戀の再燃〜笑わぬ循環器内科医は幸薄ワンコを永久に手離さない

暁月蛍火

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第1部 まるで初めての恋

3-1 【冗談にしたかった】

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「山藤、あのナースから隠してくれないか」

 内腿で自分では見えない鬱血痕が、じわじわと熱を帯びる。
 時折最賀と当直で会っても、顔が上手く見れなくて淡々と接することしかできなかった。何事も無かった様に振る舞われ、それはそれで陽菜を苦しめる。

 陽菜は分別を器用に出来るほど大人じゃ無かった。いや、職場でそんなことが起きれば、年齢問わずそうなるだろうが。ともかく、仕事とプライベートを切り離せるほど、成熟した人間では無いのだ。

 あの出来事から一週間空いた当直では、別人の様に陽菜は毅然とした態度で淡々と最賀に見えない壁を作っていた。
 内側の情欲を暴かれて動揺したのは勿論、最賀の軽率な手付きに翻弄された自身を恥じたのである。

 もう、逆らえない医者に、好き勝手されたくない、暴かれたくないと言う気持ちで心にバリケードを張り巡らせて。打刻カードがやけに重く感じた。数十グラムしか無いのに、出勤をしたく無いなと心が騒ついて落ち着かなかったからだ。

「山藤さん、何処に先生行きました?!」

「はい、此方にいらっしゃいますよ」

 躊躇いも無く、手の先が男を示す。夜勤専従の看護師が険しい顔付きで最賀の白衣を乱暴に引っ張り上げて連行する。苛立ちを隠せずいる看護師に引かれるまま、陽菜へ顔を向けた。

「引っ張るなって、ちょ、山藤、バラすなって!」

 その異議申し立てに対して、陽菜は何も言わなかった。
 弄ばれた心が回復するまでには時間を有するから、こうやって告発すれば簡単なんだなと陽菜はぼんやり考えた。

──馬鹿、先生は、ただ私で遊んだだけなのに、何で傷ついているの?

 涙を堪えて、じわじわと侵す最賀の優しさを見て見ぬ振りして押し込める。あれは、円滑に物事を進める為の常套句だと言い聞かせて。



 三時間後の二十三時を示す針が指した頃、漸く解放された白衣の男は、救急外来の窓口をこんこんと叩く。返事をせずに黙々と日誌にペンを走らせていると、勝手に当直室へ無断で入ってきた。

「根に持っているのか?」

「根に持つとか、持たないとかではありません」

 無視は嫌いなのに、最賀が事あるごとに顔を出しに来るので執拗な程の声掛けにどう対応すれば良いか混乱した。

「山藤?」

 陽菜の頭部に結わかれた、長い栗毛を指で梳かれても、振り向かなかった。さらりと髪が靡くのに、心は荒波に飲まれたままだ。

 平穏にも程遠い、いつもの静けさに戻って欲しいのに。

 涙がじわっと溢れそうになるのを、手の甲を指で抓って痛みで誤魔化す。涙が引っ込むまで指先を強めれば、鋭い疼痛に切り替わってくれるから。

 もう、翻弄されたくなかったのだ。

 手に握られた真新しい上質なピーコックグリーンの鮮やかな碧が陽菜を咎める。

──なんで、私に……。

「山藤は忙しいので、御用事は他の方にお願いして下さいますか」

 それでも、冷たい言い方しか口にすることが出来なくて行き場のない髪留めは白衣の中に仕舞われるまで、陽菜は日付が変わるまで態度を変えなかった。

 運良く、タイミングが図られた様にPHSがけたたましく最賀を呼び出したので、罰が悪そうに直ぐ退出して行った。安堵と、罪悪感と、悲しみでぐちゃぐちゃな感情を読み取られたくなかったのだ。

 それからは珍しく、救急外来では赤ランプが点かず、陽菜は当直室で針の音が刻む音を聴いていた。深夜二時を過ぎた頃、怖いほどにしんと静けさを穏やかな日を知らしてくれる。

 連勤に加えて日勤からの当直と寝ていないからいつも以上に機嫌悪くて嫌になる、と廊下に夜勤専従の看護師の愚痴が通った。

 最賀の激務で、神経が張り詰めているのか良く荒い口調で指示されてシフトかぶりたくないと看護師から零され、陽菜は持参していた飴を渡して宥めた。

──確かに、外来でも見掛けるのに、当直だなんて。病院にずっといるなんて……。

 いつ休んでいるのだろうか、と陽菜は頭に過った。医者の過労死は最近取り上げられるものの、待遇の改善は未だに平行線を辿っている。

「あー、なんだよ、押してるだろ、さっさと……入ってくれたって良いだろう! この気紛れ自販機!」

 悪態が待合室から聴こえる。そっと慎重に扉を開けると、ぶるぶると手が震えて、珈琲の自販機に小銭が入れられない最賀を陽菜は見掛けてしまった。
 節電設定で廊下は必要最低限の電力で照らされた薄暗い閑静だった院内は、最賀の声でかき消された。

 あの出来事があってから、陽菜は冷たい態度を取っていた。

 最賀を物理的にも遠ざけたのに、どうしてか陽菜は気に病んでいた。あんなにも優しく、頭を撫でてくれて、髪を不格好ながらも結んでくれた良い人なのに。手癖が悪かったのか、単に面白半分で揶揄って陽菜の女としての一面を暴いたのか、分からない。確かにそこに、優しさはあったのは事実だったのに、と。

 けれども、どうしてあんなひどい態度を取ってしまったのだろう、そう一人になると後悔していたからだ。

 陽菜は蛙口財布から小銭を取り出して、自販機の前に立つとカフェラテのボタンを押した。最賀はその動作に、吃驚して上擦った声で目を見開いたまま、言う。

「いや、俺はブラック……」

「胃に悪いですので、ミルク入りで」

 陽菜は屈んで、温かいカフェラテのプルタブを開けて渡す。缶の表面は暖かいのに、最賀の手先はひんやりと冷たくて余計陽菜を困惑させる。
 どうして声を掛けてくれたのか、と言いたげなのに泳いだ瞳は悲壮感で滲んでいた。

「……悪かった」

 目を逸らして、最賀は謝罪の言葉を口にした。

「冗談じゃなければ、問題ありません、が」

「冗談にしなくて良いのか?」

 直ぐに顔を上げて陽菜を見据えるので、その仕草にビクッと驚いて首筋を触る。

 陽菜は冗談にされたくなかったのだ。

 ただ、気になるから、好意があるから、と理由が明確であれば何だって良かったのである。そうであれば、筋道が通るし、陽菜自身も納得したのだから。

「あ、の……冗談にしたかったのはそちらでしょう?」

「冗談にしたくないのは俺の方なんだが……いや、アンタが可愛くてつい……悪ふざけが過ぎた」

 ほら、と放り投げられたのはあのピーコックグリーンのリボンだった。まだ持っていたのか。鮮明な色合いの緑は美しく、陽菜はじわじわと涙が膜を張る。

「……先生は、私を揶揄って、楽しいだけかもしれませんが、私は、経験が無いから……本気にしてしまいます」

 口からは本音がパッと出てしまって、我に返った時には既に遅かった。
 慌てて口元を手で覆うが時既に遅しである。大変なことを口走ってしまい、面倒事を更に面倒な展開に発展させてしまった自身をひどく責めた。

「ご、めん……なさ、私……っ」


 伝えるつもりは無かった。


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