べましょう」

 一条さんは立ち上がり、僕の隣に来て、その大きな手で僕の頭を抱え込んだ。
 
「……凪。君は、本当に強くなったな。……かつての君なら、泣いて俺に付いてきただろう。……今の君は、俺を置いていくことを選べるほどに、自分を信じている」

「……一条さんが、僕をそうしてくれたんです。……僕の料理を『救済だ』って言ってくれたから、僕は自分の居場所に自信が持てた。だから……今度は、僕がいない場所でも、一条さんがちゃんと前を向けるって、僕に証明してください」

 一条さんは深く息を吐き、僕の額にそっと唇を寄せた。

「……条件がある。……三年間。この期間を、俺たちが『本当の家族』になるための試用期間としよう。……三年後、君が任期を終えて日本に帰ってきたその日、俺が設計した『理想のキッチン』がある家で、俺と結婚してくれ」

「……っ、一条、さん……」

「契約だ、凪。……拒否権はない。……三年間、俺は日本で最高の美術館を建てる。君はここで、世界に通用する広告マンになれ。……そして三年後、俺たちは誰よりも強い絆で、同じ食卓を囲むんだ」

 一条さんの言葉は、プロポーズというよりも、神聖な設計図の共有だった。
お互いの成長のために「待つ」ことを選ぶ。
 それは、相手を信じ切っていなければできない、最も贅沢な愛の形。

「……はい。……三年間、寂しくないとは言えません。でも……約束します。三年後、もっと美味しくなった僕を、迎えに来てください」

 それからの日々は、嵐のように過ぎ去った。
 一条さんの日本への帰国準備。そして、僕の本格的な現地業務の開始。
 出発の朝、チャンギ空港のロビーで、僕たちは最後の手を繋いだ。

「一条さん。……これ、渡しておきます」

 僕は、一冊のノートを手渡した。
 そこには、一条さんが日本でも一人で作れる、僕の特製出汁の取り方や、彼が好きなメニューの簡略レシピが、びっしりと書き込まれていた。

「……合理的だな。これがあれば、俺の栄養失調は防げるというわけか」

「ふふ、愛情もたっぷり込めて書きましたから。……行ってらっしゃい、一条さん」

「……行ってくる。……凪、愛している」

 一条さんは、大勢の人が行き交うロビーで、僕を力一杯抱きしめた。
 彼が背を向け、搭乗口へと消えていく。
 僕は泣かなかった。
 見上げたシンガポールの空は、どこまでも高く、蒼かった。

 三年間。
 それは長いかもしれないけれど、僕たちがこれから何十年と一緒に過ごす時間を思えば、ほんの少しのスパイスのようなものだ。
 
 僕は一人、レジデンスへの帰路についた。
 そこにはもう、一条さんはいない。けれど、キッチンに残った彼の気配と、ノートに込めた僕の想いが、僕を支えてくれる。
 
 さあ、仕事に行こう。
 三年後の「美味しい約束」のために。
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