朱炎の姫君と王弟殿下

暁月りあ

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第1章

返したいもの

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【朱炎の】

 日傘を差して庭に出ていると、ルーンウルフが足元へすり寄ってくる。
 少し日傘をずらして彼女はルーンウルフの頭をなでた。
 見た目は威圧感たっぷりにも関わらず、気持ちよさそうに目を細める姿は彼女に心を許しているのだと周囲に知らしめている。

「ここでは、そう呼ぶのはやめてほしいの」

 そっと願いを口にする。
 その名は自分には相応しくないと彼女は思う。
 本来しなければいけないことを隠したのは父。それでも、従順に従い、役目を放棄したのは彼女自身。
 守るべき立場なのに、彼女はただ隅で生きることだけを望まれた。

【汝がそう望むのであれば。しかし、なんと呼べは良い】
「そう、ね……」

 目を伏せて、考える。
 ルーンウルフはきっと毎日のようにブラッシングを行われているのか、ふさふさの毛並みは飼い猫のようで、決して剛毛ではない。彼女が触れてもチクチクとしない毛並みは、彼女の心を少しだけ癒やしてしまう。

「ヴィアと。そう呼んで貰えれば」

 家族とかつて仕えてくれた者たちは彼女のことをそう呼んだ。
 時々訪ねてきた兄と姉はいつもいう。愛おしいヴィア。我らのヴィア。
 名前から短縮されたようでヴィア──至宝という古い意味を持つ呼び名。

【ヴィア……ヴィア……良き呼び名だ】

 舌の上で転がすように何度も言いながら、ルーンウルフはほんの少し口角を上げた。
 良い名前だと言わなかったのは、それが本名ではないとルーンウルフも分かっているからだろう。

「貴方にも呼び名はあるの?」
【あぁ。我のことはレオと】
「格好いい名前ね」

 レオ。獅子という呼び名は、正しくこのルーンウルフに似合う呼び名だ。
 純粋な感想を返すと、フリッとレオの尻尾が揺れる。
 レオと彼女は連れ立って庭を歩いてた。
 庭師が手掛けた庭は、中央にある白亜の噴水を中心に季節の花が植えられている。
 奥にあるガゼボには、リオーネがお茶の準備をして待っていた。
 彼女へ日傘を渡して席につくと、ひざ掛けを別の侍女から渡されて、リオーネ以外の侍女は下げられた。

「美味しい」

 口をつけた紅茶に、素直な感想が漏れる。
 それにリオーネは礼をするが、押し隠した表情から嬉しいという声が聞こえてくるような華やかな雰囲気を醸し出していた。思わず、彼女はそれに微笑みを浮かべる。

「リオーネの茶は格別だからな」

 ひょいっと、後ろから伸びた手がカップを持ち上げて、残っていた紅茶を飲み干してしまう。

「坊ちゃま。なんてはしたない」

 一転して般若のように肩を怒らせるリオーネに、男は肩を竦めてカップをリオーネに渡しながら、彼女の前席に座った。

「少し顔色が悪い。無理をしたか」

 男の言葉に、彼女は頬へ手を当てた。
 手袋越しでは自分の頬の温度などわかりはしないが、本当に微かにだが気分が悪くなっている。
 言われなければわからない程度の気分の悪さでしかない。
 男に言われて彼女の体調が思わしくないことを察したリオーネがおろおろするが、彼女は首を振った。

「まだ、体力がついていませんので。少しずつ、体力もつけたいのですが」
「暫くは庭の散策を1時間以内に留めるように。レオ、見極められるな」

 彼女の足元にいたレオは怠そうに顔を上げて、ため息を吐かんばかりに吐き捨てる。

【過保護過ぎる】
「体力がつけば、剣を渡すつもりだからな」

 ピクリと彼女の体が揺れる。
 驚いて男を見た彼女に、男は何故と言わんばかりに首を傾げた。

「嫌か」
「……いえ、何故とは、思いましたが」

 男は分かっているのだ。
 彼女の身に流れる血は、戦いを求めることを。
 隠される前は、他の兄姉と同じように剣の稽古に励んでいたのだから。

「失った時間は取り戻せないが、それでも、お前に返せるものは返したい」
「返せるもの……?」

 目の前の男とは、この前が初対面のはずである。
 なにも男に奪われたものはないというのに。
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