文字の大きさ
大
中
小
28 / 41
東夷の巻
狗奴王父子
狗奴王は、年齢なりに衰えてはいるものの、骨の太そうな大きい体をしている。狗奴王が邪馬臺の邑に着いた時には、姫氏王を倭王とする冊命の儀式はすっかり終わっていた。儀式に招かれた客たちは、賜り物の一部を分け与えられ、姫氏王が倭王に冊封された事を国々に知らしめよと促されて、帰ってしまった後の事である。狗奴王は副官で末の王子である狗古智卑狗と、巴琊斗と呼ばれる近衛兵八人を伴って来た。
狗奴王は姫氏王の父で、姫氏王の母は前の邪馬臺王の女、狗古智卑狗は姫氏王の同腹の弟である。
かつて今より五十年程前、奴王氏の徳が衰えて、倭地の秩序は乱れた。そこで前の邪馬臺王は、兵甲を整えて諸国を糾合し、不弥の野で奴国の軍と戦った。進んでは戦い、戦っては退き、兵を練ってはまた進み、合戦する事十数に及んだが克たなかった。さてはと邪馬臺王は南へ使いを遣わして、狗奴王に頼み、勇猛を以て知られるその精兵を借り受けた。再び北へ進んで奴国の軍を破り、乃く前の奴王を捕らえて首を打った。
しかし長く倭人の盟主であった奴王の権威に対する人々の思慕はまだ大きく、邪馬臺王の下風に立つ事を潔しとしない者の一部は、奔逸して東へ海を渡る動きを示した。そこで邪馬臺王は奴国の西辺の地を割いて伊都国とし、奴王氏の少年をここに居らせて位を継がせ、引き続き全ての倭人の王として諸国を代表する権利を持たせた。一方で邪馬臺王は狗奴王と盟約を交わし、互いにその国の王と称する事を認め、それぞれが北と南の諸国を分けて掌握する事を定めた。
狗奴王はこの時に、派兵の酬いとして邪馬臺王の息女を得て、その家に通い、一女一男を産ませた。即ち今の姫氏王と狗古智卑狗である。
邪馬臺の邑を繞る土塁の一辺に開いた門で、番兵に来意を告げた狗奴王は、その中には入らず、そのまま北東の郊外へ向かった。そこはなだらかな丘陵であり、前の邪馬臺王が永遠に眠る冢が有る。そこで狗奴王は姫氏王を待った。姫氏王は大勢の兵士に守らせて、あの綺羅びやかな王服を纏い、枯れ葉に覆われた地面を踏んでそこへ向かう。狗奴王は汚れた旅装のままで、笠を縫いだ頭は白髪もまばらである。姫氏王は孫とも見える程に歳は離れている。
「父上、お疲れでしょうに。屋敷の方へお越しにはなりませんか」
と、女王は挨拶をする。冷たい風がカサカサという音を奏でている。
「汝は今日こそ、この父をも下座に着かせるつもりであろう」
狗奴王が何を言わんが為に来たのか、女王には分かっている。
「もう遅うございます。この寡人の名は天子にまで知られているのですから」
女王は紫色の綬が付いた真新しい金印を手に輝かせる。狗奴王は眼をギョロリとさせて張政を一瞥する。
「なぜじゃ」
老王は、顔の皺を更に深める。
「なぜ独り天子を仰いだ。この地を二つに分け、倶に天を戴くという約束、汝が祖父公の位と共に受け継いでおるはずではないか」
「物事には、出来る時と出来ぬ時とがございます」
「今は、出来ぬ時になったと申すか。なぜじゃ」
「父上とて、東へ行った連中が国を作って、こちらを窺っているのを知らぬわけではありますまい」
「そんなものは、力を合わせれば防げよう」
「防ぐのではない」
「何と」
「防ぐのではなく、こちらから打って出ます」
「何と申す」
「孤は邪馬臺の王にして全ての倭人の王。東の服ろわぬ者どもにも知らしめなくてはなりません。全て倭人の国々は我がもとに一つにまとめ上げてみせます」
女王は、きっぱりと言い放つ。
「フム……」
老王は、何を思ってか、しばし白い眉を持ち上げたまま押し黙る。北からの風が、枯れ葉をどよめかせる。
「余が生きているうちは、誰の好きにもさせぬぞ」
老王は、この話し合いを諦めて、傍らに控える王子に命じる。
「余はもう帰るが、おまえは奴王の霊を慰めてから戻れ」
狗古智卑狗は、それまで父と姉の対話を、聞くでもなく聞かぬでもないという態で、ぼうっとしていたのが、急に声を向けられてはっと目が覚めた様な顔をする。
「えっ、おれ一人で残るんですか」
「何じゃ、不服か」
叱られそうな気配を感じて、
「いえ、滅相もない。全て父上の仰るとおりにしますとも」
と小さくなる。
狗古智卑狗は、もともと邪馬臺で育てられた。狗奴王が多くの妃に生ませた何人もの王子は、この父が長生きをする間に、一人死に、二人死に、次々と世を去って、とうとう国許にはその墓が並ぶばかりとなった。そこで狗奴王は、狗古智卑狗を呼び寄せて、跡継ぎとして育てるべく副官の役目を与えたのであった。
すぐに帰ると言った狗奴王は、結局時間の都合で一晩だけ邪馬臺の邑に泊まり、翌日の朝早く帰途に就く。姫氏王は兵士を動員して薄明かりの中で調練を行い、これを以て老父の見送りに代えた。
狗奴王は姫氏王の父で、姫氏王の母は前の邪馬臺王の女、狗古智卑狗は姫氏王の同腹の弟である。
かつて今より五十年程前、奴王氏の徳が衰えて、倭地の秩序は乱れた。そこで前の邪馬臺王は、兵甲を整えて諸国を糾合し、不弥の野で奴国の軍と戦った。進んでは戦い、戦っては退き、兵を練ってはまた進み、合戦する事十数に及んだが克たなかった。さてはと邪馬臺王は南へ使いを遣わして、狗奴王に頼み、勇猛を以て知られるその精兵を借り受けた。再び北へ進んで奴国の軍を破り、乃く前の奴王を捕らえて首を打った。
しかし長く倭人の盟主であった奴王の権威に対する人々の思慕はまだ大きく、邪馬臺王の下風に立つ事を潔しとしない者の一部は、奔逸して東へ海を渡る動きを示した。そこで邪馬臺王は奴国の西辺の地を割いて伊都国とし、奴王氏の少年をここに居らせて位を継がせ、引き続き全ての倭人の王として諸国を代表する権利を持たせた。一方で邪馬臺王は狗奴王と盟約を交わし、互いにその国の王と称する事を認め、それぞれが北と南の諸国を分けて掌握する事を定めた。
狗奴王はこの時に、派兵の酬いとして邪馬臺王の息女を得て、その家に通い、一女一男を産ませた。即ち今の姫氏王と狗古智卑狗である。
邪馬臺の邑を繞る土塁の一辺に開いた門で、番兵に来意を告げた狗奴王は、その中には入らず、そのまま北東の郊外へ向かった。そこはなだらかな丘陵であり、前の邪馬臺王が永遠に眠る冢が有る。そこで狗奴王は姫氏王を待った。姫氏王は大勢の兵士に守らせて、あの綺羅びやかな王服を纏い、枯れ葉に覆われた地面を踏んでそこへ向かう。狗奴王は汚れた旅装のままで、笠を縫いだ頭は白髪もまばらである。姫氏王は孫とも見える程に歳は離れている。
「父上、お疲れでしょうに。屋敷の方へお越しにはなりませんか」
と、女王は挨拶をする。冷たい風がカサカサという音を奏でている。
「汝は今日こそ、この父をも下座に着かせるつもりであろう」
狗奴王が何を言わんが為に来たのか、女王には分かっている。
「もう遅うございます。この寡人の名は天子にまで知られているのですから」
女王は紫色の綬が付いた真新しい金印を手に輝かせる。狗奴王は眼をギョロリとさせて張政を一瞥する。
「なぜじゃ」
老王は、顔の皺を更に深める。
「なぜ独り天子を仰いだ。この地を二つに分け、倶に天を戴くという約束、汝が祖父公の位と共に受け継いでおるはずではないか」
「物事には、出来る時と出来ぬ時とがございます」
「今は、出来ぬ時になったと申すか。なぜじゃ」
「父上とて、東へ行った連中が国を作って、こちらを窺っているのを知らぬわけではありますまい」
「そんなものは、力を合わせれば防げよう」
「防ぐのではない」
「何と」
「防ぐのではなく、こちらから打って出ます」
「何と申す」
「孤は邪馬臺の王にして全ての倭人の王。東の服ろわぬ者どもにも知らしめなくてはなりません。全て倭人の国々は我がもとに一つにまとめ上げてみせます」
女王は、きっぱりと言い放つ。
「フム……」
老王は、何を思ってか、しばし白い眉を持ち上げたまま押し黙る。北からの風が、枯れ葉をどよめかせる。
「余が生きているうちは、誰の好きにもさせぬぞ」
老王は、この話し合いを諦めて、傍らに控える王子に命じる。
「余はもう帰るが、おまえは奴王の霊を慰めてから戻れ」
狗古智卑狗は、それまで父と姉の対話を、聞くでもなく聞かぬでもないという態で、ぼうっとしていたのが、急に声を向けられてはっと目が覚めた様な顔をする。
「えっ、おれ一人で残るんですか」
「何じゃ、不服か」
叱られそうな気配を感じて、
「いえ、滅相もない。全て父上の仰るとおりにしますとも」
と小さくなる。
狗古智卑狗は、もともと邪馬臺で育てられた。狗奴王が多くの妃に生ませた何人もの王子は、この父が長生きをする間に、一人死に、二人死に、次々と世を去って、とうとう国許にはその墓が並ぶばかりとなった。そこで狗奴王は、狗古智卑狗を呼び寄せて、跡継ぎとして育てるべく副官の役目を与えたのであった。
すぐに帰ると言った狗奴王は、結局時間の都合で一晩だけ邪馬臺の邑に泊まり、翌日の朝早く帰途に就く。姫氏王は兵士を動員して薄明かりの中で調練を行い、これを以て老父の見送りに代えた。
感想 0
あなたにおすすめの小説
【完結】上海新選組 原田左之助 山崎烝 明治冒険譚 ──Shanghai samurai dad&son──
小海倫明治。死んだはずの新選組十番隊長・原田左之助は、大陸の租界・上海にいた。
その傍らには、京都新選組時代の諜報に利用し、奇怪な家伝の秘薬の副作用で幼い子供の姿となってしまった元新選組監察・山崎烝。
二人は偽りの「実業家 松山誠親子」として暮らしながら、大陸の租界を彷徨い、謎を追う──
洋装で槍を振るいつつ【坂本龍馬殺害】の濡れ衣に追われる原田。
大人の意識を保ち、手には武器の毒針、推理に鋭い頭脳を働かながら、肉体が少しずつ幼くなっていく恐怖に怯える山崎。
租界都市・上海からサイゴン、漢口。
そして天津での「ラスボス対決」へ。
果たして彼等2人を追うラスボスとはいったい誰なのか?
過去の史実エピソードやアクション、ミステリー要素を含めた新選組の生き残りたちが辿る、歴史伝奇冒険譚!
永倉新八、土方歳三も登場。
完結済。
黄金の艦隊 マネー・パワーで歴史を変える男
俊也「平和を金で買えるなら、それに越したことはない。
戦争が避けられないなら、せめて日本が負けない力を金で買おう」
1930年代より世界経済の混乱に乗じて自らの海運会社を急成長、新興財閥を立ち上げた男の、重課金架空戦記!??
姉妹作
「零戦戦記」
「総統戦記」
も、よろしくお願いします。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転
小林一咲不倫妻に捨てられ、会社もクビ。
人生の底に落ちたアラフォー社畜・恩塚聖士は、偶然買った宝くじで“非課税10億円”を当ててしまう。
防音タワマン、最強機材、そしてバ美肉VTuber「姫宮みこと」として新たな人生が始まる。
どん底からの逆転劇は、やがて裏切った者たちの運命も巻き込んでいく――。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagaseこの物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。