記憶喪失のフリをしたあざといスパイですが、全部お見通しの皇帝陛下に「嘘の婚約者」として閉じ込められています

たら昆布

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18話

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 離宮の午後は、相変わらず静かで穏やかだった。
 ヴァルは「公務など紙屑だ」と豪語していたが、さすがに一国の皇帝ともなれば、そうも言っていられないらしい。サンルームの片隅に特設されたデスクで、彼は眉間に険しい皺を刻みながら、山のような書類と格闘していた。

 ロロは、そんなヴァルを少し離れたソファからぼんやりと眺めていた。

(……こうして黙って仕事をしてる時は、本当に『冷酷皇帝』って感じなんだけどなぁ)

 ペンを走らせるヴァルの指先は力強く、時折補佐官を呼んで指示を出す声は低く冷徹だ。けれど、ロロが少しでも身じろぎをしたり、小さく咳払いをしたりするだけで、彼は即座に顔を上げ、氷のような瞳を一瞬で「とろけきった甘い熱」へと変えてこちらを見てくる。

 そのギャップに、ロロの胸の奥が少しだけムズムズした。

(なんだか……悪いなぁ。僕一人がこんなにふかふかのクッションで、美味しいお菓子を食べてるなんて)

 これまでのロロなら「しめしめ、もっと働け皇帝。僕はその間に贅沢を満喫するぞ」と笑って済ませていただろう。けれど、昨日の泥だらけの手や、あの嘘のロケットに込められた執念に近い献身を知ってしまった今、ただ座っているのが落ち着かなくなった。

 ロロは、そっとソファを抜け出した。
 
「……ロロ? どこへ行く。喉が渇いたか? パトリックを――」

「ううん、大丈夫! ちょっと、そこまで」

 ヴァルを制し、ロロはサンルームの隣にあるパントリーへと向かった。
 そこには、セレーナたちがいつでもお茶を用意できるように、最高級の茶葉と銀のティーセットが整えられている。

(えーっと、ヴァルの好きなやつ……。確か、爽やかな香りがするお茶だったっけ。……よし、やってみるか)

 ロロはスパイ時代、毒を盛るために(!)お茶の淹れ方を叩き込まれたことがある。だが、今の設定は「何もできないお姫様……もとい、婚約者」だ。あまりに手際よく淹れては怪しまれる。
 ロロはわざと少し不器用な手つきで、けれど心を込めて、お湯の温度を調整し、茶葉を躍らせた。

 数分後。
 盆に乗せられた一杯の紅茶を持って、ロロはヴァルのデスクへと近づいた。

「……あの、ヴァル。……お疲れ様」

 ヴァルは、ロロが運んできたものを見て、まるで伝説の聖遺物でも目撃したかのように目を見開いた。

「……ロロ。これは……お前が淹れたのか?」

「うん。……いつもヴァルがしてくれるから、たまには僕も、何かしたくなっちゃって。……でも、美味しくないかもしれないけど……」

 ロロは、少し照れくさそうに視線を逸らし、お盆をデスクの端に置いた。
 すると、ヴァルはガタッと椅子を蹴るような勢いで立ち上がり、ロロが持っていたお盆ごと、彼の手をガッシリと握りしめた。

「ロロ…………っ! お前、俺のために……。……ああ、神よ。今日という日は帝国の祝日に指定せねばならん。パトリック! 今すぐ鐘を鳴らせ!」

「鳴らさないで! ただのお茶だってば!」

 ロロは必死にヴァルをなだめ、彼を椅子に座らせ直した。
 ヴァルは震える手でカップを取り、一口、また一口と、まるで命の水を飲むかのような敬虔な面持ちでお茶を啜った。

「…………美味い。……今まで飲んだどんな名茶よりも、この一杯が、俺の魂を潤してくれる。……ロロ。お前は、俺の淹れる茶が好きだと言っていたが……。……俺こそ、お前のお茶なしではもう生きていけない体になってしまったようだ」

(……出たよ、大げさな表現。でも、耳まで真っ赤にしてるし、本当に喜んでくれてるんだなぁ)

 ヴァルの顔に浮かんだのは、皇帝としての威厳も、独裁者としての冷徹さもない。ただ、好きな人に優しくされて舞い上がっている、一人の男の純粋な喜びだった。

 その笑顔を見て、ロロの心臓がトクン、と跳ねた。
 
(……あ。今の、演技じゃない)

 気づいてしまった。
 ヴァルを喜ばせようとしたこの行動も。
 彼の喜ぶ顔を見て、胸が温かくなったこの感覚も。
 すべてが、生存戦略としての「あざとさ」を超えた、ロロ自身の「本心」から出たものだということに。

「……ヴァル。……そんなに喜んでくれるなら、また淹れてあげるね」

「……! ああ。……ああ、ロロ。……愛している。お前のこの小さな変化が、俺にとってどれほどの救いか……」

 ヴァルはお茶の入ったカップを置くと、ロロの細い腰を引き寄せ、自分の膝の上に座らせた。
 いつもの定位置。
 けれど、今日感じるヴァルの体温は、いつもよりずっと近く、心地よく感じられた。

「……ヴァル、お仕事、まだ残ってるんでしょ?」

「もう終わった。今、この瞬間、すべての書類が片付いたことにした。……今はただ、お前の香りと、お前が淹れてくれたお茶の余韻に浸っていたい」

 ヴァルはロロの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
 ロロは「もう、ヴァルったら甘えん坊なんだから」と、いつものように茶化そうとした――けれど。

 回した自分の腕が、ヴァルの広い背中を優しく包み込んでいた。
 
(……まいったな。嘘をついてるはずなのに、僕の方がこの『嘘』に夢中になっちゃってるよ)

 寄り道だらけの恋路。
 一杯の紅茶という小さな変化は、ロロの心の中にあった「スパイとしての壁」を、また一枚、静かに、けれど確実に剥がし落としていた。

 夕暮れのサンルーム。
 お茶の香りが消えるまで、二人は動こうとはしなかった。
 嘘つきたちのティータイムは、昨日よりもほんの少しだけ、甘くて、切ない味がした。
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