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華夏の巻
さんがぁらぁま
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この年の元日、明帝の遺詔により、武衛将軍の曹爽は、太尉の司馬仲達とともに、幼い新帝の治世を左ける事となった。曹爽は、字を昭伯という。曹姓が示す様に、魏王朝の帝室とは縁が有る。以前、曹爽は王朝の元老である仲達を尊重して、敢えて政治を専断しようとはしなかった。しかし曹爽に取り入って高位を得ようとする者が有り、仲達を数々誹謗したばかりか、策略を巡らして、太傅という名誉だけが高い閑職に遷してしまった。これにより政事は曹爽の手に集中した。噂によると、この隠謀を画策した奸臣の一人が、尚書丁謐なのだと云われている。だとすると子上が睨むのも当然である。
「これは、太傅閣下が将軍として行った遼東征伐の始末でござる。将軍が軍政を陛下に直奏したからとて、尚書が喙を容れることではありますまい」
と子上は丁謐に向かって言い放った。
「むむ、何を言われる。この尚書を軽んじられるか。いかに太傅どののご子息とはいえ……」
丁謐も肩を怒らせる。
「ああ、これ昭や……、丁尚書はお勤めに熱心で、結構なことではないか」
と仲達は、飽くまで温和な表情をして繰り返す。だがその眼は笑ってはいない――張政はそう看た。
「しかし、丁尚書。この太傅も、遠征の大役を終えてからは、ほれこのとおり、めっきり老け込んでしもうてな、もう何の働きもできやせん。たまには花を持たせてはくれぬかな」
と言って仲達は、大きい身を殊更に縮めてみせる。傍らでは子上が刀の柄にでも手を摳けそうな顔をし、子元が目でそれを制しているという風である。
「むむ、太傅どのがそう仰せられるならば……。後で写しを回していただきますぞ」
丁謐はそこで引き下がった。その後で、
――あの盗狗め……。
と子上が呟いたのが、張政の耳には聞こえた。
ともかくも朝見の申請は正式に受理され、囚人たちは子元の預かりとなった。難斗米と都市牛利は、来年の正月朝見の儀式に招かれるはずであるが、その前に一度謁見を許されるであろう、と仲達は言った。
張政たちは、しばらくこの洛陽の帯方郡邸を宿として日々を過ごす。滞在の費用は支給されるので、生活は保証されている。謁見の日が決まるまで、公務というものは特に無い。とはいえ気楽な暇暮らしが続くわけでもない。洛陽の富貴な身分の人たちは、倭人という珍しい来客を聞き付け、早速宴席を張って難斗米と都市牛利を招く。すると張政と梯儁が連れて行かなくてはならない。京師の貴族といっても、その贅沢の仕方は地方都市と大差は無い。料理は味よりも量が大事で、客の必要よりも多く出て、決まってそれを余らせる。何でも無駄にする事で富貴なる者としての自尊心を満足させる。こんな宴会に何度も呼ばれる。
所が或る日の事、招かれた然る貴人の家では、いつもと様子が違っていた。客も少なく、席に音楽も芸も出ず、料理を載せる皿も小さい。これは何かと思うと、人の乳で育てた豚の肉であるとか、蠟を燃やして炊いた飯、人肌で暖めて醸した酒、といった物なのだとその家の主人が説く。とにかく高級な作り方をして、庶民とは全く違う物を食べるのが、最新流行の贅沢の仕方なのだそうだ。張政たちも、滅多に無い珍味を御馳走になったわけであったが、しかしそれで味が上等なのかどうかはさっぱり判らなかった。
招きが掛からない日には、洛陽の街を歩くのが楽しみである。この京師を余さず観て行きたいものだと、梯儁はもちろん、張政もそう思う。倭人たちにとっては尚更貴重な経験になるはずだ。張政は、難斗米と都市牛利の為に、この都の仕立て屋で衣服を拵えてやった。中国風の格好をすると、倭人たちは呉越地方の人に似ているらしく思われた。そうしていれば難斗米たちは夷人として目立ちはしない。
洛陽の街には、鱗の様な瓦を載せた屋根がどこまでも連なっている。鱗の街の中央に在って、一きわ高峻な山を為しているのが王城である。王城にはまだ入る事が出来ないが、外から眺めるだけでも結構十分という気分になる。いずれここに入る事になるとは、まだ信じられない心持ちがする。王城の外壁に沿って歩いていると、その東に広い敷地を持った施設が有る。建築の様式は張政などが見た事の無い物で、一角に高い塔が聳えているのが特に目に付く。どうも離宮でも官庁でも商家でもない。門扉が開いているので中を覗いていると、左肩だけに引っ掛けた赤い衣を着て、頭は髪を全く剃った奇妙な風体の人が出て来た。
「やあ、旅のお方ですかな」
というその言葉には、独特の訛りが有る。顔はと鑑れば、西域の人らしく鼻と眉が高い。そして、碧い瞳という物を、張政たちはここで初めて睹たのである。
「ええ、ここは何という処ですか」
「ここは、さんがぁらぁまといって、ぶっだの道を修める処です」
「ははあ僧伽藍摩__サンギァラムァ__#というものですか。ここで浮屠とやらの教えを……」
張政は、それについて書物の知識をわずかながら持っていた。西方天竺の地に臨児国が有り、浮屠はその国の王子として、今から七百年程前に産まれた。生まれつき健体明智で、長じて深遠なる宇宙の道を説いた。その教えを伝える人を桑門と呼ぶとか。するとこの人が桑門という者であろうか。
「昔は、西から旅して来る人の信仰の為に、長安や洛陽にはさんがぁらぁまが建てられたものですが、今は漢人の信徒も増えております。いずれあなた方の土地にもさんがぁらぁまが建つでしょう」
とその桑門は言った。それが何を意味しているのか、張政には解らなかった。少なくとも、自分が生きている内には、関係の無い事であろうと思われた。
「これは、太傅閣下が将軍として行った遼東征伐の始末でござる。将軍が軍政を陛下に直奏したからとて、尚書が喙を容れることではありますまい」
と子上は丁謐に向かって言い放った。
「むむ、何を言われる。この尚書を軽んじられるか。いかに太傅どののご子息とはいえ……」
丁謐も肩を怒らせる。
「ああ、これ昭や……、丁尚書はお勤めに熱心で、結構なことではないか」
と仲達は、飽くまで温和な表情をして繰り返す。だがその眼は笑ってはいない――張政はそう看た。
「しかし、丁尚書。この太傅も、遠征の大役を終えてからは、ほれこのとおり、めっきり老け込んでしもうてな、もう何の働きもできやせん。たまには花を持たせてはくれぬかな」
と言って仲達は、大きい身を殊更に縮めてみせる。傍らでは子上が刀の柄にでも手を摳けそうな顔をし、子元が目でそれを制しているという風である。
「むむ、太傅どのがそう仰せられるならば……。後で写しを回していただきますぞ」
丁謐はそこで引き下がった。その後で、
――あの盗狗め……。
と子上が呟いたのが、張政の耳には聞こえた。
ともかくも朝見の申請は正式に受理され、囚人たちは子元の預かりとなった。難斗米と都市牛利は、来年の正月朝見の儀式に招かれるはずであるが、その前に一度謁見を許されるであろう、と仲達は言った。
張政たちは、しばらくこの洛陽の帯方郡邸を宿として日々を過ごす。滞在の費用は支給されるので、生活は保証されている。謁見の日が決まるまで、公務というものは特に無い。とはいえ気楽な暇暮らしが続くわけでもない。洛陽の富貴な身分の人たちは、倭人という珍しい来客を聞き付け、早速宴席を張って難斗米と都市牛利を招く。すると張政と梯儁が連れて行かなくてはならない。京師の貴族といっても、その贅沢の仕方は地方都市と大差は無い。料理は味よりも量が大事で、客の必要よりも多く出て、決まってそれを余らせる。何でも無駄にする事で富貴なる者としての自尊心を満足させる。こんな宴会に何度も呼ばれる。
所が或る日の事、招かれた然る貴人の家では、いつもと様子が違っていた。客も少なく、席に音楽も芸も出ず、料理を載せる皿も小さい。これは何かと思うと、人の乳で育てた豚の肉であるとか、蠟を燃やして炊いた飯、人肌で暖めて醸した酒、といった物なのだとその家の主人が説く。とにかく高級な作り方をして、庶民とは全く違う物を食べるのが、最新流行の贅沢の仕方なのだそうだ。張政たちも、滅多に無い珍味を御馳走になったわけであったが、しかしそれで味が上等なのかどうかはさっぱり判らなかった。
招きが掛からない日には、洛陽の街を歩くのが楽しみである。この京師を余さず観て行きたいものだと、梯儁はもちろん、張政もそう思う。倭人たちにとっては尚更貴重な経験になるはずだ。張政は、難斗米と都市牛利の為に、この都の仕立て屋で衣服を拵えてやった。中国風の格好をすると、倭人たちは呉越地方の人に似ているらしく思われた。そうしていれば難斗米たちは夷人として目立ちはしない。
洛陽の街には、鱗の様な瓦を載せた屋根がどこまでも連なっている。鱗の街の中央に在って、一きわ高峻な山を為しているのが王城である。王城にはまだ入る事が出来ないが、外から眺めるだけでも結構十分という気分になる。いずれここに入る事になるとは、まだ信じられない心持ちがする。王城の外壁に沿って歩いていると、その東に広い敷地を持った施設が有る。建築の様式は張政などが見た事の無い物で、一角に高い塔が聳えているのが特に目に付く。どうも離宮でも官庁でも商家でもない。門扉が開いているので中を覗いていると、左肩だけに引っ掛けた赤い衣を着て、頭は髪を全く剃った奇妙な風体の人が出て来た。
「やあ、旅のお方ですかな」
というその言葉には、独特の訛りが有る。顔はと鑑れば、西域の人らしく鼻と眉が高い。そして、碧い瞳という物を、張政たちはここで初めて睹たのである。
「ええ、ここは何という処ですか」
「ここは、さんがぁらぁまといって、ぶっだの道を修める処です」
「ははあ僧伽藍摩__サンギァラムァ__#というものですか。ここで浮屠とやらの教えを……」
張政は、それについて書物の知識をわずかながら持っていた。西方天竺の地に臨児国が有り、浮屠はその国の王子として、今から七百年程前に産まれた。生まれつき健体明智で、長じて深遠なる宇宙の道を説いた。その教えを伝える人を桑門と呼ぶとか。するとこの人が桑門という者であろうか。
「昔は、西から旅して来る人の信仰の為に、長安や洛陽にはさんがぁらぁまが建てられたものですが、今は漢人の信徒も増えております。いずれあなた方の土地にもさんがぁらぁまが建つでしょう」
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