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第十七話
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再会してからの三ヶ月は、夢みたいに甘くて幸せだった。
リヒト殿下――けれど私の中では、ずっと“レオ”だった人は、相変わらず花束を抱えて現れた。
季節の花を選ぶのが上手で、香りがきつくない。色も派手すぎない。まるで私の好みを、前から知っていたみたいだった。
「今日は庭を歩きましょう」
そう言って、私の歩幅に合わせてくれる。
手を取ることは少ないのに、距離の取り方が優しい。触れないのに、守られている感じがした。
彼は王都の話をした。
舞踏会のこと。礼拝堂のこと。噴水広場で売られている砂糖菓子のこと。
私が知らない世界を、私が怖がらないように言葉を選んでくれる。
笑ってしまうような話もあった。
私が笑うと、彼は満足そうに目を細めた。
――これが婚約なのだろうか。
そう思った。
それは“喜び”というより、“救い”に近かった。
お母様の死も、お父様の冷たさも、赤い日記帳の文字も。胸に刺さったまま抜けないのに、それでも息ができた。
私は、彼が来る日だけは眠れた。
けれど。
四ヶ月が過ぎた頃から、少しずつ何かが変わった。
最初に変わったのは、彼と過ごす時間だった。
来ると言っていたのに来ない日が増える。
「急な政務で」と侍従が言う。王子なら当然の理由だ。
次に変わったのは、贈り物だった。
花束が小さくなる。
包み紙が簡素になる。
そして、手紙が遅くなる。
――忙しいのだ。
私はそう思った。そう思うようにした。
私は待つことに慣れている。
待てば必ず来ると信じることが、私の生き方になっていた。
噂が耳に入っても、私は首を振った。
「殿下が女遊びを?」
侍女が困った顔で口にした言葉を、私は笑って打ち消した。
「そんなはずないわ」
だって、私の“レオ”がそんなことをするはずがない。
そう思えば思うほど、胸の奥が痛んだ。
痛むのに、私は信じた。
そしてある日。
花が届かなくなった。
贈り物もない。
手紙もない。
何かあったのだろうか。
怪我を? 病を? それとも――私のことを。
そう考えるたび、私は自分を叱った。
怖い想像は、いくらでも増える。
私は待てる。待てばいい。
そうして、待つことだけが日課になった。
デビュタントの話が決まっていた。
私が社交界へ正式に出る夜。
私と殿下が十八歳になる月に、私たちが連れ立って入場する――そう、誰もが知っている形。
そして、レオは私より二つ年上だと言っていた。
なのに、リヒト殿下は――私と同じ年齢だ。
(……それも、身分を隠すための嘘だったのだ)
そう思った。
そう、そう、そうなの。
嘘は、きっとそこだけ。
そうでなければ、私は――。
なのに。
衣装の最終確認もない。
正装合わせもない。
当日の段取りも、何ひとつ届かない。
前夜、私は眠れなかった。
胸の中で、嫌な音が鳴り続けた。
――もし、来なかったら。
そんなこと、考えたくない。
考えたくないのに、考えてしまう。
朝になっても、連絡はなかった。
そして夜。
私は一人で、会場へ向かった。
馬車の窓の外は光で満ちていた。
王都の夜は明るい。
私の視界に入るすべてが眩しいのに、胸の中だけが暗かった。
会場に着く。
名前を告げる。
扉の向こうから、音が溢れる。笑い声。楽団。グラスの触れ合う音。
扉が開いた瞬間、視線が刺さった。
――一人?
驚きが、空気の表面を走る。
次に、好奇。
そして、遅れて憐れみ。
私は笑顔を作った。
作法通りに歩いた。
でも足元が頼りなくて、心臓が早鐘を打つ。
(大丈夫)
(殿下は、あとから来る)
そう自分に言い聞かせながら、私は壁際へ移動した。
影になる場所。視線が届きにくい場所。
時間をやり過ごすための場所。
その時、見つけた。
人の輪の中心に、リヒト殿下がいた。
貴族令息たちに囲まれて、笑っている。
軽やかに、楽しげに。
私の知らない顔で。
私はその場で息が止まった。
見つめ続けた。
目を逸らせなかった。
そして、殿下がこちらを見た。
目が合った。
確かに、合った。
――良かった。気づいてくれた。
そう思った瞬間。
殿下は、すぐに視線を逸らした。
何事もなかったみたいに、別の人へ笑いかけた。
胸の中が、音を立てて崩れた。
どうして?
どうして、逸らすの?
私の指先が冷たくなっていく。
呼吸が浅くなる。
目の前が歪む。
私は、逃げた。
走ることはできなかった。
作法を崩さないように、でも必死に、会場を離れた。
扉が閉まった瞬間、背中に残っていた視線がやっと途切れる。
回廊は暗くて、冷たかった。
その冷たさだけが、いまの私を現実に繋ぎとめていた。
私はそのまま、デビュタントの夜を捨てるように――外へ出た。
リヒト殿下――けれど私の中では、ずっと“レオ”だった人は、相変わらず花束を抱えて現れた。
季節の花を選ぶのが上手で、香りがきつくない。色も派手すぎない。まるで私の好みを、前から知っていたみたいだった。
「今日は庭を歩きましょう」
そう言って、私の歩幅に合わせてくれる。
手を取ることは少ないのに、距離の取り方が優しい。触れないのに、守られている感じがした。
彼は王都の話をした。
舞踏会のこと。礼拝堂のこと。噴水広場で売られている砂糖菓子のこと。
私が知らない世界を、私が怖がらないように言葉を選んでくれる。
笑ってしまうような話もあった。
私が笑うと、彼は満足そうに目を細めた。
――これが婚約なのだろうか。
そう思った。
それは“喜び”というより、“救い”に近かった。
お母様の死も、お父様の冷たさも、赤い日記帳の文字も。胸に刺さったまま抜けないのに、それでも息ができた。
私は、彼が来る日だけは眠れた。
けれど。
四ヶ月が過ぎた頃から、少しずつ何かが変わった。
最初に変わったのは、彼と過ごす時間だった。
来ると言っていたのに来ない日が増える。
「急な政務で」と侍従が言う。王子なら当然の理由だ。
次に変わったのは、贈り物だった。
花束が小さくなる。
包み紙が簡素になる。
そして、手紙が遅くなる。
――忙しいのだ。
私はそう思った。そう思うようにした。
私は待つことに慣れている。
待てば必ず来ると信じることが、私の生き方になっていた。
噂が耳に入っても、私は首を振った。
「殿下が女遊びを?」
侍女が困った顔で口にした言葉を、私は笑って打ち消した。
「そんなはずないわ」
だって、私の“レオ”がそんなことをするはずがない。
そう思えば思うほど、胸の奥が痛んだ。
痛むのに、私は信じた。
そしてある日。
花が届かなくなった。
贈り物もない。
手紙もない。
何かあったのだろうか。
怪我を? 病を? それとも――私のことを。
そう考えるたび、私は自分を叱った。
怖い想像は、いくらでも増える。
私は待てる。待てばいい。
そうして、待つことだけが日課になった。
デビュタントの話が決まっていた。
私が社交界へ正式に出る夜。
私と殿下が十八歳になる月に、私たちが連れ立って入場する――そう、誰もが知っている形。
そして、レオは私より二つ年上だと言っていた。
なのに、リヒト殿下は――私と同じ年齢だ。
(……それも、身分を隠すための嘘だったのだ)
そう思った。
そう、そう、そうなの。
嘘は、きっとそこだけ。
そうでなければ、私は――。
なのに。
衣装の最終確認もない。
正装合わせもない。
当日の段取りも、何ひとつ届かない。
前夜、私は眠れなかった。
胸の中で、嫌な音が鳴り続けた。
――もし、来なかったら。
そんなこと、考えたくない。
考えたくないのに、考えてしまう。
朝になっても、連絡はなかった。
そして夜。
私は一人で、会場へ向かった。
馬車の窓の外は光で満ちていた。
王都の夜は明るい。
私の視界に入るすべてが眩しいのに、胸の中だけが暗かった。
会場に着く。
名前を告げる。
扉の向こうから、音が溢れる。笑い声。楽団。グラスの触れ合う音。
扉が開いた瞬間、視線が刺さった。
――一人?
驚きが、空気の表面を走る。
次に、好奇。
そして、遅れて憐れみ。
私は笑顔を作った。
作法通りに歩いた。
でも足元が頼りなくて、心臓が早鐘を打つ。
(大丈夫)
(殿下は、あとから来る)
そう自分に言い聞かせながら、私は壁際へ移動した。
影になる場所。視線が届きにくい場所。
時間をやり過ごすための場所。
その時、見つけた。
人の輪の中心に、リヒト殿下がいた。
貴族令息たちに囲まれて、笑っている。
軽やかに、楽しげに。
私の知らない顔で。
私はその場で息が止まった。
見つめ続けた。
目を逸らせなかった。
そして、殿下がこちらを見た。
目が合った。
確かに、合った。
――良かった。気づいてくれた。
そう思った瞬間。
殿下は、すぐに視線を逸らした。
何事もなかったみたいに、別の人へ笑いかけた。
胸の中が、音を立てて崩れた。
どうして?
どうして、逸らすの?
私の指先が冷たくなっていく。
呼吸が浅くなる。
目の前が歪む。
私は、逃げた。
走ることはできなかった。
作法を崩さないように、でも必死に、会場を離れた。
扉が閉まった瞬間、背中に残っていた視線がやっと途切れる。
回廊は暗くて、冷たかった。
その冷たさだけが、いまの私を現実に繋ぎとめていた。
私はそのまま、デビュタントの夜を捨てるように――外へ出た。
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