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華夏の巻
京師の大路
人の本名を普通は呼ばない、というのは漢人の間で当然の礼儀になっているが、倭人にもこれと似た習慣が有る。倭人たちも人の本名を呼ぶ事は避けるし、それ以上に自分の本名を知られるのを恐れている。本名を他人に取られると、呪詛の種に使われるのだと云う。特に尊い人の本名は、たとえ本人の前でなくても呼ぶ事をしないのは、礼儀というよりは信仰であり、畏怖し忌憚すべき事だとされている。こういうわけで、難斗米や都市牛利に訊いてみても、姫氏王の本名は決して知られなかった。張政は困った。
「何てことはない、どうせ朝廷では判りっこないだろうさ」
と梯儁は言った。倭人たちの謂うひめおうという音を字に写して本名だという事にしてしまえば良い、というのが梯儁の案である。
「天子なるお方のお耳に入れるためというとも、大王のおん名を口に出すのは恐れ多くてできぬ。どうかよしなにつくろってくれ」
と難斗米は言う。都市牛利も同じ意見である。張政としては梯儁の考えに従うより他に手立ては無い。そこでひめおうという音を漢字三文字に写す事にした。三文字ならいかにも夷人の名前らしくなる。張政は難斗米に頼んで、ひめおうという音を何度も聞かせてもらった。ひめおうという音を、個別にはっきり発音した時と、連ねて流す様に言った時とでは、聞こえに違いがある。張政は後者を取って、ひめに卑、弥を当てる事はすぐに決めた。最後におうの音は、呼という字の韻母を少し強めに発声すると近い。卑弥呼。これが姫氏王の本名だという建前になった。これは当分四人だけの秘密という事にした。乃く上表文を清書し、入京の日を待った。
十月になって、初旬の好天の日を選んで洛陽に入る事がやっと決まった。河内の南で河水に洛水が合流している。洛陽はその名の通り洛水の北岸に在る。司馬子上に率いられた一行は、洛水に沿い、嵩山を南に眺め、西へと往く。道は幅が広くて、京師に近い事を感じさせる。
――下にーぃ、下にっ‥‥
という先触れが前を行き、往来する人々は端に退がる。子上の地位に与って、張政たちも道の中央を堂々と進み、何だか面映ゆい思いをさせられる。やがて洛陽城の偉容が明らかに見える頃合い、儀仗を装った騎兵を率いた貴人が一行を迎えた。それは司馬師であった。師は、字を子元といい、仲達の長男、子上の兄である。子元は前に散騎常侍に拝され、今は中護軍に遷っている。兄は弟の帰還を労い、弟は父の消息を尋ねる。
「父上は、城門で待っておられる。とく参るが良い」
と言った子元は、子上よりも風采が良く、篤実そうな顔つきに見える。
洛陽は、今より五十年ほど前、漢の献帝の初平元年、董卓によって王宮が焼き払われた。年少い皇帝を擁立し、朝廷の実権を握った元首による放火とて、誰も火を消しに奔る者も無く、市街にも延焼して、多くの人家が潰えた。董卓は、独断専行して玉座を旧都長安へ徙し、洛陽の市民も連行してしまった。かつて栄華を誇った帝都も、この奸臣の為に荒れ果てた。魏の文帝がここに宮殿を再建したのは、その三十年後、黄初元年の事であった。それからまだ二十年が過ぎてはいない。
洛陽城には、東西南北の城壁に三つずつの門が有り、それぞれ中央に位置する物がその方角の正門とされ、城中の大通りに開いている。東の正門で一行は司馬仲達の出迎えを受けた。仲達は、この年六十一歳で、これまでの功績によって位を太傅に進められている。諸葛亮を却け、公孫淵を降した将軍であり、体は大きく骨が太そうではあるものの、厳つい武人といった風貌ではなく、温和な老学者を思わせる風格を備えている。
洛陽市中の大通りは、道路が三つに分けられている。中央を御道と呼び、車が九輌も並んで進めるだけの幅が有る。御道の両端には人の腰より高い程の垣が築かれ、道路を内外に分けている。御道は卿士大夫だけが通る事を許され、平民は左右の道を行く。道の両脇には楡と槐が樹えられている。大通りに接した区画には官衙や貴人の館が列ぶ。それらは全てこの二十年程の間に建てられた。その中にまた新たに帯方郡邸が設えられている。
帯方郡邸の庭で、仲達と子元が上座に立ち、子上を先頭に張政と梯儁、難斗米と都市牛利が下座に並ぶ。
「禁裏にお取り次ぎ願わしゅう存じます」
と子上から、帯方太守名義で倭人たちを送り届けるという文書が提出される。難斗米も、張政が代筆した姫氏王からの上表文を差し出す。もし内容に問題が有ると判断されれば、上聞に及ぶ前に書き直しを命じられるかもしれない。とそこへ、
「太傅どのっ……太傅どの」
息を切らせて一人の男が入って来る。姿を見れば公卿らしい身なりをしているが、顔はどこか飢えた野犬を思わせる。
「これは丁尚書、いかがなされたかな」
仲達が声をかける。丁尚書とあれば、名は謐、字は彦靖という人物であるはずだ。先帝が崩御してから急に出世をして、尚書という重い役に就いたが、それは仲達とともに幼い皇帝を輔佐せよと遺詔を受けた、曹爽に阿り諂った結果なのだ、という噂を張政も聞いている。
「上奏は全て、尚書台を通すことになっておりますが」
と丁謐は言った。仲達は何食わぬ風で、
「ああ、そうだ。……それで?」
と問い返す。仲達が余り他人事の様な顔をするので、丁謐は気押される。
「た、太傅どのが規則を違えるのではないかと、疑う者がおりましたので……」
子元は何でもないという風をして、仲達の方を向いて言う。
「父上、丁尚書はお勤めに熱心でございますな」
仲達は殊更に老人らしくにこにことして、ゆっくりと声を出す。
「ああ……結構なことだ」
子元は一人肩を怒らせて眉を顰めさせているらしい事に、張政はその背中を見て気付いた。
「何てことはない、どうせ朝廷では判りっこないだろうさ」
と梯儁は言った。倭人たちの謂うひめおうという音を字に写して本名だという事にしてしまえば良い、というのが梯儁の案である。
「天子なるお方のお耳に入れるためというとも、大王のおん名を口に出すのは恐れ多くてできぬ。どうかよしなにつくろってくれ」
と難斗米は言う。都市牛利も同じ意見である。張政としては梯儁の考えに従うより他に手立ては無い。そこでひめおうという音を漢字三文字に写す事にした。三文字ならいかにも夷人の名前らしくなる。張政は難斗米に頼んで、ひめおうという音を何度も聞かせてもらった。ひめおうという音を、個別にはっきり発音した時と、連ねて流す様に言った時とでは、聞こえに違いがある。張政は後者を取って、ひめに卑、弥を当てる事はすぐに決めた。最後におうの音は、呼という字の韻母を少し強めに発声すると近い。卑弥呼。これが姫氏王の本名だという建前になった。これは当分四人だけの秘密という事にした。乃く上表文を清書し、入京の日を待った。
十月になって、初旬の好天の日を選んで洛陽に入る事がやっと決まった。河内の南で河水に洛水が合流している。洛陽はその名の通り洛水の北岸に在る。司馬子上に率いられた一行は、洛水に沿い、嵩山を南に眺め、西へと往く。道は幅が広くて、京師に近い事を感じさせる。
――下にーぃ、下にっ‥‥
という先触れが前を行き、往来する人々は端に退がる。子上の地位に与って、張政たちも道の中央を堂々と進み、何だか面映ゆい思いをさせられる。やがて洛陽城の偉容が明らかに見える頃合い、儀仗を装った騎兵を率いた貴人が一行を迎えた。それは司馬師であった。師は、字を子元といい、仲達の長男、子上の兄である。子元は前に散騎常侍に拝され、今は中護軍に遷っている。兄は弟の帰還を労い、弟は父の消息を尋ねる。
「父上は、城門で待っておられる。とく参るが良い」
と言った子元は、子上よりも風采が良く、篤実そうな顔つきに見える。
洛陽は、今より五十年ほど前、漢の献帝の初平元年、董卓によって王宮が焼き払われた。年少い皇帝を擁立し、朝廷の実権を握った元首による放火とて、誰も火を消しに奔る者も無く、市街にも延焼して、多くの人家が潰えた。董卓は、独断専行して玉座を旧都長安へ徙し、洛陽の市民も連行してしまった。かつて栄華を誇った帝都も、この奸臣の為に荒れ果てた。魏の文帝がここに宮殿を再建したのは、その三十年後、黄初元年の事であった。それからまだ二十年が過ぎてはいない。
洛陽城には、東西南北の城壁に三つずつの門が有り、それぞれ中央に位置する物がその方角の正門とされ、城中の大通りに開いている。東の正門で一行は司馬仲達の出迎えを受けた。仲達は、この年六十一歳で、これまでの功績によって位を太傅に進められている。諸葛亮を却け、公孫淵を降した将軍であり、体は大きく骨が太そうではあるものの、厳つい武人といった風貌ではなく、温和な老学者を思わせる風格を備えている。
洛陽市中の大通りは、道路が三つに分けられている。中央を御道と呼び、車が九輌も並んで進めるだけの幅が有る。御道の両端には人の腰より高い程の垣が築かれ、道路を内外に分けている。御道は卿士大夫だけが通る事を許され、平民は左右の道を行く。道の両脇には楡と槐が樹えられている。大通りに接した区画には官衙や貴人の館が列ぶ。それらは全てこの二十年程の間に建てられた。その中にまた新たに帯方郡邸が設えられている。
帯方郡邸の庭で、仲達と子元が上座に立ち、子上を先頭に張政と梯儁、難斗米と都市牛利が下座に並ぶ。
「禁裏にお取り次ぎ願わしゅう存じます」
と子上から、帯方太守名義で倭人たちを送り届けるという文書が提出される。難斗米も、張政が代筆した姫氏王からの上表文を差し出す。もし内容に問題が有ると判断されれば、上聞に及ぶ前に書き直しを命じられるかもしれない。とそこへ、
「太傅どのっ……太傅どの」
息を切らせて一人の男が入って来る。姿を見れば公卿らしい身なりをしているが、顔はどこか飢えた野犬を思わせる。
「これは丁尚書、いかがなされたかな」
仲達が声をかける。丁尚書とあれば、名は謐、字は彦靖という人物であるはずだ。先帝が崩御してから急に出世をして、尚書という重い役に就いたが、それは仲達とともに幼い皇帝を輔佐せよと遺詔を受けた、曹爽に阿り諂った結果なのだ、という噂を張政も聞いている。
「上奏は全て、尚書台を通すことになっておりますが」
と丁謐は言った。仲達は何食わぬ風で、
「ああ、そうだ。……それで?」
と問い返す。仲達が余り他人事の様な顔をするので、丁謐は気押される。
「た、太傅どのが規則を違えるのではないかと、疑う者がおりましたので……」
子元は何でもないという風をして、仲達の方を向いて言う。
「父上、丁尚書はお勤めに熱心でございますな」
仲達は殊更に老人らしくにこにことして、ゆっくりと声を出す。
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