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24話
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シンガポールでの任期も残り半年を切った頃。僕は支社でのプロジェクトを次々と成功させ、本社への「凱旋帰国」と昇進の内定を勝ち取っていた。
かつて「誰かの世話を焼くことでしか自分の価値を見出せない」と泣いていた僕は、もういない。今の僕は、自分の足でこの熱帯の地を歩き、自分の言葉で世界と対峙している。
そんなある日の夕方。
退勤しようとロビーに降りた僕を待っていたのは、信じられない人物だった。
「……凪。久しぶりだな。随分と、垢抜けたじゃないか」
そこに立っていたのは、僕に「重い」と呪いをかけて去っていった元カレ、拓海だった。
彼は以前よりも少しやつれた様子で、けれど相変わらずの傲慢な笑みを浮かべて僕を品定めするように見ていた。
「拓海……? どうしてここに」
「お前の噂を聞いたんだ。シンガポールで大活躍してるってな。……正直、驚いたよ。お前みたいな尽くすだけの男が、海外でバリバリやってるなんて。……なぁ、凪。やっぱり俺、お前がいないとダメなんだ。あの建築家の男とも、どうせ遠距離でうまくいってないんだろ? 日本に戻ったら、またやり直さないか」
拓海の手が、僕の腕に伸びる。
一年前の僕なら、その手に触れられただけで、過去の恐怖と依存心が蘇って動けなくなっていたかもしれない。
けれど、今の僕は、その手を冷ややかに見つめ、静かに振り払った。
「悪いけど、拓海。君が知っている『僕』は、もうどこにもいないんだ」
「なんだよ、強気だな。どうせあいつの金で贅沢して、勘違いしてるだけだろ?」
「……勘違いじゃないよ。僕は、一条さんに相応しい自分になるために、ここで戦ってきたんだ。君に蔑まれていたあの頃の自分を、僕はもう許して、卒業したんだよ」
その時だった。
ロビーの自動ドアが勢いよく開き、湿り気を帯びた熱風とともに、一人の男が踏み込んできた。
黒いスーツを乱し、肩で息をしながら、鋭い眼光を放つその姿――。
「……一条、さん……!?」
日本にいるはずの、プロジェクトの真っ只中にいるはずの一条さんが、そこに立っていた。
「……一条慧……! なんでお前がここに……!」
驚愕する拓海を無視して、一条さんは大股で僕に近づくと、僕の肩を抱き寄せ、そのまま拓海の前に立ち塞がった。
「……以前も言ったはずだ。彼に二度と近づくなと。……それから、訂正しておこう。俺が彼に投資しているのではない。彼が俺の人生に、計り知れない豊かさを与えてくれているんだ。君のような、人の献身を搾取することしか知らない人間に、今の彼を語る資格はない」
一条さんの声は、以前の刺々しい冷たさではなく、深い慈愛と、絶対に譲らないという強固な意志に満ちていた。
「どうして……仕事は……?」
「佐々木に無理を言って、一日だけスケジュールを空けた。……君の元に、害虫が湧いたと聞いてな。……一万キロなど、俺にとっては君のキッチンまでの距離と変わらない」
一条さんは拓海を一瞥もせず、僕だけを見つめた。
「凪。……こいつに、何か言われたか?」
「……ううん。大丈夫。一条さんのおかげで、僕、ちゃんと自分の言葉で断れたよ。……今の僕は、一条さんの隣が一番似合うって、胸を張って言えるから」
拓海は、僕たちの間に流れる、部外者が一歩も立ち入れないほどの強固な絆に気圧されたのか、舌打ちをして逃げるように去っていった。
外では、激しいスコールが降り始めていた。
ホテルのロビーで、僕たちは再会を噛みしめるように、見つめ合った。
「……一条さん。本当に、今日中に日本に帰らなきゃいけないの?」
「ああ。深夜便で戻る。……だが、今日、君の顔を見て、確信した。……君はもう、俺が守らなくても大丈夫なほどに輝いている。……それが、少しだけ寂しくもあり、誇らしくもある」
一条さんは僕の頬を両手で包み、スコールの音に負けないくらいの熱い口づけを交わした。
「……あと半年だ。凪。……日本で、最高の『家』を完成させて待っている」
「……はい。僕も、世界で一番の『おかえり』を準備して帰ります」
一万キロを飛び越えて駆けつけた一条さんの、不器用で、けれど真っ直ぐな献身。
それは執着ではなく、お互いの自立を認め合った末に辿り着いた、真実の愛の形だった。
僕たちは土砂降りの雨の中、繋いだ手を一度も離さず、新しい未来への一歩を力強く踏み出した。
かつて「誰かの世話を焼くことでしか自分の価値を見出せない」と泣いていた僕は、もういない。今の僕は、自分の足でこの熱帯の地を歩き、自分の言葉で世界と対峙している。
そんなある日の夕方。
退勤しようとロビーに降りた僕を待っていたのは、信じられない人物だった。
「……凪。久しぶりだな。随分と、垢抜けたじゃないか」
そこに立っていたのは、僕に「重い」と呪いをかけて去っていった元カレ、拓海だった。
彼は以前よりも少しやつれた様子で、けれど相変わらずの傲慢な笑みを浮かべて僕を品定めするように見ていた。
「拓海……? どうしてここに」
「お前の噂を聞いたんだ。シンガポールで大活躍してるってな。……正直、驚いたよ。お前みたいな尽くすだけの男が、海外でバリバリやってるなんて。……なぁ、凪。やっぱり俺、お前がいないとダメなんだ。あの建築家の男とも、どうせ遠距離でうまくいってないんだろ? 日本に戻ったら、またやり直さないか」
拓海の手が、僕の腕に伸びる。
一年前の僕なら、その手に触れられただけで、過去の恐怖と依存心が蘇って動けなくなっていたかもしれない。
けれど、今の僕は、その手を冷ややかに見つめ、静かに振り払った。
「悪いけど、拓海。君が知っている『僕』は、もうどこにもいないんだ」
「なんだよ、強気だな。どうせあいつの金で贅沢して、勘違いしてるだけだろ?」
「……勘違いじゃないよ。僕は、一条さんに相応しい自分になるために、ここで戦ってきたんだ。君に蔑まれていたあの頃の自分を、僕はもう許して、卒業したんだよ」
その時だった。
ロビーの自動ドアが勢いよく開き、湿り気を帯びた熱風とともに、一人の男が踏み込んできた。
黒いスーツを乱し、肩で息をしながら、鋭い眼光を放つその姿――。
「……一条、さん……!?」
日本にいるはずの、プロジェクトの真っ只中にいるはずの一条さんが、そこに立っていた。
「……一条慧……! なんでお前がここに……!」
驚愕する拓海を無視して、一条さんは大股で僕に近づくと、僕の肩を抱き寄せ、そのまま拓海の前に立ち塞がった。
「……以前も言ったはずだ。彼に二度と近づくなと。……それから、訂正しておこう。俺が彼に投資しているのではない。彼が俺の人生に、計り知れない豊かさを与えてくれているんだ。君のような、人の献身を搾取することしか知らない人間に、今の彼を語る資格はない」
一条さんの声は、以前の刺々しい冷たさではなく、深い慈愛と、絶対に譲らないという強固な意志に満ちていた。
「どうして……仕事は……?」
「佐々木に無理を言って、一日だけスケジュールを空けた。……君の元に、害虫が湧いたと聞いてな。……一万キロなど、俺にとっては君のキッチンまでの距離と変わらない」
一条さんは拓海を一瞥もせず、僕だけを見つめた。
「凪。……こいつに、何か言われたか?」
「……ううん。大丈夫。一条さんのおかげで、僕、ちゃんと自分の言葉で断れたよ。……今の僕は、一条さんの隣が一番似合うって、胸を張って言えるから」
拓海は、僕たちの間に流れる、部外者が一歩も立ち入れないほどの強固な絆に気圧されたのか、舌打ちをして逃げるように去っていった。
外では、激しいスコールが降り始めていた。
ホテルのロビーで、僕たちは再会を噛みしめるように、見つめ合った。
「……一条さん。本当に、今日中に日本に帰らなきゃいけないの?」
「ああ。深夜便で戻る。……だが、今日、君の顔を見て、確信した。……君はもう、俺が守らなくても大丈夫なほどに輝いている。……それが、少しだけ寂しくもあり、誇らしくもある」
一条さんは僕の頬を両手で包み、スコールの音に負けないくらいの熱い口づけを交わした。
「……あと半年だ。凪。……日本で、最高の『家』を完成させて待っている」
「……はい。僕も、世界で一番の『おかえり』を準備して帰ります」
一万キロを飛び越えて駆けつけた一条さんの、不器用で、けれど真っ直ぐな献身。
それは執着ではなく、お互いの自立を認め合った末に辿り着いた、真実の愛の形だった。
僕たちは土砂降りの雨の中、繋いだ手を一度も離さず、新しい未来への一歩を力強く踏み出した。
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