1 / 15
文明の波紋
しおりを挟む
中世は、宗教の時代だと云われる。古代文明が衰え、その庇護から放り出された人々が心を寄せたものは宗教であった。しかしキリスト教は、ヨーロッパの人々を保護するのと同時に、後の世からは暗黒時代として回顧される停滞を与えた。東洋では、仏教はむしろ光明をもたらし、文明を再生させるのに力があった。
中世の東洋に於いて、仏教の一つの中心地になったのは、今の中国の江蘇省や浙江省、上古には呉や越という王国が立った辺りであった。その地域は、古代には中国と呼ばれず、むしろ辺境であった。しかし漢の体制が土崩すると、孫氏の呉が興り、西晋の天下統一を経て、東晋がこれを継いだ。
東晋の帝都は健康といい、今の南京の辺りに在った。中国が鮮卑人に奪われたので、周、漢の古代文明の伝統を継ぐ士大夫は、多くが亡命してここに集った。そこに天竺より伝わった仏教文明の精髄を併せ、正統王朝の栄華を誇ったものであった。
当時の世界は、オリエント、インド、次いで中国が早く中世の段階に入ったのに対して、ヨーロッパを含む他の大部分は、まだ古代の朝靄の中に在った。
そもそも、古代文明が早く発達するのは、自然が貧しいのに、人々が協力して手を加えれば、非常に大きな農産が上がるという土地で、世界の中でもごく少数の地点に限られた。自然が豊かな土地では、ただ自然の循環を理解しさえすれば、そこそこ安定した暮らしができる為に、文明などという面倒くさいものを作る動機を持たなかった。そうした地域が文明化していくのは、文明社会の側から交易を需められることによった。
このように自然が豊かで、文明以前の文化をより長く楽しんだ土地が、古代中国の周囲には広がっていた。呉や越というのも、その一つであったが、中国に近い為に、その文明圏に一体化し、さらには中心地の座を奪うに至るのである。こうして文明は時間をかけながら、水のように広がり、さらにまたその周辺に、文明を波及させていくのであった。
健康のほとりを、長江が大いに水を湛えて、西から東へと流れて、海へと注いでいる。もしその流れが、海の中にも続いているとして、これをさらに下ると、やがて山がちな島々に着く。温暖湿潤で自然の生産力が高く、文明を必要としなかった土地である。越の地方からこの島々へは、古くから細々とながら、舟の往き来があった。
この島々に住む主な種族は、海外から倭人と呼ばれ、また自らそう称した。倭人たちは、その島々のことを、大八嶋洲と呼んだ。ここに、かつては八百とも云われる数の国々が生まれたものであったが、次第に大が小を併呑して、今は六十余りとなっている。その中でも、最も大きいものが倭国である。倭人たちは海外に対しては、倭国の王を代表として、共同で交渉をするのが習わしであった。それで海外からは、大八島洲を総称して倭国と呼んだ。
倭国の王は、自ら倭王と称し、海外からは倭王と呼ばれた。倭王氏は、呉の太伯の裔であると言い伝えられていた。太伯というのは、上古の呉王家の始祖である。倭人たちは、呉越地方を指して呉国と呼んだが、このくれというのは、樹木を切り出して水に浮かべ、まだ加工しない状態を謂う。くれを削れば舟になり、海外との往き来ができるということが、倭人たちにとって極めて重要であった。それで記念すべき船出の地を、くれと謂ったのである。
東晋が健康に都すると、多くの国々が使いを出して、通好を求めた。倭王讃の使いが健康に達した時には、すでに帝室の司馬氏は衰えていて、ほどなく劉氏がこれに取って代わり、王朝を新たに宋と号した。宋の永初二年、武帝は倭王讃に位を除授すべきことを認めた。それから四年後、文帝の元嘉二年、讃の使いが健康に詣り、表敬して方物を献じた。
倭王が呉国に遣使する目的は、権力の拡張に皇帝の威信を利用することであった。宗教は、文明に生きる人の苦しみを救う為に発達するものであるが、倭人たちはまだそれを必要とする段階の前に在った。仏教はまだ海を越えない。
讃が死ぬと、弟の彌が立って倭王となった。元嘉七年、彌の使いが詣り方物を献じた。文帝は彌を倭王に封じた。彌はなお、使持節・都督・倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王として除正されることを求めた。文帝は詔して、彌を安東将軍・倭王に除した。彌はまた、同盟国の隋ら十三人を、平西将軍、征虜将軍、冠軍将軍、輔国将軍などに拝することを求めたので、文帝は並びにこれを聴した。
元嘉二十年になると、彌の子の済が使いを詣らせたので、文帝は安東将軍・倭王の相続を承認した。二十八年、文帝は済に使持節・都督・倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事を加え、求めのあった済の同盟者二十三人にも爵を与えた。
済が死ぬと、世子の興が使いを遣わした。大明六年、孝武帝は詔して安東将軍・倭王の爵号を授けた。
興が死ぬと、弟の武が立ち、自ら使持節・都督・倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭王と称した。昇明二年、順帝は武を、使持節・都督・倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に叙任した。
倭王武として宋朝に知られた人物は、倭国では若建王として伝えられた。若建王は、豪気強健を以て名を轟かせ、その治世は倭王の権威を最も輝かせて、権力を伸張した一代であった。しかし、絶頂はまた凋落の始まりでもある。若建王が死ぬと、子の白髪王子が立って倭王となったが、四年して死んだ。白髪王には子がなく、王族の子孫が探し出されて、倭王の位を継いだ。まず小祁王が三年余りで死に、次に兄の大祁王は七年足らず、その子の若雀王は八年で死んだ。若雀王にはまた子がなく、ここに倭王氏の血統は絶えたのであった。
この時、倭国より東に覇を唱えていたのは、彦太王という人物であった。彦太王は、母の生まれた高志国と、父の淡海国の王となり、大祁王の子手白髪王女を娶って、呉国よりもたらされた倭王の金印を手に入れた。また西に勢力を張る筑紫国の王、石井公をも討ち、大いに武威を光らせたのであった。
彦太王が死ぬと、その遺言によって、三人の王子が、高志、淡海、倭の三国を分け治めた。しかし高志の大広国王、淡海の小広国王は、三年ほどの間に死んだので、倭の広庭王が全てを相続することとなった。
広庭王の治世三十年余りは、呉国は梁の武帝の代と、重なる時期であった。この武帝は、歴代で最も仏教に傾倒した天子として知られる。後に唐の杜牧が、江南春と題する詩を作り、
千里鶯啼綠映紅 千里に鶯は啼き緑は紅に映え
水村山郭酒旗風 水村・山郭に酒旗の風
南朝四百八十寺 南朝四百八十寺
多少樓臺煙雨中 多少の楼臺あるや煙雨の中
と詠った景観は、武帝によって作られたのである。この為に仏教の膨張が起こり、まだこれを必要としない倭人の国にまで、その余波が及びつつあった。
中世の東洋に於いて、仏教の一つの中心地になったのは、今の中国の江蘇省や浙江省、上古には呉や越という王国が立った辺りであった。その地域は、古代には中国と呼ばれず、むしろ辺境であった。しかし漢の体制が土崩すると、孫氏の呉が興り、西晋の天下統一を経て、東晋がこれを継いだ。
東晋の帝都は健康といい、今の南京の辺りに在った。中国が鮮卑人に奪われたので、周、漢の古代文明の伝統を継ぐ士大夫は、多くが亡命してここに集った。そこに天竺より伝わった仏教文明の精髄を併せ、正統王朝の栄華を誇ったものであった。
当時の世界は、オリエント、インド、次いで中国が早く中世の段階に入ったのに対して、ヨーロッパを含む他の大部分は、まだ古代の朝靄の中に在った。
そもそも、古代文明が早く発達するのは、自然が貧しいのに、人々が協力して手を加えれば、非常に大きな農産が上がるという土地で、世界の中でもごく少数の地点に限られた。自然が豊かな土地では、ただ自然の循環を理解しさえすれば、そこそこ安定した暮らしができる為に、文明などという面倒くさいものを作る動機を持たなかった。そうした地域が文明化していくのは、文明社会の側から交易を需められることによった。
このように自然が豊かで、文明以前の文化をより長く楽しんだ土地が、古代中国の周囲には広がっていた。呉や越というのも、その一つであったが、中国に近い為に、その文明圏に一体化し、さらには中心地の座を奪うに至るのである。こうして文明は時間をかけながら、水のように広がり、さらにまたその周辺に、文明を波及させていくのであった。
健康のほとりを、長江が大いに水を湛えて、西から東へと流れて、海へと注いでいる。もしその流れが、海の中にも続いているとして、これをさらに下ると、やがて山がちな島々に着く。温暖湿潤で自然の生産力が高く、文明を必要としなかった土地である。越の地方からこの島々へは、古くから細々とながら、舟の往き来があった。
この島々に住む主な種族は、海外から倭人と呼ばれ、また自らそう称した。倭人たちは、その島々のことを、大八嶋洲と呼んだ。ここに、かつては八百とも云われる数の国々が生まれたものであったが、次第に大が小を併呑して、今は六十余りとなっている。その中でも、最も大きいものが倭国である。倭人たちは海外に対しては、倭国の王を代表として、共同で交渉をするのが習わしであった。それで海外からは、大八島洲を総称して倭国と呼んだ。
倭国の王は、自ら倭王と称し、海外からは倭王と呼ばれた。倭王氏は、呉の太伯の裔であると言い伝えられていた。太伯というのは、上古の呉王家の始祖である。倭人たちは、呉越地方を指して呉国と呼んだが、このくれというのは、樹木を切り出して水に浮かべ、まだ加工しない状態を謂う。くれを削れば舟になり、海外との往き来ができるということが、倭人たちにとって極めて重要であった。それで記念すべき船出の地を、くれと謂ったのである。
東晋が健康に都すると、多くの国々が使いを出して、通好を求めた。倭王讃の使いが健康に達した時には、すでに帝室の司馬氏は衰えていて、ほどなく劉氏がこれに取って代わり、王朝を新たに宋と号した。宋の永初二年、武帝は倭王讃に位を除授すべきことを認めた。それから四年後、文帝の元嘉二年、讃の使いが健康に詣り、表敬して方物を献じた。
倭王が呉国に遣使する目的は、権力の拡張に皇帝の威信を利用することであった。宗教は、文明に生きる人の苦しみを救う為に発達するものであるが、倭人たちはまだそれを必要とする段階の前に在った。仏教はまだ海を越えない。
讃が死ぬと、弟の彌が立って倭王となった。元嘉七年、彌の使いが詣り方物を献じた。文帝は彌を倭王に封じた。彌はなお、使持節・都督・倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王として除正されることを求めた。文帝は詔して、彌を安東将軍・倭王に除した。彌はまた、同盟国の隋ら十三人を、平西将軍、征虜将軍、冠軍将軍、輔国将軍などに拝することを求めたので、文帝は並びにこれを聴した。
元嘉二十年になると、彌の子の済が使いを詣らせたので、文帝は安東将軍・倭王の相続を承認した。二十八年、文帝は済に使持節・都督・倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事を加え、求めのあった済の同盟者二十三人にも爵を与えた。
済が死ぬと、世子の興が使いを遣わした。大明六年、孝武帝は詔して安東将軍・倭王の爵号を授けた。
興が死ぬと、弟の武が立ち、自ら使持節・都督・倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭王と称した。昇明二年、順帝は武を、使持節・都督・倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に叙任した。
倭王武として宋朝に知られた人物は、倭国では若建王として伝えられた。若建王は、豪気強健を以て名を轟かせ、その治世は倭王の権威を最も輝かせて、権力を伸張した一代であった。しかし、絶頂はまた凋落の始まりでもある。若建王が死ぬと、子の白髪王子が立って倭王となったが、四年して死んだ。白髪王には子がなく、王族の子孫が探し出されて、倭王の位を継いだ。まず小祁王が三年余りで死に、次に兄の大祁王は七年足らず、その子の若雀王は八年で死んだ。若雀王にはまた子がなく、ここに倭王氏の血統は絶えたのであった。
この時、倭国より東に覇を唱えていたのは、彦太王という人物であった。彦太王は、母の生まれた高志国と、父の淡海国の王となり、大祁王の子手白髪王女を娶って、呉国よりもたらされた倭王の金印を手に入れた。また西に勢力を張る筑紫国の王、石井公をも討ち、大いに武威を光らせたのであった。
彦太王が死ぬと、その遺言によって、三人の王子が、高志、淡海、倭の三国を分け治めた。しかし高志の大広国王、淡海の小広国王は、三年ほどの間に死んだので、倭の広庭王が全てを相続することとなった。
広庭王の治世三十年余りは、呉国は梁の武帝の代と、重なる時期であった。この武帝は、歴代で最も仏教に傾倒した天子として知られる。後に唐の杜牧が、江南春と題する詩を作り、
千里鶯啼綠映紅 千里に鶯は啼き緑は紅に映え
水村山郭酒旗風 水村・山郭に酒旗の風
南朝四百八十寺 南朝四百八十寺
多少樓臺煙雨中 多少の楼臺あるや煙雨の中
と詠った景観は、武帝によって作られたのである。この為に仏教の膨張が起こり、まだこれを必要としない倭人の国にまで、その余波が及びつつあった。
0
あなたにおすすめの小説
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる