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華夏の巻
冬の影の囁き
張政たちは、景初三年十月に洛陽に入り、十一月を過ごし、十二月になった。司馬仲達の言った通りであれば、そろそろ倭人たちの為に謁見を賜るはずであった。ところが、明帝はこの年の正月一日に崩御したのであったが、国忌と元日が重なるのを避ける為という理由で、翌年改元と同時に暦法の改正を行う事が発表された。即ち、従来魏王朝が用いてきた殷暦を廃め、夏暦を採用する。すると夏暦の一月は、殷暦の二月に当たるの。それで、景初三年十二月と翌正始元年一月の間には、一ヶ月の時が空く。そこを埋める為に、景初三年十二月の次の月を「後十二月」とするというのである。約束の謁見はまだいつになるのか分からなくなった。
張政たちは度々暇潰しに洛陽の街を歩いたり市場を遊ぶ。大都会に来たのだという当初の感激は薄れ、冬の低い陽射しに伸びた影が目にも寒く映る。
――咨。
という声を、張政は洛陽の市場でよく耳にする。舌を打つ音に由来するこの感嘆詞は、喜怒哀楽どんな感情を表すのにも使われる。ただこの咨という声は、夷狄の人が漢語を覚えても上手く感情が乗らない。漢人でも地方の人は下手である。張政や梯儁も咨とは能く言わない。洛陽や長安などで育った漢人が、最も巧く咨という声にその時々の情緒を表現するのである。
――咨。
洛陽の市場で聞くその声は、どんな話題であってもどこか暗愁を帯びている事に、この頃になって張政は気付いた。
――今、幼い皇帝が擁立されて、権臣が政治を執っているのは、漢の最後と同じではないか。
そんな囁きを張政は市場で耳にする。
「また董卓の時のように、この街が焚かれる日も近いのではないか」
と誰かが言って、こう続ける。
「皇帝のお膝元になど居るから危ないのだ。俺はどこか辺鄙な土地でも耕せる田を見つけてひっそり暮らしたいと欲うのだが」
別の誰かが返す。
「俺などはいっそ、海を渡って遠くへ逃げてしまおうかと思うのだ。ほれ、孔子さんもその昔、中国に礼が行われないのを嘆いて、筏を海に浮かべて九夷に居らんと欲す、などと言われたそうではないか」
「そうかい、しかし海の外になんか人の棲める土地があるものかな」
「あの徐巿という人が秦の始皇のときに数千人を連れて蓬萊の島に渡り、そのまま住み着いたっていうじゃないか」
「そりゃ知っているが、本当の話しかなあ」
また別の誰かが答える。
「おまえさんは、今この京師に倭人というのが来ているのを聞いてないか」
「倭人ってのはなんだね、その蓬萊の島から来たのかね」
「そうなんだろう、俺が商売で出入りしている家の女中に聞いたのだが、倭人の国には徐巿の子孫が繁栄しているそうだよ」
とここまで聞き耳を立てていた張政は驚いた。徐巿の事は史書に載っているから知っているが、それが倭人に繋がるとはこの時まで思ってもみなかったのである。噂というのは仕様のないものだが、他方では正確に伝わっている事も有るらしい。更に聞き耳を立てる。
「それじゃ何だな、その島とやらには田になる土地があるのかい」
「倭人というのは天性柔順で、土著して農耕を知り、夷狄といっても匈奴のたぐいとは異なるということだ」
別の一人も口を挟む。
「ああ俺も商売先で聞いたが、倭人の国には俎や豆が伝わっているそうだな」
「それは俺も聞いた。もう中国でも見られなくなった古い形式の物だそうだ……」
これには張政も思い当たる所が存る。確かに倭人は中国の古い時代を想わせる祭り道具を使っている。但しそれが中国から伝わったのかどうかは詳らかでない。
「昔から、中国に礼が失われれば之を四夷に求める、と云うが本当にそうかな」
こんな話しは市場で聞き耳を立てていればする人が少なくない。或る人は西方の異境へ崑崙山を求めに旅しようかと言い、また或る人は南方の奥地には桃源郷が有るのだと語る。ともかくこういう人たちは京師の生活を楽しんでいない。漢末の大乱已来、中国の人口は十分の一にまで減ったと云われている。その戦争と飢饉の中で一度破壊された洛陽は、輝かしい外観を取り戻してはいても、人々の心にまだ暗い影を投げているのであろうか。大変動を経験した中国と、そこから遠い外地との落差を、張政や梯儁は痛く感じさせられる。
咨、という声に象徴される様に、中国から出て行こうかという風の会話をしているのは、漢人ばかりであった。しかし奇妙な事には、誰もそれを本気で実行しようというのではないらしかった。彼らはどこか遠い地に夢を馳せ、どうかしてそこへ行こうという話しに花を咲かせ、そして結局は中国の暮らしに帰って行くのである。洛陽の漢人たちは、現状に堪えられない程の不安を感じながら、奮起して希望を切り拓いて行こうという気力を欠いている。
一方で、屈託なく明るい啊とか噯呀という声を揚げているのは、烏丸・鮮卑・羌・羯などの人々であった。中国の大乱は、彼らに未だ曾て有らざる稼ぎの好機を与えた。人口の減った地域では兵員や労働力としてこうした外来者を必要としたし、復興需要を切り盛りする商人にも匈奴や胡人などが少なくない。不安に怯えた弱者には、赤い衣を肩に掛けた西域の道士が、浮屠の教えを以て救いの手を差し延べている。いずれ彼らが新しい中国人になって、漢人という者は消えてしまうのではないか、張政にはふとそんな気がした。
張政たちは度々暇潰しに洛陽の街を歩いたり市場を遊ぶ。大都会に来たのだという当初の感激は薄れ、冬の低い陽射しに伸びた影が目にも寒く映る。
――咨。
という声を、張政は洛陽の市場でよく耳にする。舌を打つ音に由来するこの感嘆詞は、喜怒哀楽どんな感情を表すのにも使われる。ただこの咨という声は、夷狄の人が漢語を覚えても上手く感情が乗らない。漢人でも地方の人は下手である。張政や梯儁も咨とは能く言わない。洛陽や長安などで育った漢人が、最も巧く咨という声にその時々の情緒を表現するのである。
――咨。
洛陽の市場で聞くその声は、どんな話題であってもどこか暗愁を帯びている事に、この頃になって張政は気付いた。
――今、幼い皇帝が擁立されて、権臣が政治を執っているのは、漢の最後と同じではないか。
そんな囁きを張政は市場で耳にする。
「また董卓の時のように、この街が焚かれる日も近いのではないか」
と誰かが言って、こう続ける。
「皇帝のお膝元になど居るから危ないのだ。俺はどこか辺鄙な土地でも耕せる田を見つけてひっそり暮らしたいと欲うのだが」
別の誰かが返す。
「俺などはいっそ、海を渡って遠くへ逃げてしまおうかと思うのだ。ほれ、孔子さんもその昔、中国に礼が行われないのを嘆いて、筏を海に浮かべて九夷に居らんと欲す、などと言われたそうではないか」
「そうかい、しかし海の外になんか人の棲める土地があるものかな」
「あの徐巿という人が秦の始皇のときに数千人を連れて蓬萊の島に渡り、そのまま住み着いたっていうじゃないか」
「そりゃ知っているが、本当の話しかなあ」
また別の誰かが答える。
「おまえさんは、今この京師に倭人というのが来ているのを聞いてないか」
「倭人ってのはなんだね、その蓬萊の島から来たのかね」
「そうなんだろう、俺が商売で出入りしている家の女中に聞いたのだが、倭人の国には徐巿の子孫が繁栄しているそうだよ」
とここまで聞き耳を立てていた張政は驚いた。徐巿の事は史書に載っているから知っているが、それが倭人に繋がるとはこの時まで思ってもみなかったのである。噂というのは仕様のないものだが、他方では正確に伝わっている事も有るらしい。更に聞き耳を立てる。
「それじゃ何だな、その島とやらには田になる土地があるのかい」
「倭人というのは天性柔順で、土著して農耕を知り、夷狄といっても匈奴のたぐいとは異なるということだ」
別の一人も口を挟む。
「ああ俺も商売先で聞いたが、倭人の国には俎や豆が伝わっているそうだな」
「それは俺も聞いた。もう中国でも見られなくなった古い形式の物だそうだ……」
これには張政も思い当たる所が存る。確かに倭人は中国の古い時代を想わせる祭り道具を使っている。但しそれが中国から伝わったのかどうかは詳らかでない。
「昔から、中国に礼が失われれば之を四夷に求める、と云うが本当にそうかな」
こんな話しは市場で聞き耳を立てていればする人が少なくない。或る人は西方の異境へ崑崙山を求めに旅しようかと言い、また或る人は南方の奥地には桃源郷が有るのだと語る。ともかくこういう人たちは京師の生活を楽しんでいない。漢末の大乱已来、中国の人口は十分の一にまで減ったと云われている。その戦争と飢饉の中で一度破壊された洛陽は、輝かしい外観を取り戻してはいても、人々の心にまだ暗い影を投げているのであろうか。大変動を経験した中国と、そこから遠い外地との落差を、張政や梯儁は痛く感じさせられる。
咨、という声に象徴される様に、中国から出て行こうかという風の会話をしているのは、漢人ばかりであった。しかし奇妙な事には、誰もそれを本気で実行しようというのではないらしかった。彼らはどこか遠い地に夢を馳せ、どうかしてそこへ行こうという話しに花を咲かせ、そして結局は中国の暮らしに帰って行くのである。洛陽の漢人たちは、現状に堪えられない程の不安を感じながら、奮起して希望を切り拓いて行こうという気力を欠いている。
一方で、屈託なく明るい啊とか噯呀という声を揚げているのは、烏丸・鮮卑・羌・羯などの人々であった。中国の大乱は、彼らに未だ曾て有らざる稼ぎの好機を与えた。人口の減った地域では兵員や労働力としてこうした外来者を必要としたし、復興需要を切り盛りする商人にも匈奴や胡人などが少なくない。不安に怯えた弱者には、赤い衣を肩に掛けた西域の道士が、浮屠の教えを以て救いの手を差し延べている。いずれ彼らが新しい中国人になって、漢人という者は消えてしまうのではないか、張政にはふとそんな気がした。
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