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25話
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チャンギ国際空港の熱気に見送られ、僕はついに日本への帰国便に乗った。
三年前、自分に自信が持てないままこの地へ降り立った僕は、もういない。手元には、シンガポール支社での功績を称える表彰状と、現地で書き溜めた数百もの「新しい味」のレシピノート、そして何より、一人で三年間を戦い抜いたという確かな自負があった。
成田空港の到着ロビー。自動ドアが開いた瞬間、頬を撫でたのは、懐かしい日本の、少し肌寒くも凛とした春の風だった。
「……凪」
大勢の出迎え客の中で、一際目立つ長身の男がそこにいた。
三年前よりも少しだけ目尻に優しさを湛えた、僕の最愛の建築家。一条慧。
彼は僕を見つけるなり、周囲の目も憚らずに僕をその腕の中に閉じ込めた。
「一条さん……ただいま。……少し、痩せました?」
「君がいない三年間、レシピノートを頼りに自炊を試みたが……やはり、君が引く出汁の繊細さまでは再現できなかった。……よく帰ってきたな。本当に、よく頑張った」
一条さんの声が、耳元で震えている。
僕たちは言葉を交わすのももどかしく、一条さんが自らハンドルを握る車に乗り込んだ。
向かった先は、以前住んでいたあのマンションではなかった。
都心から少し離れた、青い海を一望できる高台。そこには、三年前のあの日、二人で方眼紙に描いた夢が、現実の建築として静かに佇んでいた。
「……これ、一条さんが?」
「ああ。美術館のプロジェクトの合間を縫って、ここだけは一線も譲らずに俺自身が引いた。……さあ、入れ。今日からここが、君の城だ」
玄関を開けると、木の温もりと、どこか懐かしい石鹸の香りがした。
リビングを通り抜け、僕の目に飛び込んできたのは、あの「理想のキッチン」だった。
一条さんのワークスペースと地続きになった、広いカウンター。
窓からは朝の光が差し込み、シンクの高さも、スパイスラックの位置も、すべてが僕の身体に馴染むように設計されている。
けれど、図面にはなかった「変更点」がひとつだけあった。
キッチンの正面、一番いい景色が見える特等席に、小さな、けれど重厚な木製の食卓が置かれていた。その椅子は、二つ。
「一条さん……このテーブルは?」
「図面を引いている途中で気づいたんだ。俺に必要なのは、完璧な動線でも、美しい景観でもない。……君が作ったものを、君の隣で、君の顔を見ながら食べる時間だ。……だから、俺の書斎を削って、ダイニングを広げた」
一条さんは僕の手を引き、そのテーブルへと導いた。
テーブルの上には、小さな白い箱が置かれている。
「凪。三年前の約束を、今ここで果たしたい」
箱が開かれると、そこにはシンプルながらも力強い光を放つ、プラチナの指輪が二つ、寄り添うように並んでいた。
「建築は、土台がしっかりしていなければ、どんなに美しくても崩れてしまう。……俺にとって、人生の土台は君だ。君という帰る場所があるから、俺は何度でも、世界に向けて新しい理想を描ける」
一条さんは僕の左手をとり、ゆっくりと指輪を滑らせた。
「凪。……俺と、この家で、一生同じスープを啜ってくれないか」
視界が涙で滲んで、キッチンが、海が、一条さんの笑顔が、キラキラと輝いて見える。
「……はい。……もちろんです。一条さん。……今日からは、毎日、僕があなたの隣でごはんを作ります。……三年間待たせた分、とびきり美味しい、一生分のメニューを準備してきましたから」
僕は泣きながら笑って、一条さんの胸に飛び込んだ。
僕たちは、お互いを尊重し、それぞれの場所で成長し、そして再び出会った。
このキッチンは、ただの料理を作る場所じゃない。
二人の愛が熟成され、新しい思い出が生まれていく、世界で一番温かい聖域だ。
「一条さん。……お腹、空いてますか?」
「ああ。猛烈に。……君が作る、あの少し甘い卵焼きが食べたい」
「ふふ、おまかせください」
僕はエプロンを締め、三年の月日を経てさらに深みを増した僕の「味」を披露するために、キッチンに立った。
コトコトと鳴り始めた鍋の音。トントントンと響く包丁のリズム。
それは、二人の新しい人生の、最高に美味しい序曲だった。
三年前、自分に自信が持てないままこの地へ降り立った僕は、もういない。手元には、シンガポール支社での功績を称える表彰状と、現地で書き溜めた数百もの「新しい味」のレシピノート、そして何より、一人で三年間を戦い抜いたという確かな自負があった。
成田空港の到着ロビー。自動ドアが開いた瞬間、頬を撫でたのは、懐かしい日本の、少し肌寒くも凛とした春の風だった。
「……凪」
大勢の出迎え客の中で、一際目立つ長身の男がそこにいた。
三年前よりも少しだけ目尻に優しさを湛えた、僕の最愛の建築家。一条慧。
彼は僕を見つけるなり、周囲の目も憚らずに僕をその腕の中に閉じ込めた。
「一条さん……ただいま。……少し、痩せました?」
「君がいない三年間、レシピノートを頼りに自炊を試みたが……やはり、君が引く出汁の繊細さまでは再現できなかった。……よく帰ってきたな。本当に、よく頑張った」
一条さんの声が、耳元で震えている。
僕たちは言葉を交わすのももどかしく、一条さんが自らハンドルを握る車に乗り込んだ。
向かった先は、以前住んでいたあのマンションではなかった。
都心から少し離れた、青い海を一望できる高台。そこには、三年前のあの日、二人で方眼紙に描いた夢が、現実の建築として静かに佇んでいた。
「……これ、一条さんが?」
「ああ。美術館のプロジェクトの合間を縫って、ここだけは一線も譲らずに俺自身が引いた。……さあ、入れ。今日からここが、君の城だ」
玄関を開けると、木の温もりと、どこか懐かしい石鹸の香りがした。
リビングを通り抜け、僕の目に飛び込んできたのは、あの「理想のキッチン」だった。
一条さんのワークスペースと地続きになった、広いカウンター。
窓からは朝の光が差し込み、シンクの高さも、スパイスラックの位置も、すべてが僕の身体に馴染むように設計されている。
けれど、図面にはなかった「変更点」がひとつだけあった。
キッチンの正面、一番いい景色が見える特等席に、小さな、けれど重厚な木製の食卓が置かれていた。その椅子は、二つ。
「一条さん……このテーブルは?」
「図面を引いている途中で気づいたんだ。俺に必要なのは、完璧な動線でも、美しい景観でもない。……君が作ったものを、君の隣で、君の顔を見ながら食べる時間だ。……だから、俺の書斎を削って、ダイニングを広げた」
一条さんは僕の手を引き、そのテーブルへと導いた。
テーブルの上には、小さな白い箱が置かれている。
「凪。三年前の約束を、今ここで果たしたい」
箱が開かれると、そこにはシンプルながらも力強い光を放つ、プラチナの指輪が二つ、寄り添うように並んでいた。
「建築は、土台がしっかりしていなければ、どんなに美しくても崩れてしまう。……俺にとって、人生の土台は君だ。君という帰る場所があるから、俺は何度でも、世界に向けて新しい理想を描ける」
一条さんは僕の左手をとり、ゆっくりと指輪を滑らせた。
「凪。……俺と、この家で、一生同じスープを啜ってくれないか」
視界が涙で滲んで、キッチンが、海が、一条さんの笑顔が、キラキラと輝いて見える。
「……はい。……もちろんです。一条さん。……今日からは、毎日、僕があなたの隣でごはんを作ります。……三年間待たせた分、とびきり美味しい、一生分のメニューを準備してきましたから」
僕は泣きながら笑って、一条さんの胸に飛び込んだ。
僕たちは、お互いを尊重し、それぞれの場所で成長し、そして再び出会った。
このキッチンは、ただの料理を作る場所じゃない。
二人の愛が熟成され、新しい思い出が生まれていく、世界で一番温かい聖域だ。
「一条さん。……お腹、空いてますか?」
「ああ。猛烈に。……君が作る、あの少し甘い卵焼きが食べたい」
「ふふ、おまかせください」
僕はエプロンを締め、三年の月日を経てさらに深みを増した僕の「味」を披露するために、キッチンに立った。
コトコトと鳴り始めた鍋の音。トントントンと響く包丁のリズム。
それは、二人の新しい人生の、最高に美味しい序曲だった。
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