朱炎の姫君と王弟殿下

暁月りあ

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第1章

なにもの

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 入室許可の後、執務室へ入ると、正面の執務机でちょうど男が書類を置くところであった。その足元にはルーンウルフが控えており、背後にある窓から浴びる日光がとても気持ち良さげだ。

「座れ」

 男に言われた通り、執務室の前にある応接用のソファへと腰を掛ける。
 執務室は片面本棚になっており、びっしりと本が並べられている。その反対側には観葉植物が置かれ、壁には絵画がかけられており、部屋がただの作業場にならないように務められていることが伺えた。
 その隣に隣室へと繋がる扉があり、簡易調理場があるのか、そこから出てきたリオーネがお茶の準備をして、再び下がっていく。今は兄のものとなった執務室も似たような作りだったので、もしかすると執務室というのはこういうものなのかもしれない。

「昨日は、何故。あそこにいた?」

 彼女の行動を咎めるような響きの言葉に、彼女は理解する。
 彼はわかっているのだ。彼女が何者で、本来は生きているはずのない人物だということに。
 それもそのはずだろう。彼女の見事なまでに朱く染まった髪色は、本来、この世界に生きるヒトではありえないものなのだから。
 だから、彼女もその問いに慌てることなく、そっと、呟くように答える。

「逃げなさい、と。言われました」

 記憶を辿りながら、ぽつりぽつりと、彼女は彼に告げる。

「ある日を堺に、私は屋敷から出たことがありませんでした。十数年、庭すらも出ることが叶わず、屋敷に籠もっていた私は、少し、呟いてしまいました」

 街は、どういうものだろう。森は、どういうものだっただろう。川は冷たかっただろうか。風は今の季節だと、寒いのだろうか。石畳を今駆けてしまうと、きっと足を痛めてしまうのだろう。でも、もう、十年以上も外に出てないのね。
 彼女の呟きに答えるように、本来開かないはずの扉が開いた。鍵が閉まっているはずの扉が触れただけで開き、彼女を外へと促した。逃げなさい、という女性の声。それは恐らくずっと彼女を監視していた屋敷の誰かだったに違いない。

「導かれるように屋敷から出て、走って、走って。そうしたら、森のなかに入ってしまって……」

 屋敷を出てしまったのは彼女の意思だった。たとえそこに真実が隠されていたとしても。

「戻ることも出来ずに、困っておりました。貴方様には感謝しております」
「言っていることに嘘はないが、真実の半分は隠れているな」

 頬杖をついた男は、彼女の言葉を正確に把握する。言っていることが嘘か真かなどと、誰がわかるというのか。笑いながら嘘を吐くものがいる。泣きながら嘘を叫ぶものもいる。
 確かに、彼女は嘘はついていない。声の主が彼女を殺そうと思って追い出したわけではなく、本当に一時だけでも外に出してあげようと心を配ってくれたように聞こえた。声の主が騙されたのか、そう命令されたのかは分からないが、彼女が屋敷に戻れなかった理由は、別のところにあった。
 言う必要はない。キュッと唇を噛んだ彼女を見て、男は立ち上がる。

「言いたくないことは言わなくていい」

 そっと彼女の斜め隣に跪いて、男は彼女を覗き込んだ。真っ直ぐに向けられる視線は、彼女を見透かそうとする。

「お前は、戻りたいか」

 そう、問われて。彼女は目を伏せた。

「もう、戻れません。自ら、鳥籠から出てしまったのですから」

 鳥籠から出てしまった鳥は、野生に帰ることなど出来はしない。ただ、一瞬の自由を謳歌して、死にゆく定め。彼女も己がそうなることを、この男に出会うまでは確信していた。

「貴方は、私を鳥籠に戻しますか?」

 そう問いを返せば。彼は首を振った。

「気がすむまでここで過ごせばいい」

 そうして、彼女と男の不思議な同居生活が始まった。
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