不器用な人の生き方

紅羽 もみじ

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4話 明里の古傷

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 晴海から自傷行為の相談を受けた次の日、明里は研究室で論文を広げて読み耽っていたが、頭の中では昨日、晴海からカミングアウトされた自傷行為のことが、ふとしたときに思い出されていた。電話番号は教えたが、昨日は晴海からの入電はなく、寝る前にほっとしていたことを思い出す。
 昨日の自分の対応に、後悔はしていない。ただ、晴海の自傷行為への依存を抜け出させる手段として、昨日のやり方で果たしてうまくいくのだろうか、それだけが、明里の心配事だった。

(こうしている今も、彼女は自分の気持ちに耐えられずに、傷を増やしているかもしれない…)

 そう思うと、晴海に電話をかけ、聞いてみようかとも思ったが、それでは晴海の保護者が切っていないか、と干渉することと同義になる。明里はただ、晴海からのSOSを漏れなく受け取り、晴海の気持ちに寄り添う、それだけしかできない。自分のできることの少なさに、明里は歯痒さを感じていた。
 引き出しから研究のためにまとめているノートを取り出そうとした時、一枚の家族写真が目に入った。明里が晴海への思い入れを深くしている理由の一つが、この中に詰まっている。

 明里の幼少期で思い出されるのは、厳しくしつけをしてきた両親の姿。両親はその当時としては、比較的若い年齢で明里を出産しており、その若さで子どもを立派に育てられるのか、と周囲から懸念をかけられていたと聞いていた。また、どちらも負けん気や勝気が強かった性格も相まってか、明里の中では褒められた経験より、厳しく当たられた経験の方が多かった。
 明里がちょうど、小学校高学年にあたるころのある日の週末、昼食の準備をしていた母親を手伝っていた明里は、常に母親に叱られながら手伝っていた。明里としては、母の手助けとなれるよう、努力していたつもりであったが、母親は何かあるごとに、怒りの感情を露わにし、

「ちょっと!お父さんのお椀を持ってくなら、弟の分も持って行きなさい!二度手間になるでしょう!?なんだってお前はそんな要領が悪いの!」

 そう怒鳴りつけ、明里は萎縮しながら母の手伝いをしていた。母親の手伝いは、明里にとっては怒られるだけの場であり、苦痛そのものだった。特に注意されていたことは、『要領の悪さ』。母としては、これからの準備を先読みし、自分はどう動くべきかということを考えて行動しなければ、社会に出た時に仕事ができない、という矜持があったようだが、明里としては母親の手伝いは恐怖でしかなかった。
 また、父親はどうかというと、学校生活のことや日常生活のことで注意をしてくるわけでは無いが、自身の気分を表に出しやすい性格だった。調子のいい時は明るく仕事から帰ってくるが、何か仕事で自分の部下がトラブルを起こすと、決まって不機嫌な雰囲気を隠さず、普通に話しかけるだけでも不機嫌な感情をぶつける。
 そして、父親は家族の中で一番権力を持つ、と考えていたのか、親の言うことに逆らわせなかった。明里も1人の人間として、子どもの成長期の一部である反抗期を迎えた頃もあったが、父親に反抗しようとは思えなかった。というのも、明里の弟が一瞬、父親に反抗的な態度を見せただけで、父親は弟の手から、ゲーム機を取り上げ目の前で画面を拳で割り、さらには自身の部屋にある工具箱からハンマーを取り出して叩き割り、粉々になったゲーム機を弟に放り渡すという場面を見てしまったからである。

(あの時は、あれが普通と思って過ごしていたけど…。今の時代に置き換えたら、虐待よね。)

 家族写真を見ながら、明里は嘲笑うようにため息をつく。

 そんな明里が自傷行為に至ったのは、高校3年の受験期を迎えた頃であった。中学の頃から教員を目指していた明里は、教員免許を取るには大学進学が必須である、ということがわかり、高校2年生の夏に入る前に行われた保護者面談の時には、このままでは大学に行くことはできない、と担任から告げられ、母親からも、大学に行きたいのであれば、国立しか行かせられない。私立大学に進学させるだけの余裕はない、と言われた。
 それでも教員の夢を諦めきれなかった明里は、親に頼み込んで予備校に通い、勉強を始めたが、なかなか成績は上向かず、焦燥感に駆られていた。教員の夢を諦めたく無いと強く願う自分と、一方で国立大学に行けるだけの学力をつけられない自分。明里は、現状と自身の夢とのギャップの大きさに追いつめられ、逃げ場を失っていた。

(成績が伸びない…、このままじゃ、大学にも行けない、どうしたらいいの……)

 明里は、今の状況を生んだ自分、そして、自分なりに勉強しても成績に表れてこない現状に、自分には罰が必要だと考えるようになり、行き着いた先は、自分の腕を切りつける、という『自傷行為』だった。初めこそ、切りつけるという行為への恐怖心から、カミソリでかすり傷をつける程度だったが、自分のつけた傷から血が流れていく様子を見て、心にのしかかっていた重りが軽くなったように感じた。

(……頭の悪い私には、これくらいの罰が必要なんだ…。)

 元より自罰的な性格だった明里は、成績が伸び悩むたびに腕を切りつけた。切りつけた腕に、歯形がくっきりつくほど噛みついたこともある。追い詰められては自身の体に傷をつけ、何とか心の平穏を保つ生活を続けていた。
 高校3年の夏を迎えたある日、明里は苦手教科を克服するため、科目担当の教員からアドバイスを受けていた。ふとしたことがきっかけで、腕の傷を見られてしまった。その教員は驚きを隠せずにいたが、明里を諭すように傷をつける理由を聞き出し、明里も観念して心のうちを吐き出した。

「そう…、でも、今、明里さん頑張ってるじゃない。たまから、そんなに自分を責めないで。国公立に行かなきゃ教員になれないわけじゃないんだから。」
「……でも、母は私立大学に行かせるだけの余裕はない、と言ってて…、国公立じゃないと、進学させてもらえないんです。」
「明里さんの家庭の状況を全部わかってるわけじゃないけど、奨学金を使うっていう手段だってあるわ。受験料はかかるかもしれないけど、受験もできないほど高額なところはないはずだし、まずは、教員になりたいって目標を叶えるために、少しずつでもいいから、やっていきましょう。大丈夫よ、きっと、ね?」

 その当時の教員の優しい声かけは、今も明里の心に残っている。自分の心の内を理解しようとしてくれる姿に、明里はその場で号泣していた。

「ただ、明里さんが今、これだけ苦しいのよ、ってことは、保護者の方に知ってもらった方がいいと思う。話しにくければ、私から連絡してみるけど…」

 そう言葉をかける教員に、明里は自分から打ち明けることを約束し、下校した。今思えば、その教員は『教育者』としてのアドバイスをしたのだろう、と大学で教鞭をとる明里は推測する。明里が晴海のカミングアウトを聞いて悩んだように、預かっている学生に何かあった時のために、保護者には知っておいてもらった方がいい、という教員の立場からのしかるべき対応をしたまでだ。しかし、自宅に着き、明里が自傷行為のことを打ち明けた時の母親は、明里の方を見向きもせず、たった一言。

「そんな話を聞かされて、私にどうしろっていうの?」

 明里は、母親に何も言い返すことができなかった。ただ、『この人は、私の心の内を理解しようとしてくれない人なんだ』と、絶望しただけだった。
 その一件以降、明里は母親に何も相談しなくなった。教員になるための勉強は諦めずに続けたが、結局国公立大学に入ることはできず、明里に残った進路は文興学院大学のみになった。母親からは、合格に対する祝いの言葉もそこそこに、

「前にも言ったように、私立大学に行かせるだけの余裕はうちにないから。奨学金使って自分でアルバイトして、学費を作るようにして。」

と、言われただけだった。明里もそれ以上の言葉を、母親に望むことはしなかった。
 また、自傷行為については、大学進学が決まった頃にはしなくなっていた。奨学金という借金を背負い、大学に通いつつアルバイトをこなさなければならなかったが、明里の夢が叶う道が開けたことで、安心したのかもしれない。

 家族との関係は、そこから少しずつ疎遠になっていき、今となっては両親と連絡を取ることはほとんどない。大学で教授を勤めていることすら、両親共に知らないかもしれない。

(親の心子知らず、なんて言葉はあるけど…、逆も然り、よね。それとも、私の理解する力が足りなかったのかしら。)

 実家から唯一持ってきた、一枚の家族写真。その中で明里は、楽しげに笑みを浮かべているが、この当時は、ここまで家族との関係性が拗れるとは知る由もない。

 自傷行為を打ち明けた晴海の姿は、いつかの明里の姿と重なり、教育者となった明里は、高校生当時の明里をなだめた教諭とは別の道を指し示した。後悔はしていない。晴海に保護者へ打ち明けるよう助言したならば、自分と同じように、追い詰められるだけだろう。しかし、これ以上自身を傷つける行為をしてほしくない、という気持ちもある。もし、このまま晴海が危険なことを続け、晴海の身に何かあったら…、と考えたところで、明里は家族写真を引き出しの奥にしまいこみ、短くため息をついた。

(……何にしても、私にやれることを、やるしかない。まずは、晴海さんのことを信じて、見守ろう。)

 明里は、椅子から立ち上がり、気分を一新するように大きく背伸びをする。時計は夕刻をとうに過ぎていた。スマートフォンのロック画面には、見慣れた壁紙の画像のみで、不在着信の通知はなかった。
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