このために生まれてきた

氷星凪

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そりゃ1話しかない

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 布団の中は、暖かいが空洞ばかりだった。気づいたら冷たい風が吹き、喉が張り付く季節になっていたのも、SNSの顔の見えない誰かの投稿で身に染みるより早く感じた。そういう小さな悔しさみたいなのが積み重なった結果として、今、二十時にベッドの上でスマホを見る自分がいる。その事実がまた、積み重なり。

 さっきまで動画を何度も楽しそうにスクロールしていたが、もはやスマホを見るのにも疲れて、俺はその何も映らない画面に反射した自分の顔を見ていた。ほぼ無意識下だ、じゃなかったら自分の顔なんて故意に見ようとはしない。捻りのない黒髪の短髪、最近少しだけ襟足が伸びてきた気がする。最後に染めたのは、一年前に初めての彼女と付き合って半年ぐらいの頃だったかな。その時も、別に茶色とかで、そんな攻めた色には出来なかったけど。

 薄い眉。それなりに高い鼻。少し痩せ気味の頬。便宜上仕方なく外に出ていることを表す、白い肌。細い腕ゆえに、スマホを持つ腕に出る血管を彼女は好きだと言っていた。自分の顔とか体とか、全然気に入らなかったけど、そう言ってくれる彼女のおかげできちんと鏡を見て顔が洗えるくらいにはなった。
 最初で、最後の彼女、今のところは。でも、あれほど好きになれる人もそうそう見つからないだろうとまだ二十歳になったばかりなのに、俺はたかを括っている。

 ここ最近は忙しかった。と言っても、そんな激務のサラリーマンのような忙しさでは無い。少し遅めに起きて、電車に乗って、大学で講義を受けて。その後、その日の講義で出された課題をこなして、気づいたら夜になっているのを見て、急いで家に帰る。振り返って思ったが、世間的には別に普通なぐらいなのかもしれない。

 それでも、そのサイクルは完璧では無かった。大学から家までの距離は大体電車で一時間弱かかるほど。急いで帰ってきて、お風呂に入って、ご飯を食べて、とやっていたら十二時を回る。悪い癖だが、そこからベッドに寝転んだままスマホで動画を未漁ってしまい、そこから発展して日中にSNSでブックマークしたそういうイラストとかポルノ動画を、ただ見るだけで二時になっている。
 気づいたら習慣のようになっていたそれのせいで、前まで一限に間に合わないから、と二限の授業を増やしていたくせに、今期は二限の授業にも毎回必ず遅刻するようになった。二限の授業が始まるのなんて、ほとんどお昼頃なのに。

 昔は、ずっと優等生として扱われてきた。小学校、中学校と皆勤賞でテストの点数も良かったし、何より先生からも慕われていて友達も多かった。高校生の、大学受験が始まった頃から少しずつ歯車が狂ったような気がする。
 塾に行くと高校の雰囲気とは比べ物にならない凄まじい熱量で勉強を行なっている人ばかりで、もちろんそういう人達はどんどんと結果を出していく。俺もなんとか追いつこうと努力はしたつもりだったが、結局それは名前も知らない彼らの下位互換でしか無かった。

 その時からストレスが限界に達したら、スマホで動画を見て現実逃避するようになっていた。どんなポルノも流れてきたら食い漁ったし、いわゆるシチュエーションボイスなんかも聞きまくった。イヤホンをつけて耳を舐められる音声を流し、それに反応して体を震わせ、頭を蕩けさせることでで満たされない心の何かが埋まっていくような気がしたからだ。そう感じた時、このスマホの中にある世界が自分のためのご褒美で、現実世界の体験が苦しみのように脳が恐らく認識し始めた。恐らくそれからだ、人付き合いというものが苦手になったのは。

 大学ではいつも一人で過ごしている。講義も一人で受け、課題も一人で図書館に篭って行う。グループワークの授業だと序盤で説明をされた瞬間、重たいリュックサックを静かに持ち上げ、教室を出て行ったこともあった。最大限バレないようにしたつもりだったが、多分教授の視線含め全員が察していた。
 それなのに、彼らはわざわざ咎めることはせず、話の話題にも上げなかった。そうやって教室の外の暗闇に出た時、俺は初めてというものを知った気がした。

 それでも一人でいることをやめられないのは、とにかく楽だからだ。お喋りに夢中で講義中に教授に怒られることも無ければ、集中して課題を効率的に進められる。たまにどうしようもなくなって講義を休んでしまった時に、その日の内容を聞ける友達がいないのは非常に不利益なことだが、俺自身そこまで出来損ないわけじゃないため、満点は無理にしても期末テストにしろレポートを書くにしろ、七割は取れていた。だから、別にこのままで良かった。

 ただ、それでも満たされないものはあった。失ってしまって取り返したいもの、と言った方が適切かもしれない。胸が苦しくなってきて、スマホを開きカメラロールの奥底の非表示ファイルを開く。そこには、もうとっくに別れた彼女とのツーショットの写真がずらっと並んでいた。
 色んなところに行ったな、と彼女の快活な笑顔を見て思い出す。もう連絡先は消してしまったけど、こういうどこか遠出した時の写真は基本的に俺ではなく彼女が撮って、次の日ぐらいにメッセージアプリで送ってもらい、それを保存し直していた。だから写りも良いし、何より俺も彼女も生き生きとしていた。

 付き合い始めた頃は、もう一生一緒にいるんだなと感じた。働き始めて結婚して、苦しいこともあるけど乗り越えていけるだろうと、高校生の頃まで結婚反対派だった俺らしくないことを考えていた。だが、それはまあ、俺のせいで崩れた。
 そういう、ポルノばかりを見ていたせいか。俺は、好きだという気持ちと欲の境界線が余りにも曖昧だった。舞い上がっていたのもあるかもしれない。彼女が俺に向ける好意は確かに最初はとてつもなく大きかったから、何か俺は勘違いをしたのだ。

 別れを切り出したのは、彼女だった。その頃は確かに俺も彼女に申し訳なさを感じていた。こんなに素敵で明るくて、純粋な女性に自分なんて似合わないと。

「他の人と幸せになってほしい」

 苦しかったけど、そんな言葉を漏らさずにはいられないほど俺は涙を隠せなかった。会う度にどこか彼女の期待に応えられていないような気がして、それでも体の中から湧き上がる欲に支配されそうになって。そういう人間の原始的欲求の渦の中に、自分が飲み込まれそうになるのが嫌だったし、彼女を巻き込みたくなかった。

 だから、彼女の提案にはすんなりと頷いた。最後に会ったのは今から六ヶ月前。最寄りの駅で会い、お互いに手を背中に回し、軽くハグをした。出会い始めの頃もこんなことをしていたと思い出しながら、その彼女の体を抱きしめる力を強めた。唇と唇を重ねることはしなかった、昔は数える気の無くすぐらいしていたけど。
 彼女は泣いている顔を見せないようにして、そのまま改札を突き抜ける背中を見送って、そして、彼女がもう自分に関わることは無いようにと、自分から全ての連絡先を絶った。

 未練はない。いや、ないと言ったら嘘にはなるが、あっちゃいけないと思う。もう彼女には、新しい彼氏が出来ているかもしれない。そう思うとやっぱり嫌だったが、それで良いと思った。正直、あの時の自分はそういう状況に陶酔していたのかもしれない。だって、贖罪という言葉は少しかっこよすぎるから。

 この布団で、一緒に寝たこともある。でも、勘違いしてほしくないのは俺はそういう周囲の大学生がするような下劣な行為は嫌いだというわけだ。だから彼女ともそういうことはしなかった。ただ、二人で抱き合いながら寝て、お互いの熱を感じる。肌がお互いの形に沈み、鼓動を交換するという高尚な行為。それが、今でも忘れられなくて、もう布団なんかじゃ物足りなかった。


 今日はいつもより早く帰ってきた。課題も終わらせずに、いち早く電車に乗って。丁度帰りのピークだったから、人がそれなりに混んでいた。もちろん座れずにただ立って、周囲を見渡していた。
 俺は思った。キスという行為自体、何がそこまで惹きつけられるのだろうかと。日常的に考えている。ハグも、キスも、そりゃあ出来ることならしたい。その時に頭を埋め尽くす幸福感は、画面を見ている時に分泌される偽りのドーパミンなんかには代えられない。その甘い蜜を俺は吸ってしまったのだ。一度吸ってしまうと、そこからもう後には退けない。それを求めるためなら、なんでもする。ただその思想を俺は、これまで培ってきた理性で一瞬沈静化させているだけに過ぎない。

 車体が揺れ、吊り革を掴む。目の前に座っている人間を見下ろす形になる。座っている彼らの顔と顔の距離は、もう個人のパーソナルスペースの領域を侵害しており、それはすぐ近くにある。俺は疑問に思えてきた。
 なぜ、彼らはキスをしないのか。なぜ、彼らはキスをされないと思っているのか。自分一人だけが意識を持っているような全能感に包まれながら、俺の隣に立っているスーツを着たおっさんの横顔を見る。一点を見つめ、窓の外の景色に集中するような表情。
 俺はこいつにだって、やろうと思えば唇を重ねることは出来る。それとも、今ここでしてやろうか。言っているだけじゃない、俺は本気なのだという態度を世界に見せつけてしまおうかとまで思った。

 もちろん、思っただけだった。だから、今もここでベッドで寝そべっている。彼女が映る写真を無意識に指でフリックしていく度に段々と眉間に皺が寄ってきてしまう。苦しい。ああ、苦しい。もう一度彼女に会いたい。枕元に置いてある、ぬいぐるみを強く抱きしめる。だが、何も解決はしない。
 大学では人が右往左往しすぎて疲れる。一人で行動していると言っても、結局周囲には多くの人が付随することとなるし、本質的に一人になれている実感など微塵もない。それは、家でも同じだった。自分の部屋の扉一枚を隔てたリビングには、父親と母親が恐らくいる。実際に存在しているかは分からない、帰ってきてすぐに自分の部屋に閉じ篭りきりだったから。

 いるかもしれないという可能性があるだけで俺は嫌なのだ。だから、俺は一人暮らしを希望したが、そんなにお金は無いと至極当たり前の理由で断られた。だが今の俺では、一人暮らしすら恐らくままないだろう。バイトも週に一回入れるか入れないかの頻度だし、家事なんてする気も起きない。
 望むなら、郊外にある白い箱のような場所でただ体育座りをしていたい。それだけで十分だと、本気で思っていた。死ぬほどの勇気は無いから、そう。

────ガチャ。

「ただいま」

 玄関で音がして、遅れて声が響いた。低くて、芯の通った落ち着いた声。こんな中途半端な時間に帰ってくるのは、三個上の兄、楼真ろうましかいない。彼は一年前に日本一位の大学を卒業してから、今は大手証券会社に就職している。根っからのエリートコースといった感じで、俺はよく彼と自分を比べていた。その度に少し惨めになった。
 壁の奥で玄関に向かうように廊下を歩く足音がした。母の声が聞こえてきて。

「あれ楼真? あんた、自分の家は?」

「いや~、明日ちょっと出張になっちゃってさ。朝早く駅向かわないといけないからこっちにいた方が早いかなって」

「ちょっとぐらい連絡しなさいよ。もう私らご飯食べちゃったわよ」

「え? 本当? なんか残ってたりしない? 俺めっちゃお腹空いてるんだけど」

「そんなの言われたってねぇ……」

 二人分の足音がリビングに向かっていくのが聞こえてくる。俺は枕に頭を突っ伏しながら、更に家に人が増えたことにため息を一つ漏らした。そして、もう一つ、兄が帰ってきてしまったことにも、肩を落とした。
 それを掻き消すように、またスマホの画面に集中して、お決まりの動画投稿サイトでシチュエーションボイスを流し始める。イヤホンから聞こえてくる音に意識を向けることで、ストレスが遠のいていく。目をゆっくりと瞑り、船に乗るように流れてくる言葉に身を任せて。

「なあ、おい」

 腹を勢いよく蹴られた。布団越しだったが、遠慮を知らない強さゆえ空気が一瞬で口に昇ってきて掠れた声が漏れる。その瞬間、目の前に楼真が立っていることに驚いて飛び起きた。自分よりも少しがっちりとした全身の体型に、短髪の茶髪が若物らしいエネルギーの強さを感じさせている。俺はイヤホンを即座に外して、スマホの電源を切った。

「え……あ、兄さん」

「ん? 今何隠した?」

 スマホを手で引き込み、焦って布団の中の暗闇に隠す。帰ってそのままの半袖、長ズボンの格好が、急に外気に晒されたことにより冷えを感じる。まだ頭が働かない状態で沈黙を続けた後、彼は俯いた俺の顎をその剛健とした手で持ち上げ、無理やり上を向かせた。画面を見てばかりのストレートネックを矯正させようとするような、乱暴な力強さ。指の先にも力が入っており、半分首を絞められている感覚が全身に駆け巡ってくる。

「なぁ。見せろよ」

「……見せる、見せるから」

「ほら、パスコード開けて」

 息を切らしながら、ほぼ手先の感覚だけでスマホのロックを解除する。彼にそれを渡すと、やっと手が離されて俺は肩を揺らして思い切り呼吸をした。スマホの画面をこちら側に向け、さっきまで聞いていたシチュエーションボイスの動画を目の前で見せつけてきて。

「お前、こんなの聞いてたんだ」

 スマホをベッドに投げ捨てて、また頭を掴んでくる。彼は乾いた笑顔のまま、未だ先程の衝撃で目に涙が溜まったままの俺をベッドに押し付けながら。

「どうせ今日もここで寝てて、何もしなかったんだろ。ほんと、」

 彼の顔が、耳元に近づいて。

「気持ち悪」

 その瞬間、全身の鳥肌が立つのを感じた。体が無条件に反応し、腰が震え、ベッドの上でのたうち回る。頭の中が霧に包まれて、目がチカチカとする。その姿を見た彼は、俺の頬を勢いよくビンタした。

「うわぁ~……、やっぱ引くわ」

 今度は笑顔などない、本気で軽蔑した顔。ぼやけた視界の中でそれが虹彩に反射した時、俺は体の隅々が上書きされるような感覚に侵食された。全身の反応を耐えきれないまま、小さく声も漏らしてしまう。気づいたら、彼は部屋からいなくなっていた。
 ぼーっとした頭の中で、頬が熱くなっている感触だけが残る。俺は目を瞑った。心臓の激しい鼓動の音が脳に直接響く。そのまま手の人差し指を噛んで、なんとか心を落ち着けようとする。それでも頬の熱だけは一向に冷めなくて、乱暴な呼吸を何度も続けた。結局、それが収まった頃には全身の力は抜け、ベッドに体も、意識も沈み込んでいた。


 明日には。明日にはもう、あいつはいないんだ。そう言い聞かせながら、カメラロールに残った元彼女の写真をまるでフラッシュ暗算のように脳に読み込ませていく。明日は俺も早く起きて、さっさとこの家を出てしまおう。映る彼女の笑顔を見て、平静を装う。好きだ。そうだ。好きだ、俺はやっぱり彼女が好きだ。そう。そうだ。

「あのさー」

 また、後ろから声がした。壁側を見ながらスマホを見ていたからか、入ってきたのに気づけなかった。振り向くと、彼はパジャマになっていた。風呂上がりだからだろうか、その半乾きの髪をタオルで拭きながらこちらを見下ろすように視線を配せて。

「ちょっとさ。俺の寝る布団敷くの手伝ってくれない?」

「え……? あ、ああ布団? い、いいよ」

「オッケー、じゃあついてきて」

 その冷徹な目線に逆らえるわけもなく、振り返って進んでいこうとする彼の背中を見ながら立ち上がる。パジャマは薄手だからか、彼の背中の骨格がありありと浮き彫りになっていた。なぜか呼吸が少し荒くなってしまい、鼻息が長く伸びた。
 久しぶりに立ち上がったからか、四肢が鉛を詰められているように重かった。床に足の裏をつける。冷たい。足の骨が鳴り、目を擦って歩いて行く。だが、彼は扉の前で止まった。そしてこちら側に振り返った途端、また俺の頬をビンタした。

「……え?」

 頬が熱くなる感覚。思い出す。彼は笑顔を浮かべている。俺は目が泳ぎ、混乱している中、もう一発ビンタを喰らわされる。もっと熱い。何が起きているか考えられなくってきて、その場に膝から崩れ落ちた。両脇を持って俺は彼に体を持たれ、そのままベッドに捨てられるように投げられた。
 硬く握られた拳が俺の腹に、振り下ろされる。

「かはっ……!」

 痛みというより、何かが中に入ってこようとしている感覚。そのまま腹に下ろされた拳は強くねじるようにして腹の上を蹂躙していく。腸を一部分ずつ潰していくような、そんな動き。既に力が抜けていた俺は抵抗することも出来ずに、ただその感覚を味わう。段々と吐きそうになってきて、それでも彼はやめない。「やめて」なんて声を出そうとしても、それは呻き声になって空中に消えていく。

 彼は俺の腰に馬乗りになった。仰向けになった俺の顎を掴み、今度は涙を頬に伝わせている表情を見て、まるで満足したかのように口角を上げる。

「お前、本当は虐められたいんだろ?」

「……そ、そんな……こと」

「じゃあ部屋の鍵ぐらい閉めてもいいんじゃないの?」

「……違う。違う違う違う」

 俺は、今自分がどこで言葉を考えて、どういう気持ちで声を出しているのか分からなかった。今自分に残っているのは、腹をなじられた感覚と顎を掴まれている感覚。そして、頬の熱さ。
 目の前のこいつが、薄笑いを浮かべているのがなんだか無性にムカついてきた。昔からそうだ。こいつは俺が成功してもずっと薄笑って、それを軽々と超える結果を出して。俺の人生、全部こいつのせいなんだ。こいつさえいなければ、俺はなんでも出来るのに。この余裕まみれの顔を、ぐしゃぐしゃにしてやりたい。

 そう思った瞬間より前に、もう体は動いていた。馬乗りになっている彼のその逞しい背中に自分の両手を回し、そのまま自分の胸に引き寄せた。彼の体の温かさが伝わってくる、俺は必死になって腕に力を込めた。

「ちょっ! 待てお前! 何してんだよ!?」

 一気に焦りに変わった彼の顔。ジタバタと体を震わせて逃げようとするので、俺は彼の両足を縛り付けるようにその上から自分の足を交差させた。完全に俺と彼は、今繋がった。彼の体が俺の体に沈み込み、俺の体がその重さを受け入れている。
 温かい。この感覚。包み込まれるこの感覚。お互いの熱を交換している、この。

「離せって! 気持ち悪いんだよお前!」

 彼の顔が徐々に歪んでいく様が、目と鼻の先で見えている。俺の腕を殴り、なんとか体を捩らせる姿のなんと滑稽なことだろうか。風呂上がりだからか、その動きで髪から柔らかなシャンプーの匂いがしてきて、その隆々とした体とのギャップで本当に頭がおかしくなりそうだった。
 彼の顔が目と鼻の先にある。彼の顔が、すぐそこにある。俺は目を大きく開くと、なんだか無意識的に動いていた。やってしまえばいい。

 俺は文字通り、彼の唇を奪った。彼は更に暴れ出した。でも俺は当てつけのように唇をそのまま彼に何度も何度も、ぶつけた。そう、ぶつけたのだった。潤っていて、柔らかな感触。目を瞑るなんてそんな上品なこと、誰から教わったのだろうか。
 そいつの顔を、目を見開いて見てやった。必死に振り払おうとする顔。本気の嫌悪を見せる顔。その時、久しぶりに目が合った。

「ああっ!」

 彼は俺の簡易的な拘束をすぐに解いた。そしてすぐに立ち上がり、手の甲で唇を勢いよく拭うと、部屋の隅でえずいた。涙目になって扉のノブに手をかけ、こちらを振り返る。

「お前……、ほんとに気持ち悪いんだよ……!」

  扉は音を立てて、勢いよく閉まった。ベッドの上で座り込んだ俺は、未だ全身の外側に残る人の熱と、唇に残る甘い憎悪の感覚に体を震わせていた。
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