奴隷が戦場で幸せになる二つの方法

きみつね

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東の王国と西の帝国の境界線を、人はセルファス・ラインと呼んだ。
だが、そこに線など存在しない。あるのはただ、泥と鉄屑、そして腐りゆく肉塊が織りなす、幅数キロにも及ぶ死の領域だけだ。長きに渡る塹壕戦が大地を醜く裂き、そこは地獄そのものと化していた。

天を見上げれば、鉛色の雲間を縫って、魔法の光条と砲弾の軌跡が禍々しい星屑のように飛び交う。地上に目を向ければ、泥濘に半ば埋もれた無数の屍、屍、屍。
降り続く雨がそれらを洗い、鉄錆と血の臭いを纏った水が、塹壕の底で淀み、生き残った兵士たちの足を冷たく濡らした。膝まで浸かる茶色い泥は、生者の足を掴んで離さぬ、貪欲な沼。


──ここには希望など欠片もない。


あるのは底なしの絶望。骨の髄まで凍てつかせる孤独。そして、それら全てから解放してくれる唯一の慈悲としての、死。
兵士たちは、生きたままこの巨大な墓標に飲み込まれ、骨と化してもなお、この忌まわしき土に囚われ続けるのだ。

セルファス・ライン。それは、生命を拒絶する大地。

あらゆる感情——悲しみも、怒りも、憎しみさえも——このぬかるみの中では意味をなさず、ただただ茶色い泥水に溶けて、均質化していく──。



♢   ♢   ♢



今日も空は低い雲に覆われ、大地を叩く雨音に混じり、遠雷のような砲撃音と、空を引き裂く魔法の炸裂音が断続的に響いていた。雨は、この塹壕地帯では日常の調べだ。
そんな王国の前線基地の奥深く。かつて弾薬庫として使われ、今は打ち捨てられた小部屋があった。
湿ったコンクリートの壁には苔が生え、空気は黴と硝煙の匂いで澱んでいる。人の気配は久しくなく、ただ天井の亀裂から滴る水滴の音だけが、時折静寂を破る。

「うーん」

その薄暗がりの中、瓦礫と空の弾薬箱が散らばる床の上を、一つの小さな影が動いていた。
銀色の髪を揺らし、大きな灰青色の瞳をきらきらと輝かせている。
──ジェネシス・クリエイターの少年。

「……?」

彼は、部屋の隅に転がる、錆びついた砲弾の薬莢を興味深そうにつつき、転がしてみる。金属のぶつかる乾いた音が、がらんとした空間に響いた。
壁に残る弾痕を指でなぞり、不思議そうに首を傾げる。
足元に落ちていた、用途不明の金属片を拾い上げ、光にかざしてみる。埃と油にまみれたそれに、少年はまるで宝物を見つけたかのように目を細めた。
そこにある全てが、彼にとっては未知で、新鮮な驚きに満ちていた。

「これは、なんでしょう……?」

無垢な声が、静かな廃墟に小さく響いた。
戦場の現実も、自身の存在理由も知らぬまま、少年はただ目の前の「ガラクタ」に心を奪われ、時間の経つのも忘れて、一人、そこに佇んでいた。

「ふん……ふん……♪」

少年が、転がっていた薬莢を指で弾き、それが立てる軽い音に耳を澄ませていた、その時だった。
部屋の入り口を覆っていた、分厚く汚れた防水布が不意に持ち上げられた。外からの湿った空気と共に、一人の青年が姿を現す。

「やぁ」

泥と硝煙の匂いを纏った軍服。年の頃は二十歳前後だろうか。赤みがかった髪は短く刈り込まれているが、数日手入れを怠ったのか少し伸び、雨に濡れて額に張り付いていた。
その顔には疲労の色が濃く滲んでいたが、瞳にはまだ若者らしい光が残っている。

──ゼルである。

彼は小部屋の中を見渡し、すぐに瓦礫の中で一人遊ぶ少年の姿を捉えた。薄暗い弾薬庫跡の中で、少年の銀髪と白い肌は奇妙なほど際立って見えた。埃を被った古い人形の中に、一つだけ真新しいビスクドールが置かれているような、場違いな存在感。
ゼルは壁に背を預け、一瞬だけ外の絶え間ない砲声に耳を澄ませる。それから、ふっと息を吐き、少年へと視線を戻した。
その口元にかすかな、ほとんど自分でも気づかないような笑みが浮かぶ。

「調子はどうだ?昨晩は、寝れたか?」

その声に、少年は弾かれたように顔を上げた。さっきまでガラクタに向けていた純粋な好奇心が、今度は真っ直ぐにゼルへと注がれる。
大きな灰青色の瞳がぱちりと瞬き、次の瞬間、その表情がぱっと明るくなった。まるで飼い主を見つけた子犬のように、全身で喜びを表しているかのようだ。

「はい!元気です!」

言葉は明瞭で、張りがある。返事と共に、少年は持っていた金属片を放り出し、軽い足取りでゼルへと駆け寄った。
しかしすぐに小首を傾げた。その大きな灰青色の瞳が、純粋な疑問の色をたたえてゼルを見上げる。

「ところで、『調子』ってなんですか?」

その問いに、ゼルは思わず言葉を失い、そして乾いた笑いを漏らした。また始まったか、と。
この少年は、当たり前とされる概念を、ま初めて聞く外国語のように問い返してくるのだ。

「『調子』っていうのはだな……体の具合とか、気分のことだよ。元気かどうか、痛いところはないか、そういう……」

説明しながら、ゼルの脳裏に昨夜の出来事が蘇る。
この少年──識別番号 GC-7734 が意識を取り戻した後、ゼルは彼をここに連れてきた。かつて弾薬庫だったこの場所は、今は忘れ去られ、人の寄り付かない格好の隠れ家だったからだ。
もちろん、これは軍規に照らせば万死に値する行為だ。ジェネシス・クリエイターとの私的な接触、ましてや保護など、発覚すれば軍法会議を待つまでもなく、その場で後頭部に銃弾を撃ち込まれて終わりだろう。ゴラン伍長にも、そしてあのクロウにも、口止めはしたが、いつ密告されるか分かったものではない。

だが、ゼルには選択肢がなかった。
この少年を上官に報告すれば、どうなる? 降下作戦に失敗し、単独で墜落した『兵器』。その扱いは決まっている。検査され、利用価値がなければ即座に『廃棄』される。それは死と同義だ。あるいは、もっと残酷な実験の材料にされるかもしれない。
あの空からの虐殺を見た後で、このか細い命を、再び死地に送り出すことなど、ゼルには到底できなかったのだ。彼の行動は、合理性や計算ではなく、ただ衝動に近い感情に突き動かされていた。

「まあ、元気ならそれでいいさ」

ゼルは説明を打ち切り、背嚢からごそごそと何かを取り出した。
硬くなった黒パンの一切れだ。兵士に配給される、味も素っ気もないレーションだが、今はこれしかない。

「ほら、お腹が空いてるだろ。これを食べろ」

ゼルはパンを少年の目の前に差し出した。
少年は差し出されたそれ──パンを、不思議そうに見つめた。小さな鼻をくんくんと動かし、匂いを嗅いでみる。
それから、おずおずと指で表面をつついてみた。硬い感触に、ますます首を傾げる。

「ゼル、これはどうやって遊ぶものですか?」

ゼルの思考が、一瞬停止した。
少年は、手の中のパンを裏返したり、振ってみたりしながら、真剣な顔で問いかけてくる。その瞳には、未知の玩具を前にした子供のような好奇心だけが浮かんでいた。

──食べる、ということすら知らないのか。

ゼルの背筋に、冷たいものが走った。目の前にいる存在は、基本的な生命維持活動である「食事」という概念さえ、教えられていないのかもしれない。
兵器として、ただ戦い、死ぬためだけに作られた存在。その空っぽさ、その歪な純粋さが、ゼルの胸を鋭く抉った。

(どう説明したものか)

ゼルは内心で頭を抱えた。「食べる」という、生き物にとって呼吸と同じくらい根源的な行為を、言葉でどう伝えればいい?
腹が減ったら何かを口に入れ、咀嚼し、飲み込む──そんな当たり前の動作を、一から解説するなど不可能に思えた。まるで魚に水の存在を説明するような、途方もない不毛さだ。
この少年は、ジェネシス・クリエイターとして、栄養摂取は点滴か何かで行われていたのだろうか? それとも、そもそも空腹という感覚自体が存在しないのか?

(……駄目だ、考えても仕方がない)

ゼルは思考を打ち切った。言葉で駄目なら、見せるしかない。百聞は一見に如かず、だ。
彼は自身が持っていた黒パンのもう一方の端を、自らの口元へ持っていこうとした。硬いそれを噛み砕き、飲み込む様を見せれば、少年も理解するかもしれない。
そう思った、まさにその瞬間だった。

「食べるってのはなぁ」

だしぬけに、しわがれた声が小部屋の入り口から響いた。

「口って穴から固形物や液体を体内に取り込んで、そいつを胃って袋で溶かしてだな、生きるための燃料に変える作業のことよ。まあ、どうせ最後はクソになってケツの穴から出てくだけの、無駄なエネルギー循環だがな。人間様だろうが、そこのお人形さんだろうが、腹にモンを詰め込まんと動けねぇってこった。実に、よくできた欠陥品だな、俺たちゃあ」

ゼルと少年は、同時に弾かれたように声のした方へ視線を向けた。

入り口の防水布をだらしなく捲り上げ、そこに一人の男が立っていた。脂で汚れた軍帽を目深にかぶり、その下からは手入れされていない髪が覗いている。
深く刻まれた皺と、すべてを見透かすような鋭い目が、薄暗がりの中でも爛々と光っていた。

この死線で驚異的な生存年数を誇る、歴戦の伍長──ゴランだった。
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