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26話
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一条慧がすべてを懸けて再設計した「国立美術館」の開館当日。
日本のみならず世界中のメディアが注目する中、その建物は、海からの風と陽光を最大限に取り込んだ、まるで呼吸をしているかのような優美な姿を現した。
コンクリートとガラスという無機質な素材を使いながらも、そこに足を踏み入れる誰もが「誰かの家に招かれたような温かさ」を感じる。それは、建築家・一条慧が凪との生活で手に入れた「温度」そのものだった。
盛大な式典が終わり、多くの来賓が去った後の閉館間際。
一条さんは、この建物で最も美しいと言われる、海に突き出した「光のテラス」に僕を呼び出した。
「……一条さん、本当におめでとうございます。素晴らしい美術館ですね」
夕日に染まる水平線を背に立つ一条さんは、以前のような張り詰めた影は微塵もなく、ただ一人の充足した男の顔をしていた。
「凪。この場所の、本当の名前を知っているか」
「名前? 国立美術館の『光のテラス』じゃないんですか?」
「表向きはな。だが、俺の中でのコードネームは違う。……ここは『凪への招待状』だ」
一条さんは僕の隣に並び、海を見つめた。
「君がシンガポールで戦っていた三年間、俺は毎日、このテラスで君と過ごす時間を想像して図面を引いた。……孤独だった俺が、初めて『誰かと分かち合いたい』と願って作った空間だ。ここにあるすべての曲線は、君がキッチンで野菜を切る時のリズムから着想を得た。ここにあるすべての光は、君が『美味しい』と笑った時の輝きを再現しようとしたものだ」
一条さんの告白に、僕は胸がいっぱいになり、言葉を失った。
世界中が賞賛する名建築が、実は僕とのささやかな食卓の記憶から生まれていたなんて。
「……一条さん。僕はただ、あなたにごはんを作っていただけですよ」
「その『だけ』が、俺のすべてだったんだ」
一条さんは僕の手をとり、指輪が光る薬指に、そっと自分の指を絡ませた。
「人は、家がなければ生きていけない。だが、家があっても、そこに『愛着』がなければ、ただの箱だ。……君は俺という空っぽの箱に、味と、香りと、体温を流し込んでくれた。……凪、俺はもう、君のいない未来を設計することはできない」
水平線に日が沈み、空が深い群青色へと溶けていく。
一条さんは僕を力強く抱き寄せ、その広い胸に僕を閉じ込めた。
三年前、前の恋人に「重い」と捨てられ、自分の居場所を失っていた僕は、今、世界で一番美しく、頑丈な「愛」という名の建築物の中に守られている。
「……ねえ、一条さん。これからの、お祝いの献立、決めてもいいですか?」
僕が顔を見上げて尋ねると、一条さんは悪戯っぽく、けれど最高に幸せそうに目を細めた。
「ああ。君の決めるメニューなら、一生従うと決めている」
「今夜は、一番シンプルに。炊き立てのごはんと、具だくさんの豚汁にしましょう。隠し味に、シンガポールで覚えたあのスパイスを少しだけ入れて。……それから、一条さんが頑張って特訓した、あのちょっと焦げた卵焼きも、一皿だけ添えてください」
「……ふっ。俺の失敗作も、君の献立には必要なのか?」
「もちろんです。あれは、一条さんが僕を想ってくれた、大切な『過程』の味ですから」
僕たちは、誰もいない美術館のテラスで、ゆっくりと歩き出した。
これから帰る、二人で設計したあの家へ。
あそこには、僕たちがこれから何十年とかけて書き足していく、終わらない献立表が待っている。
春には、苦味の効いた山菜を。
夏には、喉越しの良い冷たい麺を。
秋には、香ばしい焼き魚を。
冬には、二人で一つの鍋を囲んで。
僕の作るごはんが、彼の心を満たし、彼の引く線が、僕たちの世界を広げていく。
「一条さん。愛しています」
「……ああ。俺もだ、凪。……一生、俺の隣で、美味しい音を響かせてくれ」
二人の影が、月明かりの下で一つに重なる。
それは、どんな設計図よりも完璧で、どんな料理よりも芳醇な、幸福の完成図だった。
夜風に乗って、遠くから波の音が聞こえてくる。
僕たちの新しい人生は、今、最初の一口を味わい始めたばかりだ。
(完)
日本のみならず世界中のメディアが注目する中、その建物は、海からの風と陽光を最大限に取り込んだ、まるで呼吸をしているかのような優美な姿を現した。
コンクリートとガラスという無機質な素材を使いながらも、そこに足を踏み入れる誰もが「誰かの家に招かれたような温かさ」を感じる。それは、建築家・一条慧が凪との生活で手に入れた「温度」そのものだった。
盛大な式典が終わり、多くの来賓が去った後の閉館間際。
一条さんは、この建物で最も美しいと言われる、海に突き出した「光のテラス」に僕を呼び出した。
「……一条さん、本当におめでとうございます。素晴らしい美術館ですね」
夕日に染まる水平線を背に立つ一条さんは、以前のような張り詰めた影は微塵もなく、ただ一人の充足した男の顔をしていた。
「凪。この場所の、本当の名前を知っているか」
「名前? 国立美術館の『光のテラス』じゃないんですか?」
「表向きはな。だが、俺の中でのコードネームは違う。……ここは『凪への招待状』だ」
一条さんは僕の隣に並び、海を見つめた。
「君がシンガポールで戦っていた三年間、俺は毎日、このテラスで君と過ごす時間を想像して図面を引いた。……孤独だった俺が、初めて『誰かと分かち合いたい』と願って作った空間だ。ここにあるすべての曲線は、君がキッチンで野菜を切る時のリズムから着想を得た。ここにあるすべての光は、君が『美味しい』と笑った時の輝きを再現しようとしたものだ」
一条さんの告白に、僕は胸がいっぱいになり、言葉を失った。
世界中が賞賛する名建築が、実は僕とのささやかな食卓の記憶から生まれていたなんて。
「……一条さん。僕はただ、あなたにごはんを作っていただけですよ」
「その『だけ』が、俺のすべてだったんだ」
一条さんは僕の手をとり、指輪が光る薬指に、そっと自分の指を絡ませた。
「人は、家がなければ生きていけない。だが、家があっても、そこに『愛着』がなければ、ただの箱だ。……君は俺という空っぽの箱に、味と、香りと、体温を流し込んでくれた。……凪、俺はもう、君のいない未来を設計することはできない」
水平線に日が沈み、空が深い群青色へと溶けていく。
一条さんは僕を力強く抱き寄せ、その広い胸に僕を閉じ込めた。
三年前、前の恋人に「重い」と捨てられ、自分の居場所を失っていた僕は、今、世界で一番美しく、頑丈な「愛」という名の建築物の中に守られている。
「……ねえ、一条さん。これからの、お祝いの献立、決めてもいいですか?」
僕が顔を見上げて尋ねると、一条さんは悪戯っぽく、けれど最高に幸せそうに目を細めた。
「ああ。君の決めるメニューなら、一生従うと決めている」
「今夜は、一番シンプルに。炊き立てのごはんと、具だくさんの豚汁にしましょう。隠し味に、シンガポールで覚えたあのスパイスを少しだけ入れて。……それから、一条さんが頑張って特訓した、あのちょっと焦げた卵焼きも、一皿だけ添えてください」
「……ふっ。俺の失敗作も、君の献立には必要なのか?」
「もちろんです。あれは、一条さんが僕を想ってくれた、大切な『過程』の味ですから」
僕たちは、誰もいない美術館のテラスで、ゆっくりと歩き出した。
これから帰る、二人で設計したあの家へ。
あそこには、僕たちがこれから何十年とかけて書き足していく、終わらない献立表が待っている。
春には、苦味の効いた山菜を。
夏には、喉越しの良い冷たい麺を。
秋には、香ばしい焼き魚を。
冬には、二人で一つの鍋を囲んで。
僕の作るごはんが、彼の心を満たし、彼の引く線が、僕たちの世界を広げていく。
「一条さん。愛しています」
「……ああ。俺もだ、凪。……一生、俺の隣で、美味しい音を響かせてくれ」
二人の影が、月明かりの下で一つに重なる。
それは、どんな設計図よりも完璧で、どんな料理よりも芳醇な、幸福の完成図だった。
夜風に乗って、遠くから波の音が聞こえてくる。
僕たちの新しい人生は、今、最初の一口を味わい始めたばかりだ。
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