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華夏の巻
襄平市場の煮餅
張政と梯儁、難斗米と都市牛利たちは、遼東の襄平の邑で、洛陽行きの沙汰が下るのを待った。もし倭人の入貢を、翌年正月の朝見の儀式に間に合わせようと思えば、出発までの時間は短いはずであった。しかし十二月が暮れ、景初三年が明けても、張政たちは何の指図も受けなかった。遼東の冬は、張政や梯儁にとっても寒かったが、もっと温暖な土地で育った倭人たちには、一層身に沁みるに違いなかった。雪は時々視界を白く覆い尽くした。手を拱いて過ごす内に、天子が正月一日に崩御したという報せがここにも届いた。養子の芳が跡を嗣いで三世皇帝となり、先帝は明帝と諡された。新帝はまだ八歳で、明帝の遺詔によって、司馬仲達と曹爽が政治を輔佐する事となった。
どうやら、明帝の危篤と崩御、幼い新帝の即位による新体制作りの為に、色々な事務が滞っているらしく思われた。景初三年正月という可能性が消えれば、次は秋の請見の儀式か、或いは来年の朝見が目標となる。出発は、早くても暖気が入り始める頃まで遅れそうであった。張政はその事を難斗米たちに言い聞かせた。倭人たちは別に平気そうであって、却って梯儁の方が待ちくたびれるという顔をした。
張政たちは、襄平に居ても別にする事が無いので、よく市場の様子を見に出掛ける。粟や黍は昨年の戦役の影響で不足している。その代わりに市場には稲が売られている。これは倭地や韓地の産品で、輸入するについては張政や梯儁も関わった物である。ただ遼東の家庭では、稲に適した炊き方に慣れないので、飯にするのに粟や黍の様な方法でやる。粟や黍なら下茹でしてから甑に入れて蒸すのが良いが、稲でこの炊き方をすれば茹で汁と一緒に旨みまでが捨てられてしまう。そのため襄平で喰う稲の飯は不味い。市場では食材を売るだけでなく料理を出す店も有って、そういう所では稲の粥を出していたが、これは流石にそう悪くはない。
市場に集う人々は、必要な物を持ち帰るだけでは済ませず、買い食いをしながら世間話をしたり、講釈師の噺を聞く事を娯楽としている。この頃の講釈の種は、司馬仲達が如何にして公孫淵を討ったかという物語である。張政も時折りそれを聞いた。噺が佳境に差し掛かると、聴衆の口からはやんやの声が飛び出す。戦況がいよいよ殆うくなり、食糧も乏しくなった頃、大流星が首山の東北から飛んで、襄平城の東南に墜ちた。公孫淵は精神に恐惶を来し、乃く家臣を遣わして降伏を申し入れる。仲達は使者が愚かで話しが出来ないとして降伏を許さない。淵は日を改めて別の使者を送る。仲達は使者に説いて道う。
「兵法には大事なことが五つあるのだぞ。勝てるならば戦い、勝てねば守り、守れもせずば逃げる。さもなくば降伏するか、死ぬだけのことよ。淵めは勝ち目もないのに戦い、早くに降伏もせんかったからには、死ぬ覚悟がなくてはなるまい。何の用で使者などよこすのだ」
司馬仲達がそう言った、と講釈師は語る。見て来た様に物を云うが、本当かどうかは分からない。淵は子の脩を連れて数百騎を将い、包囲の隙を突いて東南へ走る。仲達の追手が迫る。矢が雨と降り掛かり、一騎又一騎と淵の味方が減る。とうとう淵と脩も命運尽きて追い着かれ、その場で斬り殺される事となったが、そこは丁度あの大流星の墜ちた所だったのでありました、と講釈師は噺を下げる。
噺を聞きながら聴衆の多くは、仲達の応援に回っていた。或いはこんな噂をする声も聞こえた。仲達が攻め込むよりも前、公孫家では度々奇怪な事が有った。犬が富貴な人の様に冠幘と礼服を着けて屋根に坐っていたり、飯を炊けば甑の中に誰の子とも知れぬ胎児が蒸されて死んでいたりした。市場では奇妙な肉が売られていた。それは長さと太さが各々数尺で、頭には目と口と鼻が備わっていたが、手足は無く、そのくせゆらゆらと動いていた。易者が謎を占って、
「形が有って成り足らず、姿が有って声は無い。これは国が滅亡する兆しですぞ」
と解いた。要するに、公孫氏は所詮正統の君主に非ず、滅び去る運命だったのだ、という事を、人々は色々の表現で言ったり聞いたりしている。こんな事は司馬子上が仕組んで流したのかも知れないが、いずれにせよ襄平の市場では司馬氏の株が売れている。
暖かくなって、秋播きの麦が獲れる時季が到ると、襄平の市場には麪を溶いて作る餅料理が見られる様になった。煮餅というのは、麪を叩き付ける様によく捏ねてから丸め、肉や野菜と一緒に汁に入れて煮た料理である。湯餅は、餅と具と汁を別々に調理してから椀に盛り合わせる。水溲餅は、水溶きの麪を、そのまま汁に落として煮た物で、手間が掛からないだけ値が廉い。何にしても遼東の人々にとって、煮餅の類いは稲の粥などよりもずっと景気の好い食べ物であった。庶民の顔にも活気が差して来る。
煮餅の汁の香りが立ち始めた頃、景初三年五月、張政と梯儁はやっと司馬子上から一つの命令を受け取った。近い内に上洛の沙汰が有るから、姫氏王より天子への上表文を用意しておけ、というのであった。
どうやら、明帝の危篤と崩御、幼い新帝の即位による新体制作りの為に、色々な事務が滞っているらしく思われた。景初三年正月という可能性が消えれば、次は秋の請見の儀式か、或いは来年の朝見が目標となる。出発は、早くても暖気が入り始める頃まで遅れそうであった。張政はその事を難斗米たちに言い聞かせた。倭人たちは別に平気そうであって、却って梯儁の方が待ちくたびれるという顔をした。
張政たちは、襄平に居ても別にする事が無いので、よく市場の様子を見に出掛ける。粟や黍は昨年の戦役の影響で不足している。その代わりに市場には稲が売られている。これは倭地や韓地の産品で、輸入するについては張政や梯儁も関わった物である。ただ遼東の家庭では、稲に適した炊き方に慣れないので、飯にするのに粟や黍の様な方法でやる。粟や黍なら下茹でしてから甑に入れて蒸すのが良いが、稲でこの炊き方をすれば茹で汁と一緒に旨みまでが捨てられてしまう。そのため襄平で喰う稲の飯は不味い。市場では食材を売るだけでなく料理を出す店も有って、そういう所では稲の粥を出していたが、これは流石にそう悪くはない。
市場に集う人々は、必要な物を持ち帰るだけでは済ませず、買い食いをしながら世間話をしたり、講釈師の噺を聞く事を娯楽としている。この頃の講釈の種は、司馬仲達が如何にして公孫淵を討ったかという物語である。張政も時折りそれを聞いた。噺が佳境に差し掛かると、聴衆の口からはやんやの声が飛び出す。戦況がいよいよ殆うくなり、食糧も乏しくなった頃、大流星が首山の東北から飛んで、襄平城の東南に墜ちた。公孫淵は精神に恐惶を来し、乃く家臣を遣わして降伏を申し入れる。仲達は使者が愚かで話しが出来ないとして降伏を許さない。淵は日を改めて別の使者を送る。仲達は使者に説いて道う。
「兵法には大事なことが五つあるのだぞ。勝てるならば戦い、勝てねば守り、守れもせずば逃げる。さもなくば降伏するか、死ぬだけのことよ。淵めは勝ち目もないのに戦い、早くに降伏もせんかったからには、死ぬ覚悟がなくてはなるまい。何の用で使者などよこすのだ」
司馬仲達がそう言った、と講釈師は語る。見て来た様に物を云うが、本当かどうかは分からない。淵は子の脩を連れて数百騎を将い、包囲の隙を突いて東南へ走る。仲達の追手が迫る。矢が雨と降り掛かり、一騎又一騎と淵の味方が減る。とうとう淵と脩も命運尽きて追い着かれ、その場で斬り殺される事となったが、そこは丁度あの大流星の墜ちた所だったのでありました、と講釈師は噺を下げる。
噺を聞きながら聴衆の多くは、仲達の応援に回っていた。或いはこんな噂をする声も聞こえた。仲達が攻め込むよりも前、公孫家では度々奇怪な事が有った。犬が富貴な人の様に冠幘と礼服を着けて屋根に坐っていたり、飯を炊けば甑の中に誰の子とも知れぬ胎児が蒸されて死んでいたりした。市場では奇妙な肉が売られていた。それは長さと太さが各々数尺で、頭には目と口と鼻が備わっていたが、手足は無く、そのくせゆらゆらと動いていた。易者が謎を占って、
「形が有って成り足らず、姿が有って声は無い。これは国が滅亡する兆しですぞ」
と解いた。要するに、公孫氏は所詮正統の君主に非ず、滅び去る運命だったのだ、という事を、人々は色々の表現で言ったり聞いたりしている。こんな事は司馬子上が仕組んで流したのかも知れないが、いずれにせよ襄平の市場では司馬氏の株が売れている。
暖かくなって、秋播きの麦が獲れる時季が到ると、襄平の市場には麪を溶いて作る餅料理が見られる様になった。煮餅というのは、麪を叩き付ける様によく捏ねてから丸め、肉や野菜と一緒に汁に入れて煮た料理である。湯餅は、餅と具と汁を別々に調理してから椀に盛り合わせる。水溲餅は、水溶きの麪を、そのまま汁に落として煮た物で、手間が掛からないだけ値が廉い。何にしても遼東の人々にとって、煮餅の類いは稲の粥などよりもずっと景気の好い食べ物であった。庶民の顔にも活気が差して来る。
煮餅の汁の香りが立ち始めた頃、景初三年五月、張政と梯儁はやっと司馬子上から一つの命令を受け取った。近い内に上洛の沙汰が有るから、姫氏王より天子への上表文を用意しておけ、というのであった。
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