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23話
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シンガポールの高層ビル群に沈む夕日は、日本のそれよりも力強く、焦がれるようなオレンジ色をしていた。
一条さんが日本へ帰国してから、一年。
僕のシンガポールでの生活は、当初の予想を遥かに超える忙しさに包まれていた。現地の飲料メーカーのナショナルキャンペーンを任され、多言語が飛び交う会議、文化の壁にぶつかる撮影現場。かつての僕なら逃げ出していたような重圧も、今の僕は「一条さんの隣に胸を張って立つための修行」だと思って楽しんでいた。
一方、日本の一条さんも、美術館プロジェクトの着工という最大の山場を迎えていた。
最初の数ヶ月は、毎晩のようにビデオ通話で「今夜は何を食べた?」「そっちは雨?」と報告し合っていたけれど、最近はお互いの時差と多忙が重なり、メッセージのやり取りさえ途絶えがちになっていた。
「……あ、佐々木さん? お疲れ様です、お久しぶりです」
深夜、オフィスで独りプレゼン資料を作っていた僕のスマホに、一条さんの秘書である佐々木さんから着信があった。
『藤代様、夜分に恐縮です。……実は、一条様のことで。……いえ、お怪我とか病気ではないのですが、どうにも最近、根を詰めすぎておいでで。美術館の設計変更で一週間ほど事務所に泊まり込んでおりまして、先ほどお顔を拝見したら、帰国直後のような……あの、死神のような目に戻っていらしたんです』
佐々木さんの声は、真剣に心配しているようだった。
僕が手渡したレシピノート。彼はそれを開く暇さえないのかもしれない。
「……分かりました。佐々木さん、明日の午後、一条さんの事務所に届くように『荷物』を送ります。彼に無理やりでも食べさせてください」
電話を切った僕は、翌朝、一睡もせずにキッチンへ向かった。
シンガポールで手に入れた、最高級の「テッカ・マーケット」の乾燥スパイス。それに、日本から持ってきた最後の一袋の鰹節。
僕が作ったのは、僕たちの思い出を詰め込んだ『特製スパイス出汁パック』と、長期保存が効くように丁寧に味を凝縮させた『焼き味噌の瓶詰め』だ。
さらに、現地の有名店で見つけた、お湯を注ぐだけで本場の味が再現できる「ドライ・ラクサ」のベースを忍ばせた。
◇
二日後の深夜。日本時間は午前一時を回った頃。
僕のスマホが震えた。ビデオ通話の着信。画面に映し出されたのは、無精髭をうっすらと生やし、酷く疲弊した、けれどどこか憑き物が落ちたような顔の一条さんだった。
「……凪か。起こしたか」
「一条さん! お疲れ様です。……佐々木さんから受け取りました?」
一条さんは、画面の向こうでマグカップを掲げて見せた。
中には、僕が送った焼き味噌とお湯だけで作った、即席のお味噌汁。
「……これを飲んだ瞬間、事務所に君がいるような気がした。……不思議だな、ただの味噌と出汁のはずなのに、設計図を引く手が震えなくなった」
「一条さん……無理しすぎです。美術館が大事なのは分かるけど、あなたが壊れたら、誰がその場所に魂を込めるんですか」
画面越しの彼は、僕の言葉を噛みしめるように目を閉じた。
「……ああ。……この一年、俺はまた『数字』と『工期』という名の迷宮に迷い込んでいた。……だが、この香りを嗅いで思い出した。俺が作りたいのは、君がこうして、誰かの健康を祈って火を使うための、そういう場所だったはずだと」
一条さんは、マグカップを大切そうに両手で包み込んだ。
その仕草は、一年前、僕の部屋で初めてお粥を食べたときと同じだった。
「凪。……シンガポールの風は、どうだ」
「……暑いですよ。でも、一条さんに教わった広東語で、市場のおばちゃんと喧嘩できるくらいには強くなりました。……一条さんは? 美術館の基礎、できましたか?」
「ああ。……地下の配筋が終わったところだ。……三年後、君が帰ってくる頃には、世界で一番美しい夕日が見えるテラスが完成している」
一万キロの距離。
電波越しに共有する、深夜の食事の時間。
僕たちは直接触れ合うことはできないけれど、僕が込めた出汁の旨味と、一条さんが語る建築への情熱は、確かに重なり合っていた。
「……凪。……早く、会いたい」
「……僕も。……でも、あと二年。最高の僕になって、そのテラスで一条さんの隣に座ります」
画面の中の一条さんが、少しだけ照れくさそうに、けれど愛おしそうに微笑んだ。
執着心に突き動かされていた頃の彼は、もうどこにもいない。
今の彼は、離れているからこそ募る「愛着」を、仕事のエネルギーに変える術を知っている。
僕たちは、一万キロ離れた場所で、それぞれの「最高の居場所」を築き続けていた。
いつか再び、一つの食卓で、同じ湯気を吸い込むその日まで。
一条さんが日本へ帰国してから、一年。
僕のシンガポールでの生活は、当初の予想を遥かに超える忙しさに包まれていた。現地の飲料メーカーのナショナルキャンペーンを任され、多言語が飛び交う会議、文化の壁にぶつかる撮影現場。かつての僕なら逃げ出していたような重圧も、今の僕は「一条さんの隣に胸を張って立つための修行」だと思って楽しんでいた。
一方、日本の一条さんも、美術館プロジェクトの着工という最大の山場を迎えていた。
最初の数ヶ月は、毎晩のようにビデオ通話で「今夜は何を食べた?」「そっちは雨?」と報告し合っていたけれど、最近はお互いの時差と多忙が重なり、メッセージのやり取りさえ途絶えがちになっていた。
「……あ、佐々木さん? お疲れ様です、お久しぶりです」
深夜、オフィスで独りプレゼン資料を作っていた僕のスマホに、一条さんの秘書である佐々木さんから着信があった。
『藤代様、夜分に恐縮です。……実は、一条様のことで。……いえ、お怪我とか病気ではないのですが、どうにも最近、根を詰めすぎておいでで。美術館の設計変更で一週間ほど事務所に泊まり込んでおりまして、先ほどお顔を拝見したら、帰国直後のような……あの、死神のような目に戻っていらしたんです』
佐々木さんの声は、真剣に心配しているようだった。
僕が手渡したレシピノート。彼はそれを開く暇さえないのかもしれない。
「……分かりました。佐々木さん、明日の午後、一条さんの事務所に届くように『荷物』を送ります。彼に無理やりでも食べさせてください」
電話を切った僕は、翌朝、一睡もせずにキッチンへ向かった。
シンガポールで手に入れた、最高級の「テッカ・マーケット」の乾燥スパイス。それに、日本から持ってきた最後の一袋の鰹節。
僕が作ったのは、僕たちの思い出を詰め込んだ『特製スパイス出汁パック』と、長期保存が効くように丁寧に味を凝縮させた『焼き味噌の瓶詰め』だ。
さらに、現地の有名店で見つけた、お湯を注ぐだけで本場の味が再現できる「ドライ・ラクサ」のベースを忍ばせた。
◇
二日後の深夜。日本時間は午前一時を回った頃。
僕のスマホが震えた。ビデオ通話の着信。画面に映し出されたのは、無精髭をうっすらと生やし、酷く疲弊した、けれどどこか憑き物が落ちたような顔の一条さんだった。
「……凪か。起こしたか」
「一条さん! お疲れ様です。……佐々木さんから受け取りました?」
一条さんは、画面の向こうでマグカップを掲げて見せた。
中には、僕が送った焼き味噌とお湯だけで作った、即席のお味噌汁。
「……これを飲んだ瞬間、事務所に君がいるような気がした。……不思議だな、ただの味噌と出汁のはずなのに、設計図を引く手が震えなくなった」
「一条さん……無理しすぎです。美術館が大事なのは分かるけど、あなたが壊れたら、誰がその場所に魂を込めるんですか」
画面越しの彼は、僕の言葉を噛みしめるように目を閉じた。
「……ああ。……この一年、俺はまた『数字』と『工期』という名の迷宮に迷い込んでいた。……だが、この香りを嗅いで思い出した。俺が作りたいのは、君がこうして、誰かの健康を祈って火を使うための、そういう場所だったはずだと」
一条さんは、マグカップを大切そうに両手で包み込んだ。
その仕草は、一年前、僕の部屋で初めてお粥を食べたときと同じだった。
「凪。……シンガポールの風は、どうだ」
「……暑いですよ。でも、一条さんに教わった広東語で、市場のおばちゃんと喧嘩できるくらいには強くなりました。……一条さんは? 美術館の基礎、できましたか?」
「ああ。……地下の配筋が終わったところだ。……三年後、君が帰ってくる頃には、世界で一番美しい夕日が見えるテラスが完成している」
一万キロの距離。
電波越しに共有する、深夜の食事の時間。
僕たちは直接触れ合うことはできないけれど、僕が込めた出汁の旨味と、一条さんが語る建築への情熱は、確かに重なり合っていた。
「……凪。……早く、会いたい」
「……僕も。……でも、あと二年。最高の僕になって、そのテラスで一条さんの隣に座ります」
画面の中の一条さんが、少しだけ照れくさそうに、けれど愛おしそうに微笑んだ。
執着心に突き動かされていた頃の彼は、もうどこにもいない。
今の彼は、離れているからこそ募る「愛着」を、仕事のエネルギーに変える術を知っている。
僕たちは、一万キロ離れた場所で、それぞれの「最高の居場所」を築き続けていた。
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