不器用な人の生き方

紅羽 もみじ

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5話 過去

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 晴海が明里に自傷行為を打ち明けた日の夕暮れ。晴海は自宅へ向かう道中で、自身の行為について初めて理解者を得られた安心感と、これから自分は自傷行為への依存から抜け出せるだろうか、という不安感が入り混じり、複雑な心境になっていた。

(……これから、どうしよう。)

 電車の中で、明里から手渡された電話番号を眺め、スマートフォンを握りしめる。明里は、切りたくなったら電話をしてほしいと言っていた。しかし、その時は必ずと言っていいほど、家族がそばにいる。電話の内容を聞かれたら、明里にも迷惑をかけるかもしれない。

(……まだ、電話するって決めたわけじゃないけど。吉田先生は私のことを理解してくれてる。助けてもらうことができる……)

 様々な考えが、晴海の中で逡巡したが、意を決してスマートフォンを開き、明里の電話番号を登録した。

(……電話じゃなくても、聞いてくれるのかな。)

 登録後の画面には、『吉田先生』という名前と、先ほど登録した電話番号、そして、スマートフォンの機能として、登録相手にすぐ電話をかけられるボタンと、その横に『ショートメッセージ』という項目が並んでいた。メッセージでも応えてくれるのであれば、家族に露呈することなく明里に助けを求めることができる。

(……また、大学行ったら聞いてみようかな。)

 晴海は、自宅の最寄駅に近づいていることに気づき、憂鬱な気分を抱えながら、電車を降りた。
 自宅に帰ると、父親は仕事、母親は台所で夕食の準備をしているようだった。

「……ただいま。」

 晴海が声をかけると、母親は娘の帰宅に気づき、料理の手を止めた。

「あら、おかえり。早かったわね。」
「先生に、わからないこと聞いてただけだから…。」
「そう、勉強、付いていくの大変なの?」
「……大丈夫、先生も教えてくれるし、友達ともよく教え合ってるから…」

 そう言って母親の顔を見た晴海は、思わず、しまった、と動揺した。母親に対して、友人という言葉は、母親を過干渉にさせるスイッチの一つだからだ。

「その、大学の友達って、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、みんな優しいから。」
「そうは言っても、高校の時だってそうだったじゃない。初めは優しい子だからって言ってたのに、途中から…」
「本当に、本当に大丈夫だから!」

 晴海は、呼び止める母親の声を振り切り、自室に逃げ込んだ。母親はそれ以上、晴海を追うことはなかったが、これから夕飯の時刻。また、母親と顔を合わせなければならない。その時にまた、同じように詮索してきたら……

(……翠ちゃんも、他のみんなも、みんないい人だって、あんなに話したのにな…)

 晴海は一気に気疲れを感じ、部屋のベッドに横たわる。母親が、友達という言葉に過敏に反応するようになった理由。それは、今の晴海の状況を生んだ、ある出来事が関係していた。

 高校時代の晴海は、大人しめな性格ではあったが、友人関係は決して少ない方ではなかった。高校は男女共学の公立校で、入学時のクラスは活気あるクラスではあったが、非行に走るような生徒はおらず、ある程度まとまったクラスであった。
 その折に、晴海は竹田舞子という女生徒と特に仲が良かった。というのも、舞子とは中学の頃から学校が同じで、進学先もどちらが誘ったわけでもなく、同じ高校に合格し、2人で喜び合った。
 舞子は大人しめな晴海の性格とは対照的で、明るく活発。また、頼られると断れない性格から、よく晴海以外の友人の宿題を教えたり、担任からの頼まれごとも嫌な顔ひとつせずこなしていた。
 晴海もそんな舞子に宿題を助けてもらったり、高校に上がって難しくなった科目について教えてもらったりしていた。

「高校になったら、こんなに勉強が大変になるなんて思ってなかったよー…」

 机に頭を伏せながら、晴海は高校数学の難しさに愚痴を漏らす。

「私も!3年の時の担任って、結構いいかげんなことばっか言ってたし、担任から高校の勉強は大変だぞーとか聞かされてたけど、あんま本気にしてなかったんだよね。」
「舞ちゃん、あの先生のこといいかげんだって思ってたんだ、ちょっと意外。」
「そりゃ、何か頼んできた時ははいはいーって聞いてたけどさ。そんなことまで私に頼む?!ってことまで、全部言ってきたもん。」
「そっか、知らなかったなぁ。」

 晴海は、周りの生徒から先生に至るまで、いろんな人から頼りにされる舞子を、心から尊敬していた。そして、そんな舞子が、「晴海は、私の中で1番の友達だよ!」と言ってくれることが、とても誇らしく思っていた。

 高校の成績では科目によって得意不得意に左右されていたが、2人とも何とか2学年に進級することができた。そして、あたかも未来は決まっていたかのように、2年次も2人は同じクラスになった。
 2年次のクラスもある程度まとまっているクラスであったが、そのクラスの中でも一際目立つ生徒がいた。佐伯慎吾という男子生徒で、成績も良く、スポーツはバスケが得意、そして何より、他クラスの女子生徒まで佐伯の姿を見に来るという、端麗な容姿の持ち主であった。
 舞子は佐伯に一目惚れしたとのことで、持ち前の活発さとコミュニケーション力で、佐伯にアプローチをかけるようになった。晴海自身は格好いい人がいるな、という印象を持っただけで、特に意識はしておらず、純粋に舞子の恋を応援していた。

「晴海、この髪型変じゃないかな、おかしくない?」
「似合ってるよ、大丈夫だよ。流行りの髪型とかはわかんないけど…」
「ねぇ、今日の帰り、いつも買ってる雑誌の最新刊が出るの、寄っていい?」
「うん、いいよ。舞子、最近よく読んでるよね。」
「ファッション雑誌なんて、ほとんど見てなかったんだけどさ。いろいろ読んでみて、私の好みにドンピシャなやつあったの!晴海もちょっとは、そういうの読んでみたら?」
「いや、私はいいかな……」
「てか、晴海って好きな人とか気になる人いないの?私だって応援したいのにー」
「前のクラスにはちょっと気になるかなって人はいたけど…、あまり接点とかなかったし。」
「接点なんて、こっちから作らなきゃ!今からでも応援するよ!」
「いやいや、私のことはいいから…。ほら、そろそろ佐伯くんが朝練終わって教室来る頃じゃない?」
「あ!やば!晴海、急いで戻ろ!!」

 晴海は、2年に上がってからこの調子で舞子について回っていた。晴海の中では、舞子の恋は応援していたが、舞子が自分磨きにどんどん邁進していく姿に、少し気後れしていたのも事実であった。
 また、舞子が自分磨きのために雑誌やらスマートフォンで調べたことを、度々晴海にも強く勧めてくることがあった。流行のファッションに疎く、また興味も薄かった晴海にとっては、ストレスとまではいかずとも、多少の気疲れを感じていた。
 2年次も夏休みが明けて2学期に入り、担任はくじ引きでの席替えを提案した。結果、舞子は最前列の一番左側の席、晴海は最後列の真ん中の席になった。そして晴海の隣には、舞子が今熱を上げている佐伯の席があった。
 もともと、あまり視力が良くなかった晴海は最後列だと、板書が見えにくく、くじで最後列にいくと前側の席の生徒と席を変わってもらっていた。今回も、この席では板書が見えづらい、と思った晴海は、いつものように

「すみません、先生。私この席だと、文字が見えにくいので、席を変えてもらいたいんですが…」

 と、申し出た。すると、晴海は一瞬、教室内の空気が張り詰めたような緊迫感を感じた。その理由に気づいた時には既に、担任が適当な生徒を指名して席を変わるよう依頼をしており、晴海に「舞子と変わってほしい」と言い出す隙はなかった。要は、クラスの中の何人かの女生徒が、晴海の席に行きたいと思い、担任は誰を指名するのか、できることなら、自分に指名が来てほしい、という願望が漏れ出たのだ。その願望は、舞子も含めて。
 しかし、吉と出たのか凶と出たのか、担任が指名したのは前から2列目の男子生徒で、女生徒が選ばれることはなかった。その日の昼休み、舞子は晴海を廊下に連れ出した。

「ねぇ、今日の席替え、何で私と変わりたいって言ってくれなかったの?晴海がそう言ってくれたら、私が佐伯くんの隣にいけたじゃん。」
「……ごめん、先生に席を変えて欲しいって言った後に気づいたの。でも、私の席に来たのは男子だし、舞子はいつも通りに佐伯くんと話せるのは変わらない…」
「そういうことを言ってんじゃないの!ほんと、晴海って抜けてるよね。だから、私が面倒見てやってんのに。何で肝心なとこで役に立たないわけ?」
「そんな、落ち着いてよ、舞子。あの時に舞子と変えてほしいって言えばよかったとは思ってたの、それは悪かったと思ってるよ。でも…」
「あー!もういい!言い訳なんか聞きたくない。前から思ってたわ、雑誌買いに行く時とかも、なんか渋々付いてきてるみたいな感じだったし、髪型とかメイクとかおかしくないかって聞いても流行りのものわかんないけど、とか言って言葉濁すし!応援するとか言っといて、本当はめんどくさいとか思ってたんでしょ!」
「そんなこと思ってない……」
「言い訳しないでっていってんでしょ!晴海の応援するとか、似合ってるとかも適当に言ってるってことがわかったし、もう私があんたを助ける義理なんてないわ。もう今日から私に近づかないで、顔も見たくないから!」

 そう言い放つと、舞子はショックで呆然としている晴海の元から去っていった。晴海は、瞳から頬にかけて生暖かいものが伝っては流れていることに気づき、人に見られないようにと急ぎ足でトイレの個室に駆け込んだ。
 1人の空間に入った瞬間、先ほど舞子に言われたことや、晴海自身の気持ち、そして、舞子を友人として尊敬していたのは自分だけだったという事実に、晴海は声を押し殺して泣き続けた。
 確かに、2年に上がってから舞子の寄り道に付き合ったり、一緒にお手洗いに行っては身だしなみを整えておかしくないか、と聞いてくることに対して、何も感じなかったわけではない。だが、舞子の恋が成就してほしいという気持ちは、晴海の中に確かに強くあったことも事実だった。なぜ、自分はあの時、適当な理由をつけて舞子と席を変わることができるよう、担任に申し出られなかったのか。本当に自分は、舞子の恋を心から応援していたのだろうか。舞子はあんなに、自分のことを支えてくれていたのに。

 ずっと後に気づいたことだが、舞子は実のところ、晴海のことは友人として対等にみていたわけではなかった。手のかかる子どもの世話をしているような感覚で、無意識のうちに舞子の中で上下関係ができていたのだった。だからこそ、助ける義理もない、と言ったり、自分に面倒をみてもらっている人間が、少し寄り道をしたり身だしなみのことを聞かれて面倒そうにしていることに、納得がいかなかったのだろう。
 少なくとも、晴海自身は嫌々ついていっていたわけではないのだが、高校当時の晴海には、この舞子の態度に気づくことはできず、友人関係を修復できることを強く願っていた。

(……夜、LINEしてみようかな。謝って、ちゃんと応援してるよって伝えたら、わかってくれるかな……)

 1人トイレの個室で、涙を出し切った晴海は、重い足取りで教室に向かった。舞子は、晴海の方を見向きもせず、他の友人達と楽しそうに話していた。
 その日の夜、晴海はどんな文面なら気持ちを伝えられるか、と何度もメッセージの内容を書き直し、舞子にLINEを送った。晴海が眠りにつく時間になっても、メッセージは読んですらもらえず、深夜まで何時間もラインのトークルームを見続けたが、とうとう返事が来ることはなかった。それから1週間、1ヶ月と時間は過ぎていったが、舞子の宣言通り、舞子は晴海に話しかけることすらなく、晴海はいつの間にか、クラス内で1人になっていた。

 舞子との友人関係は、もう元に戻ることはないと悟った晴海は、勉強はおろか学校に向かう気力すら失いつつあったが、学校に行かずに部屋にひきこもるわけにもいかず、出席日数は守っていた。ただ、その代償として始まったのが、今もなお続いている自傷行為だった。
 舞子がクラスメイトと楽しそうに話す声に耐えられず、休み時間になっては教室から少し離れたトイレに逃げ込み、腕に傷をつけては教室に戻った。昼休みは教室から出て、隠れるように1人になれる場所を確保しては昼食を摂り、昼休みの終わりを告げる予鈴がなるまで1人孤独に過ごした。
 3年に上がった時には不幸中の幸いか、晴海と舞子は別のクラスに振り分けられたが、舞子との一件以降、周りとの関わりを持つことに恐怖心を持つようになった晴海は、クラス内でも1人で過ごすことが多くなった。そして、舞子とクラスが離れて以降も、自傷行為を止めることはできなかった。
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