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東夷の巻
姉と弟
農閑期は、兵士の訓練をする季節でもある。姫氏王は数々早朝から人員を動かして練兵をする。そして難斗米や伊声耆には采配を振る練習をさせる。姫氏王は帷幄の中に在ってその様子を閲ている。そういった時には主人不在でひっそりとするはずの邪馬臺の王宮は、この所に限っては只ならぬ緊張に包まれている。
「おおい、臺与に会わせてくれ。顔だけでも見せてくれ!」
狗古智卑狗は、姫氏王が外に出ている時を見計らって、臺与に会わせろ、という要求をしに来る。しかし留守居をする侍女や衛兵たちは、「狗古智を臺与に近付けるな」という固い君命を受けている。
「いけません。ここをお通しするわけには」
一方で、君主の弟である狗古智卑狗の要求にも重みを感じない訳にはいかない。
「ご勘弁ください。大王の禁を仰せつかっておりますゆえ」
狗古智卑狗はそう拒まれて、主人の帰らぬ内に引き退がるという行止を何日か繰り返し、その果てに、
「お、おれの子なんだぞ!」
と口走った現場を、姫氏王に押さえられた。王は目に瞋りを表し、腕を斜交いに狗古智卑狗の襟をつかんで、
「久しぶりに稽古を付けてやろう」
と言うなり、弟の胴を腰に乗せて地面に投げ付けてしまった。それで狗古智卑狗は甚くしょげて、張政に泣き付いたのである。
「張政さんといったな、どうか姉に取りなしてくだされ」
張政が宿にしている室に狗古智卑狗は訪ねて来た。
「どうか頼む。姉に睨まれては生きた心地がしねえんだ」
そこだけは父親に似たらしい、骨の太そうな体を幾重にも畳んで、狗古智卑狗は頼み込む。
「そうは申されても、王は臺与さまに会わせはしますまい」
「いやそれはもう懲りた。臺与を姉さんに預けたときの約束を破ろうとしたのが悪かったのじゃ。おれが悪かった。だから早く狗奴国に帰れるように計らっておくれでないか」
と言うのは、狗古智卑狗が狗奴王から「奴王の霊を慰めてから帰れ」と言い付けられている事である。それを果たすには、奴王の墓を作る許しが要る。これについては張政にも、難斗米の為に思う所が有った。張政は狗古智卑狗の頼みに乗って、演習中の姫氏王を訪ねに出る。温暖なこの土地にも、冬となれば冷たい風が吹く。粛殺の気を湛えた灰色の雲の下に、女王は陣を構えている。
「案じるな。近いうちに沙汰をするであろう」
聡明な女王はとっくに張政の来意を見通している。
「あの弟がおっては予もおちつかぬし、斗米にも句切りをつけさせてやらねばならぬしな」
と言った頭巾の中の眼に、人の子らしい温情が浮かぶのを張政は見た。
「しかしどうだ、張政。狗古智の人品をどう思う」
「はっ、それは……」
「遠慮をいたすな。有り体に申してみよ」
この女王の眼神に射られると、物を隠すのは無駄という気に張政はさせられる。
「やや考えの足りぬお方であるらしく見受けました」
やらかしてからああもくよくよするとは、どうも見通しの利かない思慮の浅い人物だな、と張政は見ていた。
「愚かなものであろう。出来の良い兄たちが前に死んでしまって、父上にも気の毒なことだ。だが予には都合の良いことだ。父上が王であってこそ巴琊斗どもも命がけで国を守るであろうが、狗古智ではとても手懐けられまい」
「では、やはり狗奴国を併せるおつもりなのですか」
「数年のうちにはそうなる」
「国というのは……」
張政には、中国に旅した時に抱いた疑問が有った。
「……国というのは、どうでも大きくしなくてはならぬものなのでしょうか」
「それが世の習いであろう。中国にも昔は小さい国が万を数えたと聞いている。それが全て漢の統べる所となったではないか」
「しかし、その漢もとうに瓦解をして、九州は血で血を洗う戦いをし、やや鎮まった今も荒んだままです。吾が中国で見聞きした所では、皆こんなことなら小国寡民の昔が良かったと嘆いておりました」
「そうか」
張政が洛陽に行って大いに感じ入った話しにも、姫氏王は心を動かさない。
「だがいくら昔を懐かしんでも、本当に返ることは出来まい。戻り道は無いのだ」
その眼はもう冷徹な権力者のそれに戻っていた。〈邪馬臺と狗奴の王にして、全ての倭人の王〉になるという姫氏王の決意に揺るぎは無い。
難斗米が姫氏王より一つの辞令を受けたのは、その翌日の事であった。
「汝、予が命を承けて大率と為り、伊都国を治所として、北の海に循う国々を巡り察よ」
その任務の証として、難斗米は再び伝世の太刀を貸し与えられる。
「併せて奴王の冢を造り骸を葬れ。奴王の晩節に犯した罪は万死に値するものであるが、かつての積徳に免じて、特に庶人の礼式を以て葬ることを赦す」
この所ずっと口数少なであった難斗米は、この日いくらか晴れた顔を張政に見せた。難斗米と狗古智卑狗は北へ向かう。次の夏まで邪馬臺に留まる事になっている梯儁たちをひとまず残して、張政も難斗米に付き添って行く。
「おおい、臺与に会わせてくれ。顔だけでも見せてくれ!」
狗古智卑狗は、姫氏王が外に出ている時を見計らって、臺与に会わせろ、という要求をしに来る。しかし留守居をする侍女や衛兵たちは、「狗古智を臺与に近付けるな」という固い君命を受けている。
「いけません。ここをお通しするわけには」
一方で、君主の弟である狗古智卑狗の要求にも重みを感じない訳にはいかない。
「ご勘弁ください。大王の禁を仰せつかっておりますゆえ」
狗古智卑狗はそう拒まれて、主人の帰らぬ内に引き退がるという行止を何日か繰り返し、その果てに、
「お、おれの子なんだぞ!」
と口走った現場を、姫氏王に押さえられた。王は目に瞋りを表し、腕を斜交いに狗古智卑狗の襟をつかんで、
「久しぶりに稽古を付けてやろう」
と言うなり、弟の胴を腰に乗せて地面に投げ付けてしまった。それで狗古智卑狗は甚くしょげて、張政に泣き付いたのである。
「張政さんといったな、どうか姉に取りなしてくだされ」
張政が宿にしている室に狗古智卑狗は訪ねて来た。
「どうか頼む。姉に睨まれては生きた心地がしねえんだ」
そこだけは父親に似たらしい、骨の太そうな体を幾重にも畳んで、狗古智卑狗は頼み込む。
「そうは申されても、王は臺与さまに会わせはしますまい」
「いやそれはもう懲りた。臺与を姉さんに預けたときの約束を破ろうとしたのが悪かったのじゃ。おれが悪かった。だから早く狗奴国に帰れるように計らっておくれでないか」
と言うのは、狗古智卑狗が狗奴王から「奴王の霊を慰めてから帰れ」と言い付けられている事である。それを果たすには、奴王の墓を作る許しが要る。これについては張政にも、難斗米の為に思う所が有った。張政は狗古智卑狗の頼みに乗って、演習中の姫氏王を訪ねに出る。温暖なこの土地にも、冬となれば冷たい風が吹く。粛殺の気を湛えた灰色の雲の下に、女王は陣を構えている。
「案じるな。近いうちに沙汰をするであろう」
聡明な女王はとっくに張政の来意を見通している。
「あの弟がおっては予もおちつかぬし、斗米にも句切りをつけさせてやらねばならぬしな」
と言った頭巾の中の眼に、人の子らしい温情が浮かぶのを張政は見た。
「しかしどうだ、張政。狗古智の人品をどう思う」
「はっ、それは……」
「遠慮をいたすな。有り体に申してみよ」
この女王の眼神に射られると、物を隠すのは無駄という気に張政はさせられる。
「やや考えの足りぬお方であるらしく見受けました」
やらかしてからああもくよくよするとは、どうも見通しの利かない思慮の浅い人物だな、と張政は見ていた。
「愚かなものであろう。出来の良い兄たちが前に死んでしまって、父上にも気の毒なことだ。だが予には都合の良いことだ。父上が王であってこそ巴琊斗どもも命がけで国を守るであろうが、狗古智ではとても手懐けられまい」
「では、やはり狗奴国を併せるおつもりなのですか」
「数年のうちにはそうなる」
「国というのは……」
張政には、中国に旅した時に抱いた疑問が有った。
「……国というのは、どうでも大きくしなくてはならぬものなのでしょうか」
「それが世の習いであろう。中国にも昔は小さい国が万を数えたと聞いている。それが全て漢の統べる所となったではないか」
「しかし、その漢もとうに瓦解をして、九州は血で血を洗う戦いをし、やや鎮まった今も荒んだままです。吾が中国で見聞きした所では、皆こんなことなら小国寡民の昔が良かったと嘆いておりました」
「そうか」
張政が洛陽に行って大いに感じ入った話しにも、姫氏王は心を動かさない。
「だがいくら昔を懐かしんでも、本当に返ることは出来まい。戻り道は無いのだ」
その眼はもう冷徹な権力者のそれに戻っていた。〈邪馬臺と狗奴の王にして、全ての倭人の王〉になるという姫氏王の決意に揺るぎは無い。
難斗米が姫氏王より一つの辞令を受けたのは、その翌日の事であった。
「汝、予が命を承けて大率と為り、伊都国を治所として、北の海に循う国々を巡り察よ」
その任務の証として、難斗米は再び伝世の太刀を貸し与えられる。
「併せて奴王の冢を造り骸を葬れ。奴王の晩節に犯した罪は万死に値するものであるが、かつての積徳に免じて、特に庶人の礼式を以て葬ることを赦す」
この所ずっと口数少なであった難斗米は、この日いくらか晴れた顔を張政に見せた。難斗米と狗古智卑狗は北へ向かう。次の夏まで邪馬臺に留まる事になっている梯儁たちをひとまず残して、張政も難斗米に付き添って行く。
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