ストレス開放戦線

赤たまねぎ

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 2022年6月29日、水曜日。

 錦野町にしのちょうの河川敷に、二つの影があった。ブレザーなどのカジュアルな制服と対局に位置する、飾り気のない黒い蘭服を着ている。光を吸い込む墨の色をして、埋没した時代を想起させるその服は、学生服に近いだろう。

 それは魔剣世界と呼ばれる、剣と魔法が流通する異世界の軍服だった。厚い生地が敵からの攻撃を緩和し、内側に刻まれた魔術式が使用者の治癒能力を向上させる。

 一人は、力を手にして間もない男子高校生・搭柿大和。異世界の軍服を着ているが、軍人ではない。此の世で生まれた日本人だ。服もそうだが、髪も目も黒い。その気になれば、暗殺者のように夜闇に溶け込めるのではないかと思わせる。力強く光る目だけが大和の存在を証明させる。

 もう一人は、遠い魔剣世界から来た魔剣士の少女・フィルド・ネリアー。髪と目は銀色。暗闇に煌びやかには光らず、されど帳に寄り添うほど淡い。派手さを捨て優美を選んだ銀色だった。彼女も黒い軍服を着ていたが、大和と違い赤い剣を描いた襟章が付いている。その剣は、正しさと気高さを併せ持つ魔剣士にのみ与えられる称号の意味を持つ。

 彼らは今夜、この町に現れた異界の敵――妖魔を討つため、魔力が集中する雲台橋うんだいばしの下へと向かっていた。

 そこには、アリクイとハリネズミを融合したような妖魔――カリュードルがいた。

「くそ、待ちやがれ!」

 夜21時の河川敷には、水を蹴った音が幾つも響いていた。逃げるのは妖魔、追うのは大和。更に後からフィルド・ネリアーも走っている。

 魔剣を向ける大和から逃げるばかりの妖魔――カリュードルは、四足の足をカーレースのようにスライドさせ、体を180度反転させた。予想外の動作に大和は減速してしまう。それが妖魔の狙いと知らず、レイピアのように細長い舌が伸び、大和の肩を貫いた。

「ぐあっ!」
『へへへ! いい声を出すじゃねえか!』

 伸ばした舌を口内に戻し、血の味に恍惚とした笑みを大和に見せつける。

 ――なんだと! この妖魔、言葉を発したぞ!

 フィルド・ネリアーは魔剣世界の魔剣養成所にて訓練を積んだ剣士だ。見た目は16歳ぐらいの少女だが、その歳は30を超えている。それは、人は魔力生成能力を得ると、肉体の老化速度は著しく遅くなるからだ。歴史を辿れば200年も現役で戦い続けた魔剣士も存在する。

 彼女は数々の修羅場を潜り抜けた。魔剣世界でも多くの妖魔を討伐した、経験豊富な魔剣士と言える。

 だからこそ、その経験から、目の前の妖魔が異常であることが分かった。

 ――妖魔が言葉を発することは珍しいが、決してないことではない。内包する魔力が多ければ多いほど知性を身に着ける傾向であることは確かだ。

「大和! そいつは普通の妖魔とは違う! 油断するなよ!」
「ああ! 分かっている!」

 思い返したのは、狐の耳をした鷺のような、約四メートルの体躯をした鳥の妖魔だった。

 それは塔柿大和が10を超える妖魔を倒した頃に出くわした妖魔。丘銭きゅうせん墓地での戦いは終始こちら側が押す流れになり、苦戦することもなく討伐出来るかに思えたが、その妖魔は突如、明後日の方向――戦いの外へと攻撃を放った。

 開いた嘴から放出されたのは魔力の塊だった。街路樹の幹を砕くことは出来るほどの力が込められた弾。その射線上には小さな子どもがボールを蹴って遊んでいた。間一髪のことろで、フィルド・ネリアーが弾を止めることは出来たが、無関係な子どもが殺されそうな瞬間に気が動転した隙を付かれ、塔柿大和は重傷を負う。

 腹部を抉る嘴での攻撃、その時の妖魔は気持ち悪く笑っていた、という言葉をフィルド・ネリアーは大和から聞いた。知性を得た妖魔は、自らが討伐される存在であることを自覚し、だからこそ悪辣を覚える。フィルド・ネリアーは養成所で学び、実践で経験したことだ。そして、その悪辣は妖魔にとって生きる手段から快楽を得る手段へと変わる傾向があった。

 そして、それは妖魔への油断に繋がる。大和への勝ちを確信させることで、妖魔に大きな隙を出す作戦を考え、そして死んだふり作戦を実行した。子どもを助けたフィルド・ネリアーは、、大和が深手を負ったことを直ぐに理解し、近くのコンビニから大量のトマトジュースを購入。それを、大和の体全身に濡らせ、大量出血による死を偽装した。

 大和は『そんなので騙せるわけないだろ! 俺を殺す気か!』と作戦に大反対だったが、作戦は成功した。血の海(トマトジュース)に沈む大和に、妖魔は自身の攻撃でここまで圧倒的に勝利出来た情景に歓喜の声を鳴らした。その隙に大和は下からの逆袈裟切りで討伐を果たした。
 
 切られた妖魔よりも、大和は狐に騙されたような表情をしていた。

 妖魔の知能は、保有する魔力量によって決まる。故に、錦野町の魔力濃度の薄さを考慮すれば、この程度の偽装で騙すことが出来ると、フィルド・ネリアーは確信していた。

 だからこそ、言語を話す妖魔の存在に驚愕した。

 ――言語を話せるほどの知能を持つ。即ち、それ相応の魔力量を保持していることになる。この妖魔、それほどの魔力をどこから調達した?

 錦野町では考えられない。となると、外部から侵入した可能性が思い当たるが、それを考える余裕はなかった。言語を話せるほどの知能、そして魔力量を持つ妖魔を、塔柿大和一人に任せるわけにはいかない。

「ヤマト! 私も手を貸す!」
「ああ! お前の手助けなんて要らねえよ! 俺がこいつを倒す!」

 だが、フィルド・ネリアーの言葉に大和は拒絶する。

「バカたれ! よく聞け、大和! そいつはお前が今まで戦って倒してきた妖魔とは次元が違う。一度でも隙を見せてみろ、一瞬で殺されてしまうぞ!」

 元々、普通の男子高校生である塔柿大和が魔剣士の代わりに妖魔を討伐する義務・責任はない。だが、理由は不明だが塔柿大和は大量の魔力を持ち――そして魔剣を持っていた。魔剣は魔剣世界にのみ存在する鉱物から作られる。そのため魔力を持っていることはあっても、魔剣を持っていることは有りえないことだった。

 塔柿大和に訊いても、中学二年生の夏休みの肝試しの日、妖魔に襲われた際に、右の掌からツクシのように生えてきたという。その説明にフィルド・ネリアーは納得が出来ず大和を責め立てたが、その理由を大和自身も分からない。

 一先ず、起きたことを全て上司に報告したところ、その謎を解明するまで塔柿大和と共に妖魔討伐の任をして欲しいと言われた。大和としても幼い頃から生きてきた町から妖魔を守ることに異存はなく――むしろ己が力になれるなら守りたいという意思を告白した。

 しかし、大和は正しい素振りの仕方も知らなかった。アニメや漫画を参考にしていると言う。この先、妖魔と命のやり取りをする者の発言とは思えない。

 フィルド・ネリアーは頭が痛くなったことを覚えている。流石に、園児のままごとと同じ意識で戦場に立たせる訳にはいかない。生真面目な彼女は大和の師となることを決めた。剣の振り方から丁寧に教える毎日が続いた。

 大和は弱音を吐いたが、フィルド・ネリアーはその度に殴った。心が緩み雑に剣を振るったときは、尻に蹴りを入れた。憤慨したときもあったが、毎日素振りをした。

 日が落ちるまで素振りをする大和が言った――この町を守りたい。その言葉には信念が宿ってた。フィルド・ネリアーは若者らしい甘い考えだと思ったが、そのときは否定しなかった。

『ケケケ。相棒の言うことは従った方がいいんじゃないか~?』
 
 からかうように妖魔が、また口を開く。細長い舌を震わせながら笑う。

「抜かせ! お前ぐらい、俺一人で倒せるんだよ!」
『……俺ぐらいだと?』
「そうだ! 逃げて不意を突くぐらいしか出来ないお前なんて、俺一人で十分だ! さっきは油断したが、次はないぜ!」
『ヒット・アンド・アウェイという言葉を知らんのか、お前は! 嘘だろ、今どきの若者なら常識用語じゃないのかよ。それとも此奴が単細胞なだけか?』

 ――随分、饒舌な妖魔だ。日本語だけでなく英語も理解し、さらに大和を『若者』と認識出来ている。

 知能を侮れたことに憤慨する大和を他所に、フィルド・ネリアーは考察する。

 ――妖魔は生存本能から快楽欲求へと生き方の指針を変える。しかし、それは悪魔で傾向だ。もし、生存本能を優先し続けた場合、あの妖魔のような存在になるかもしれない。しかし、危惧すべきは、あれほどの知能を持った妖魔が、快楽欲求へ生き方を変えた場合だ。

 ――その悪辣性は普通の妖魔の比ではないはずだ。ならば、後手に回る訳にはいかない。

 フィルド・ネリアーは塔柿大和の意思を無視し、攻撃することを決めた。

炎斬無敵えんざんむてき!」

 背後を回り込み、不意を突く形で魔剣に炎を纏わせて剣を振るう。例え、剣を避けても纏った炎が妖魔を襲う追撃の斬撃。

 刃に沿うように花火の線香音が鳴り、掻き消すように炎が躍動する。

っつ! おい、フィルド! 手を出すなって言ったじゃねえか!」

 その姿が見えた大和は、妖魔よりも先に回避行動に移ったため、追撃の炎を避けることができた。
 
「お前の願いよりも、私はこの町の平和を優先する。一対一に拘るのは勝手だが、剣を振るう者として、私にも守るべき矜持があるのだ」
「ぐっ!」
「ここは私に従え、年上だぞ」
「……分かった、今回はお前が正しいよ。だから、従う。だけどな、年上って言えば、俺が何でも言うことを聞くと思うなよ! それは間違っているからな」

 諭されてしまった大和にフィルド・ネリアーは微笑ましいものでも見るような顔で「ああ。分っている」と了承した。

『ケケケ。やっぱり、一対一ではなく、二対一になっちまったな』 

 盛る炎と蒸気のなか、妖魔の笑い声が響き、妖魔からの魔力放出により炎は消えてしまった。

「あいつ、効いてねえのか!」
「いや。斬撃の手ごたえはあった。かなり硬い手ごたえだったがな」

 苦虫を嚙み潰したような苦しい顔をするフィルド・ネリアーの言葉に、妖魔は哄笑する。

『ケケケケ! そうだ、俺は強いんだ! そして、油断もしないし、戦闘においても最効率を常に意識して戦うんだ! だが、俺に負けるが、女の魔剣士! お前も頭が良いだろう。硬い肉の切断が難しいと判断し、剣を引く判断の速さには目を見張った、凄かったぞ!』

 感動、もしくは興奮の顕れなのか、細長い舌とピロピロと音を鳴らせるほど動かしていた。

「剣を引いた? フィルド、どういう意味だ?」

 妖魔の話す内容に理解出来ない大和はフィルドに訊いた。

「私の先ほどの技、『炎斬無敵』は剣に炎を纏わし、斬撃と炎の二段構えの攻撃だ。斬撃を避けても、炎で敵に傷を与える。だが、この技にも欠点がある。斬撃を放った後に、その炎の攻撃範囲内から自らを出さなくてはならない。そうしなければ、自ら炎で傷ついてしまうからだ」

「…………自滅技じゃないか、それは?」

 聞き間違いで合って欲しいと願う大和だったが、フィルド・ネリアーは首を横に振る。

「炎に対する強い抵抗があれば、皮膚が少し赤くなる程度だ。だが、炎を受けないに越したことはない。剣を奴の肉体へ切り込んだ際、切断は不可能と判断した私は剣を引き、自ら生み出した炎から逃げる選択を選んだんだ」
『その判断力を俺は褒めている! そして、その動きに気付いた俺も凄いと自覚する! 一方、男の魔剣士! 理解出来ないとは、経験不足だな』
「うるせえ!」

 図星を刺されて怒るしか出来ない大和は、剣を向ける。

「お前が賢いのは十分に分かった! だが、俺はこの町を妖魔から守らなくちゃいけねえ! 悪いが、この町の人達を気付付けるお前は斬らせてもらうぜ!」
『……悪いと言いながら、斬らせてもらうか。妖魔にまで優しさを向けるとは、やはり経験が不足しているとしか言えない』

 それは、先ほどまでの会話を楽しむ声とは離れた、失望の混じった声だった。

 妖魔だけではない。今の塔柿大和の言葉に、フィルド・ネリアーも思うところはあった。

 ――――経験が不足している。それは、同感だ。

 安寧を脅かす存在である妖魔、人語を理解し会話が出来るとはいえ、優しさを向けてはいけない。斬る敵に対して優しさを向ける行為は、時として敵への侮辱となる。

 魔剣士としての経験よりも、人生の経験の尺度が無くては理解するのが難しい。その行為は、時として敵と激怒させさせることを、塔柿大和には分からなかった。

 だからこそ、妖魔も隠すはずだった秘密を口にした。

『――――その様子じゃあ、お前の母親が誰に殺されたのかも、知らねえだろう?』

「…………俺の、母親だと? 俺の母さんのことか……?」

 茫然と、そして確かめるように確認する。

 ――――俺の母さんは死んだ。事故だった。だが、殺されただと?

 ――――俺の母さんは、誰かに殺されたのか?

 大和は5歳の頃の、好きだった母さんの顔が思い浮かぶ。夏の早朝の散歩道。美化された、幸せそうに笑う母さんの顔を、妖魔の声がノイズになって邪魔をする。

『ああ、知らないのか。何も、何も知らないのか。お前が魔剣を持っている理由も、お前の母親が殺された理由も、何一つお前は知らない! 何も知らないまま10年間生きていたんだな!』

「何を、―――― 」

 脳内を真っ白にされた大和だったが、

「 何を言っていやがる、てめーー!! 」

 赤い激情が染めた。

 湧き上がる感情のまま妖魔へと駆け出した大和は、その勢いのまま上段から魔剣を振り下ろす。『ガキィン!』と剣と妖魔の鉄の爪がぶつかった際に生じた衝撃音、そして、剣に込められ、衝突により魔力が河川敷の戦場に拡散する。生まれた圧力は風となり飛沫を上げ、大和と妖魔を中心として吹き荒れた。

 それは、まるで今の大和の荒れ狂う心の痛みを語るようだった。
 
「大和――――!」

 大和の痛みを感じ、思わず悲痛な声で呼びかけてしまうフィルド・ネリアー。だが、その声は塔柿大和の耳には一切入らない。大和の目はアリクイの妖魔しか入っていなかった。

「答えろ、カリュードル! お前は何を知っていやがる! 母さんが殺されたっていうのは、どういうことだ! まさか、お前が殺したのか……?」
『俺じゃねえが、事情は知っている』

 樹木粉砕機が異物を挟んだような歪な鉄の音が、剣と爪から奏でられる。大和と妖魔。互いに力を押し合い、それは拮抗していた。

『知りたいか? だったら、俺に勝ったら教えてやるよー!』

 大和の剣を爪で受け流し、力よりも速度を優先した爪の連続攻撃を行う。力を受け流られた大和は態勢を崩し、爪の連続攻撃に体を切り裂かれる。

「ぐあああああっ!」
「おのれっ!」

 6度目の爪攻撃はフィルド・ネリアーが剣で弾いたが――大和には5度の爪攻撃で裂かれていた。額の上も裂かれており、顔の右側から血が滴っている。爪が弾かれた妖魔は後方へ飛び、距離を取る。

 フィルド・ネリアーは次の妖魔からの攻撃に対応出来る構えを取りながら、大和の無事を確認する。

「油断するなと言ったはずだ、バカたれ! さっさと顔の血を拭え」
「うるせえ! 邪魔をするんじゃねえよ!」
「何だと!? 貴様、助けて貰った私に、その言い草は何だ!」
「頼んじゃいねえんだよ!!」

 激昂する大和は、助けに入るため前に出ていたフィルド・ネリアーを押しのけるように、更に前に出る。その血を拭うこともせず、妖魔へ剣を向ける。

「頼む、お願いだ! あいつだけは、あの妖魔だけは俺にやらせてくれ!」
「何を言うか!? お前は、私が助けに入らなければ死んでいたのだぞ! 傷を増やしたお前が、あの妖魔に勝てるわけがないだろう!」
「それでもだ!」

 死んで構わない――そう言った塔柿大和の言葉に、フィルド・ネリアーは驚愕する。意図したわけではない、激情の勢いで言っていたとしても、死んでも良いと言う大和の言葉を疑った。

 塔柿大和は、己の覚悟と語った。

「俺の母さんが殺された理由をあいつは知っている。俺はその理由を絶対に知らなくちゃいけねえ。だから俺があいつに勝って訊かなくちゃいけねえんだ! 例え、死ぬと決まっていたとしても、それを他人に委ねることは絶対にしない」

 一歩、更に一歩。妖魔へと歩を進める。恐怖を怒りで塗りつぶすように。体の裂傷部分から血を流しながら、それでも大和は戦意の目を強くさせる。

「今、気付いたんだ。俺が魔剣を持っていたのは、此の為だったってな」

 塔柿大和の気持ちに呼応して魔力の密度が上昇する。

 夏の夜の蛍が仲間を助けるように、緑の光が大和を包み込む。

『視覚化出来るほどの魔力濃度。だが、その色は――?』

 妖魔と同じようにフィルド・ネリアーも、塔柿大和の魔力の色に注視し――それを止めた。考えるより先に、大和から言葉が漏れたからだ。

「だから、お願いだフィルド。俺一人に戦わせてくれ」
「……分かった。そもそも、お前は魔剣士資格を持っていない、野良の魔剣士だ。私の命令に従うのは、絶対じゃない。……だが、約束しろ。絶対に勝てよ」

 半ば放棄する言い方になってしまいフィルド・ネリアーは己の口下手に歯がゆい気持ちになる。だが、塔柿大和を心配する気持ちを、大和は話し方の震えから理解した。

「ああ。ありがとう、フィルド。俺は、絶対に勝つぜ」

 二人のやり取りを静かに見ていた妖魔だったが、大和の『勝つ』という言葉が琴線を触れた。緑色の光にも問いたいことがあったが、それ以上に憤慨する言葉だった。

『勝だって? ケケケ、生意気なことを言いやがって。この俺に勝つだと? 剣術も拙い、頭の弱いお前が……。この強すぎて頭もとっても賢い俺に勝つだとー!!』

 プライドが傷つけられた怒りなのか、鋭い爪で頬を掻きながら、妖魔は雄たけびを上げる。

『身の程を知れー!!』

 妖魔は両手の爪を大和に向ける。それは銃が照準するように揺れて、止まった。その動作と、妖魔の体内から移動する魔力にフィルド・ネリアーは叫ぶ。

「気を付けろ大和、魔力の弾が来るぞ!」

 フィルド・ネリアーの言葉に大和は、これまで倒してきた妖魔が放つ魔力の弾丸を思い出す。速度は確かに早かったが、射線と弾丸が飛ぶタイミングが分かれば避けることは難しくない。

 そう判断し、避けれる程度の余力を残しながら、妖魔へと駆けていく。

 だが、その判断は間違いだった。

 妖魔の爪の先が、爪割れを起こしたかのように赤い罅が入る。目に見えないはずの傷だったが、その罅割れから赤い色の強い光を大和は直視した。

 ――何だ?

 浮き出た疑問の答えは直ぐに『殺意』という形で姿を現す。

 罅割れからの強い光――それは10のレーザーとなって大和の魔剣に結集し――魔剣を破壊した。

 強い光に目が眩む大和には、破壊された刀身が確認出来ない。魔剣から伝導する衝撃に、何かがあったことは理解出来たが、レーザーの焼却破壊は力が生まれない。そのため、伝導する力も弱く、大和に魔剣が折られたことを認識させなかった。

 成長した妖魔は、生存から快楽を求める生き方へとシフトする。大和と戦うカリュードルという妖魔も例外ではなく、魔剣を折られた塔柿大和の絶望した顔を見たいが為に、大和の殺害ではなく、魔剣の破壊を選んだ。

『ケケケケ! 次で終わりだ!』

 妖魔は再び爪へ魔力を集中させる。眼の眩みが治った大和は、自らが手にする魔剣の刀身が折れていることに気が付く。

 ――――しかし。

 本能的に判断したのだろか。折れた魔剣に驚くよりも先に、足を速めた。妖魔との距離、次の赤い光線を放出するためのインターバルを読み、折れた魔剣での攻撃を試みようとした。

「 ――――ああああああああああ! 」

 妖魔を倒すうえで、必要となる『力』。その技の一つをフィルド・ネリアーから教えて貰ったことがある。魔剣に魔力を込めて攻撃するという、技とも言えない技だった。

 ――基礎の技術を『必殺技』のレベルまで昇華させた『技』。継承すべき『剣の型』を持たない貴様にとって、この技が一番相応しいと私が判断した。

 ――不満ならば、自分で『必殺技』を考えろ。

 以前、フィルド・ネリアーから教えて貰った『技』を思い出し――声に出す。

「 ――――無頼斬撃ぶらいざんげき!!」

 駆けた足で、その勢いのまま空中へ跳び――上段の構えから振り下ろす。塔柿大和が振り絞る限りの魔力を込められた魔剣は、視覚化されたほどの高密度の魔力を全て飲み込み、その刀身は深緑に染まり、妖魔へ光の軌跡を与えた。

『キャアアアアアアアアアア!!!』

 刀身が半ば砕かれたからこそ、塔柿大和は妖魔と体が衝突するつもりで跳んだ。そして、それは功を奏した。断末魔の雄たけびを上げた妖魔は、爪からのレーザー攻撃を浴びせようとするが、自らの懐深くに入った大和に対し、咄嗟に標準を合わせることが出来ない。

 爪の先に込めた魔力を維持する余裕さえ、妖魔は失っていた。爪からだけではない。手、腕からも制御を失ったレーザーが妖魔の神経と表皮を貫き、外部へと拡散した。威力こそなかったが、その情景は全身から血しぶきを上げているようで、今の塔柿大和と瓜二つのように見せた。

『まだだ、まだダ! 俺はこんなところで負けるナんて、有りえないンだ!!』
「いいや! お前は終わりだ、カリュードル!」

 妖魔の声が、壊れたテレビのように高い声が混じる。切り裂かれた場所には深緑の魔力が宝石のように光っていた。『炎斬無敵えんざんむてき』の追撃の炎のように、塔柿大和の魔力が込められた斬撃は、その裂傷部に強く輝き、妖魔が持つ魔力を阻害する。

 目の前の敵を倒す――その感情と共に発露する魔力は、出血で空に跋扈した鉄の悪臭さえ、狼に追いやられる鼠のように遠くへ逃げていく。

 月が隠れた曇り空。突風吹いた河川を舞台に、大和の光が今宵を照らす。

「 ――俺が勝たせてもらう!! 」

 妖魔へ与えた傷跡――その最も深緑に輝く箇所に、大和の魔剣が突き刺さる。

「 ――ぜあああああああああ――!! 」

 声を上げ、腹の底から絞り出すように魔力を魔剣に注ぎ込む。先ほどよりも弱い緑の光が柄から刀身へと染め上げ、折れた刀身の先へ伸びていく。更にその先の、妖魔の傷口部に魔力が伸び、深縁の光と接触した瞬間、より強い緑が生まれた。

 外部からの圧力によりポンプの水が押し出されるように、大和の魔力は妖魔の背まで貫通した。

『ギヤアアアアあああ、アアああ、あああ――――!!』

 傷跡に塩の刃を突きさす、そんなダメ押しの攻撃に妖魔は雄たけびをあげ、口を開いたまま仰け反って、大地へと倒れた。

「…………はあ、はあ、はあ――はあ、はあ」

 二度の大幅な魔力消費。経験したことのない倦怠感、そして体中の傷からの痛みから、大和の足から力が抜けてしまう。

「――おい、大和! 大丈夫か!」

 同じように大地へと倒れそうになったのだが、それよりも先にフィルド・ネリアーが支えた。

「…………ああ。なんとかな。……はあ、はあ、はあ……フィルド、勝ったぜ」

「ああ。貴様の勝ちだ、大和」

 青く死にそうな顔をしながら、満足げに勝利報告する塔柿大和。事故勝手な判断で一騎打ちを決めたことに多くの苦言を言いたいフィルド・ネリアーは、一先ず、少年の勝利を称えた。

「気を失うな。まず、回復させるぞ」

 フィルド・ネリアーは腰につけたバッグから瓶を取り出し、大和に飲ませる。

「辛えっ! なんだ、これは?」
「魔力回復ポーションだ。飲んだ者の魔力を活性させ傷を内側から回復させる効果がある。材料の問題で辛み成分が豊富で、気絶を防ぐ気付け薬としても役立っている。ほら、傷を外部から回復させる軟膏を塗るから、服を脱げ」
「自分で塗るわっ!」
「それが良い。だったら、それも早く飲み干すんだな」

 苦い顔をしながら大和はポーションを飲み干す。オレンジジュースを大量のカプサイシンなどで辛くしたような味合いは慣れることはないだろうと感じていた。

「はー、辛れえ!」
「その辛みが肉体を治癒させる。お前の飲んだポーションは特別製で、伝説と言われる『滅魔・究極人参』が入っている。私も涙を流せずに飲み干せないほど辛いが、その分、効能は絶大だ」
「……なんとなくだが、少し楽になったような気がする」
「そうだろう! そうだろう!」
「……いや、気のせいか?」
「気のせいではないわ、バカたれ!」

 ――くそ、バカに飲ませるべきではなかった!
 ――高級品とも知らず、価値を知らぬ人間は、これだから困る!
 ――まあ。今回は此奴は、頑張った。それに免じよう。

 フィルド・ネリアーは溜息を吐きながらも、微笑を浮かべる。

「なあ? これ、もう一本ないのか?」
「特別製だと言っただろうが!? もう一本なぞ、あるか!!」

 大和の失礼な言葉に、フィルド・ネリアーは怒りを返す。

「これは高級品だ! その分、効果も抜群。効果を実感出来ないのは、貴様が鈍感なだけだ! おかわりなぞ、必要ない!」
「いや。俺じゃねえよ! あの、妖魔だ」
「なおのこと、ダメに決まっているだろう!? 先ほどまで命のやり取りをしていた敵だぞ!」
「あの妖魔には訊かなくちゃいけねえことがある」

 大和は仰向けに倒れている妖魔に目を向ける。緑色の魔力がまるで蛍の光のように、少しづつ空へと消えていく。流れる河には妖魔の血と思わしき赤色が混じりながら下流へと流れる。

 痛みに耐えながら、大和は妖魔の顔を覗ける位置まで移動する。フィルド・ネリアーの止める声も無視して、ズキズキと痛み足を動かす。

「おい、まだ生きているだろう」
『…………ああ、生きているぜ。今もこうして、貴様の喉を、俺様ご自慢の舌による妙技で、綺麗に貫通させようと狙っている。……戦いとは、命を賭し、最後まで真剣にやることだ』

 妖魔は力なく笑いながら、殺意を口にする。

 ――こいつ、なんで笑っているんだ?

 死にそうで、とても痛いはずだ。塔柿大和は妖魔に比べ深い傷を負っていない。裂傷を軽いというのは間違いだが、痛みは妖魔の方が深刻なことは明瞭だ。

 大和が感じる痛みよりも、強い痛み。それを体で感じながら、それでも笑っている。

 ――今まで討伐してきた妖魔とは、こいつは違うのか。

 フィルド・ネリアーと出会う前に二体、フィルド・ネリアーと出会ってから十体以上の妖魔を討伐してきた。だが、こうして話す機会は一度もなかった。これまで討伐してきた妖魔の全てが、命を切られた後、すぐに魔力の光となって消えていったからだ。

 他の妖魔と違う理由。それを聞きたい。
 大和の中に一つの興味が芽生え――そして消えた。

 それよりも、

「てめえ、言ったよな。俺が魔剣を持っている理由と――俺の母さんが殺された理由を知っているって。俺がお前との闘いに、勝ったぜ。約束通り、俺に全て教えろ」

 妖魔の双眸に、茶色の瓶を突き付ける。

「話したら、コレやるよ。お前も死にたくはないだろう?」
「おい、大和!」
「フィルド! お前の言いたいことは分かる。魔剣士は妖魔を殺さないといけない。それが、責務で人間たちを守ることにも繋がっている。その重大性を、俺は理解しているつもりはねえ。だけど、後生だ! この妖魔だけは、母さんが殺されたことを知っている妖魔だけは!」

 ――見逃してくれ。

 その言葉は出ることはなかった。



「済まぬ。大和」



 フィルド・ネリアーの剣が大和の背中を切り裂いた。

「がああああああああああああああああああああああ――!?」

 体の内側から熱湯が弾けるような痛みに、苦悶の声を上げる。熱い、痛く、まるで骨まで裂かれるような鋭い痛み。その理由は、フィルド・ネリアーの剣の熱だった。炎を生み、襲わせる無頼斬撃ぶらいざんげきのような熱量はないにしても、人の皮膚を火傷させる程の熱量が、フィルド・ネリアーの魔力によって変換されていた。

「我ら魔剣士が常に優先すべきは、妖魔の討伐。貴様が魔剣を持っただけの人間であることを理由に、その責務を教えなかったことは私の責任だ。訳は後で説明する。だから、今は休んでくれ。…………そして、済まない」

 二度目の謝罪をし、二回目の斬撃を背中から放った。

 ――――だが、塔柿大和は、その剣を止めた。

「馬鹿な!?」

 驚きの声を出したのは、剣を振ったフィルド・ネリアーだった。激痛で気絶させるつもりで、剣を高温化にして斬った。だが、塔柿大和は痛みに絶叫しながらも耐え、あろうことか、剣による防御を行った。背中を守る盾のように剣を後ろに回したのだ。

「 ――――あああああああっっ!! 」

 雄たけびを上げ、背中に回した剣でフィルド・ネリアーの剣を弾く。

 塔柿大和の背中は、未だ焼ける痛みに襲われている。剣を握る手に力が入らないはずだ。

 ――――有りえない。

 フィルド・ネリアーには魔剣士としての確かな実績がある。強者としての位置づけられるだけの力を持ち、正義を見極める審美眼も持っている。仲間に気配り出来る優しさを持ち、その時々の感情で流されない冷静さを持ち、弛まぬ修行を繰り返す自制心を持つ。その積み重ねで、フィルド・ネリアーという魔剣士は数々の妖魔に打ち勝ってきた。

 だからこそ、魔剣世界の政府から『錦野町の管理』をとして拝命した。

 ――――そうだ。私は強い。幼い頃から魔剣を振ってきた。30年以上、剣を振ってきた。

 ――――その私が、なぜ怯えている!

 フィルド・ネリアーの心は怯えてなどいない。
 
 ただ、彼女が持つ魔剣の切っ先が震え。

 彼女の足が知らないうちに半歩下がっており。

 彼女の左肩が少し下がるという、攻撃回避行動へ移る前の妙な癖が出ていて。

 この三つの動作からフィルド・ネリアーの冷静な部分が、彼女自身の怯えを教えてくれていた。

 理解出来るのに、理解したくない。反目する二つの自分に苦しみ、顔を青くするフィルド・ネリアー。その様子を見て、哀れな女の魔剣士に愉悦を感じて妖魔は笑う。

『――有りえない。そう思っているだろう、女の魔剣士』

 妖魔は声を上げた。瀕死の魔剣を持つ少年と、狼狽する女の魔剣士。その二者が互いを伺っている状態ならば、重症でも逃走出来る可能性は高い。賭けとしては分が良いと妖魔は理解していたが、それよりも妖魔は、を見たいと思った。

 塔柿大和に向けていた警戒の目を、妖魔に向ける。それが分かった妖魔は言葉を続ける。

『その男――塔柿大和は特別なんだ。お前の高価な魔力回復ポーションと同じ、特別製なんだ』
「特別製、だと? 貴様! 何を知っている!?」
『何を知っているかって? 何でも教えてやるぜ、何せ俺は敗北者だからな。潔く、且つ美しく白状すると――そいつの母親は妖魔に事故で死んだんじゃねえ』

 妖魔は間をおいて――答える。

『そいつの母親は、魔剣世界の貴族に殺されたんだよ!!』
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