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華夏の巻
黄土を蹠む
帯方太守が倭人の使節団を洛陽に送致せしめる、という正式の文書が郡から朝廷宛てに提出されたのは、景初三年六月の事である。ただし劉昕は転任の為に一足早く中央に召還されており、この時には新太守として劉夏という人物が赴任していた。この文書は直接帝都へは送られず、制圧後の遼東に駐留していた司馬子上が預かった。子上は公孫氏から奪還した遼東・玄菟・楽浪・帯方の海東四郡を、本来の管掌である幽州刺史の手に返して、洛陽へ帰還する事になっている。それと同時に、希な来客である倭人たちを伴って行こうというわけである。張政と梯儁も無論同行する。
遼東郡から京師洛陽までは、南西へ三千六百里と云われている。司馬子上と数百人の従者、張政と梯儁、難斗米と都市牛利、囚人たちは、夏の高い陽を置き残す様にして襄平を去り、幽州刺史の治所である薊を指して西へ向かった。昌黎・遼西を過ぎ、右北平郡に入るまでは城が少ない。路傍に農民の姿は莫く、寧ろ遠くから馬に乗った烏丸人がこちらを窺うのに時々遭う。一行は用の無いこの地方を可及的速やかに通り抜ける。右北平郡に入ると、漸く土地が拓けて来る。右北平を過ぎ、広陽郡に入る。薊県は広陽郡に在る。ここは古の燕国である。遼東から薊までは千七百里ほどである。
幽州刺史の毌丘倹が、儀仗兵を率いて、薊城の郊外で司馬子上を迎える。毌丘倹は、字を仲恭といい、河東郡聞喜県の人である。先年司馬仲達の遼東征伐に加わり、その功を以て安邑侯という爵位を授かった。子上は難斗米と都市牛利に命じて、自分の馬の後ろを歩かせる。張政と梯儁もそこに付いた。仲恭は子上と轡を並べて城門に至り、そこで先を譲り合う。それは礼儀の型通りである。門をくぐって邑に入ると、歓迎の音楽が耳を驚かせる。司馬氏の次男が倭人を連れて還るという事は、ちゃんと宣伝しておいたものらしく、大通りには市民たちが見物に出ている。
仲恭は早速歓迎の宴席を張り、幽州の高官たちが顔を揃える。子上はここにも倭人たちを連れ出して、自分の功績として注目を誘う。すると芋蔓式に張政と梯儁も出席する事となる。二人とも、今までこんな高級な宴会に加わった事が無い。料理は割り合い高価な食材が多く、酒も良い物が用意されている。しかし料理の方法は庶民の食事と大した違いは無く、さほど上質に出来てもいない。ただその量だけが馬鹿に多く、出席した人数と比べて明らかに多過ぎる。わざと余らせておいて無駄にするのが、身分の貴さを証明する最高の贅沢なのである。裏では下役たちが棄てられる料理の御相伴に与ろうと待っている。外には匂いを嗅ぎつけた乞食も寄って来ているのだろう、と張政は思う。
十日ほどの休息の後、薊城を去り、范陽・河間・安平・鋸鹿・広平・邯鄲・鄴などといった各地の都市を経る。都市に入る度に、子上は歓待を受け、張政や難斗米たちも陪席を命じられる。子上は各地で必要以上に時間を費やして、一行をゆるゆると進ませた。いつしか足の蹠む所は、黒く締まった土ではなくなり、粉を詰めた様な黄色い地面に代わっている。
「長いこと歩いたが、ちっとも潮の気がしてこない」
と難斗米が言う。倭人たちは島育ちだから、海を背にして歩いてもすぐ反対側の海に着くという感覚を有っている。それは張政たち楽浪人にとっても余り違わない。楽浪地方から東に歩いても海に抵るまではさほど日数を要しない。
「この陸はどのくらい広いのだろうなあ」
「まだ今まで歩いてきたくらいは先がありそうではないか」
難斗米と都市牛利は車の上でそんな語を交わす。張政や梯儁も、書物の知識で知っていた事とはいえ、初めて我が身で覚えるその広さには、亦り不思議な感慨を持った。黄土はどこまでも尽きず、風が吹くと空が遙かに煙る。鄴を後にして河内郡に入る。
「ここまで来れば、中国に還ったという気がする」
と誰かが言った。確かにこの辺りは昔の殷国の故地であり、中国と云えばこの地域を指したものだ。そう思ってみれば、古い文明が土にまで沁み込んでいるかの感じもし、土地の人々もどことなく温雅に見える。辺境との格差を感じさせられる。河内郡では温県に宿を取る。ここは司馬氏の本貫であり、子上は格別の歓迎を受ける。一行はここでも、十数日という予定で長い休息を命じられる。洛陽までは乃く百里ほどのはずである。子上は庶民にも酒を振る舞い、張政や難斗米も土地の故老たちから慰問を受ける。
温県の宿で過ごす間、張政にはやっておかなければならない仕事が有った。外夷の首長が天子に通好を求める場合、上表文という物を用意しなければならない。これは受付方の役人が代筆するのが普通で、内容は型通りにしつつ詞を選び、申し添える事が有れば書き足す程度だから、別に苦労は無い。張政は襄平に居る間に下書きを作っておいた。しかし一つ埋まらない所が残る。上表をするには本名を称するのが礼儀であり、譬えばもし張政が自分の名に於いて出すならば、その冒頭には、
「臣政が申し上げる」
という風に書いて、字の子文や他の通称などを使ってはいけない。姫氏王ならば、
「倭の君長某が書を上る」
とでも書くはずだが、ここに問題が有った。実は誰も姫氏王の本名を知らないのである。
遼東郡から京師洛陽までは、南西へ三千六百里と云われている。司馬子上と数百人の従者、張政と梯儁、難斗米と都市牛利、囚人たちは、夏の高い陽を置き残す様にして襄平を去り、幽州刺史の治所である薊を指して西へ向かった。昌黎・遼西を過ぎ、右北平郡に入るまでは城が少ない。路傍に農民の姿は莫く、寧ろ遠くから馬に乗った烏丸人がこちらを窺うのに時々遭う。一行は用の無いこの地方を可及的速やかに通り抜ける。右北平郡に入ると、漸く土地が拓けて来る。右北平を過ぎ、広陽郡に入る。薊県は広陽郡に在る。ここは古の燕国である。遼東から薊までは千七百里ほどである。
幽州刺史の毌丘倹が、儀仗兵を率いて、薊城の郊外で司馬子上を迎える。毌丘倹は、字を仲恭といい、河東郡聞喜県の人である。先年司馬仲達の遼東征伐に加わり、その功を以て安邑侯という爵位を授かった。子上は難斗米と都市牛利に命じて、自分の馬の後ろを歩かせる。張政と梯儁もそこに付いた。仲恭は子上と轡を並べて城門に至り、そこで先を譲り合う。それは礼儀の型通りである。門をくぐって邑に入ると、歓迎の音楽が耳を驚かせる。司馬氏の次男が倭人を連れて還るという事は、ちゃんと宣伝しておいたものらしく、大通りには市民たちが見物に出ている。
仲恭は早速歓迎の宴席を張り、幽州の高官たちが顔を揃える。子上はここにも倭人たちを連れ出して、自分の功績として注目を誘う。すると芋蔓式に張政と梯儁も出席する事となる。二人とも、今までこんな高級な宴会に加わった事が無い。料理は割り合い高価な食材が多く、酒も良い物が用意されている。しかし料理の方法は庶民の食事と大した違いは無く、さほど上質に出来てもいない。ただその量だけが馬鹿に多く、出席した人数と比べて明らかに多過ぎる。わざと余らせておいて無駄にするのが、身分の貴さを証明する最高の贅沢なのである。裏では下役たちが棄てられる料理の御相伴に与ろうと待っている。外には匂いを嗅ぎつけた乞食も寄って来ているのだろう、と張政は思う。
十日ほどの休息の後、薊城を去り、范陽・河間・安平・鋸鹿・広平・邯鄲・鄴などといった各地の都市を経る。都市に入る度に、子上は歓待を受け、張政や難斗米たちも陪席を命じられる。子上は各地で必要以上に時間を費やして、一行をゆるゆると進ませた。いつしか足の蹠む所は、黒く締まった土ではなくなり、粉を詰めた様な黄色い地面に代わっている。
「長いこと歩いたが、ちっとも潮の気がしてこない」
と難斗米が言う。倭人たちは島育ちだから、海を背にして歩いてもすぐ反対側の海に着くという感覚を有っている。それは張政たち楽浪人にとっても余り違わない。楽浪地方から東に歩いても海に抵るまではさほど日数を要しない。
「この陸はどのくらい広いのだろうなあ」
「まだ今まで歩いてきたくらいは先がありそうではないか」
難斗米と都市牛利は車の上でそんな語を交わす。張政や梯儁も、書物の知識で知っていた事とはいえ、初めて我が身で覚えるその広さには、亦り不思議な感慨を持った。黄土はどこまでも尽きず、風が吹くと空が遙かに煙る。鄴を後にして河内郡に入る。
「ここまで来れば、中国に還ったという気がする」
と誰かが言った。確かにこの辺りは昔の殷国の故地であり、中国と云えばこの地域を指したものだ。そう思ってみれば、古い文明が土にまで沁み込んでいるかの感じもし、土地の人々もどことなく温雅に見える。辺境との格差を感じさせられる。河内郡では温県に宿を取る。ここは司馬氏の本貫であり、子上は格別の歓迎を受ける。一行はここでも、十数日という予定で長い休息を命じられる。洛陽までは乃く百里ほどのはずである。子上は庶民にも酒を振る舞い、張政や難斗米も土地の故老たちから慰問を受ける。
温県の宿で過ごす間、張政にはやっておかなければならない仕事が有った。外夷の首長が天子に通好を求める場合、上表文という物を用意しなければならない。これは受付方の役人が代筆するのが普通で、内容は型通りにしつつ詞を選び、申し添える事が有れば書き足す程度だから、別に苦労は無い。張政は襄平に居る間に下書きを作っておいた。しかし一つ埋まらない所が残る。上表をするには本名を称するのが礼儀であり、譬えばもし張政が自分の名に於いて出すならば、その冒頭には、
「臣政が申し上げる」
という風に書いて、字の子文や他の通称などを使ってはいけない。姫氏王ならば、
「倭の君長某が書を上る」
とでも書くはずだが、ここに問題が有った。実は誰も姫氏王の本名を知らないのである。
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