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アイコの帰り道
しおりを挟む朝から空の色がおかしかった。鉛色の雲が低く垂れ込めて、町全体を覆っている。風が強い。看板が軋む音。どこかで犬が吠えている。
「嫌な予感がする」
呟いて、リュックを背負い直した。
大学の図書館で時間を潰すつもりだった。でも、今日は休館日だった。行く場所がない。家に帰るしかない。母さんの顔を見たくない。また心配させる。また、あの悲しそうな目で見られる。
就職活動は全滅だった。
もう三十社以上落ちている。履歴書を書くのも嫌になった。面接で何を話せばいいのか分からない。自分に何ができるのか分からない。
ポケットの中の携帯が震えた。母さんからのメッセージだ。見たくない。でも見てしまう。
「今日は何時に帰る?夕飯作るから」
優しい言葉が、胸に刺さる。
返信できない。既読スルー。最低だ。
空から、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
「マジか」
見上げた瞬間、土砂降りになった。
嵐だった。
慌てて家路を急いだ。いつもならこんなことはない。この町は穏やかで、暖かな日差しに包まれているのが当たり前だったから。
「最悪だ」
服が濡れて肌に張り付く。苛立ちを抑えきれず呟きながら、住宅街を駆け抜けた。
走り始めてもう三十分は経つ。軒先を借りようとしても、どこも冷たい視線で追い返される。一軒目は無言で扉を閉められた。二軒目は「うちは関係ない」と言われた。三軒目は、扉すら開けてくれなかった。
この町の人間は冷たい。いつもそうだった。
息が切れる。足が重い。全身びしょ濡れだ。
もう走れない。
公園が見えた。小さな公園。ブランコが一つだけ。滑り台が一つ。ベンチが二つ。それだけの場所。
「少しだけ……」
ベンチに座ろうとした。
その時だった。
水たまりに映る白い髪。雨に濡れて、妙に光って見えた。死んだような瞳をした少女が、一人でブランコに乗っている。陶器の人形のような佇まいだ。糸で吊られているみたいに、ぎこちなく揺れている。
「ねえ、どこか入らないの?寒いでしょ」
声をかけてみた。
少女がこちらを見た。ブランコから降りて、近づいてくる。
「やだ」
予想外の声だった。生意気で、甲高くて、小型犬みたいな声。吠えるだけで噛みつかないタイプだ。大学にこういう子はいくらでもいた。
手を固く握りしめている。怒っているみたいに。
「帰りたくない!」
子供みたいに駄々をこねて、足を震わせている。
「寒くない?」
ゆっくり近づいて、頭に手を置いた。
「家出?」
少女の指が、ぎゅっと俺のシャツを掴んだ。
「……うん。逃げてきた。パパとママが、殴り合いしてて」
声が震えている。
「でも、帰りたい。ママ、心配してる。でも……どこにいるか分からないの」
手を引いた。
「え!?」
「探そう。お父さんとお母さん」
言葉を聞いた途端、少女が泣き出した。涙を流しながら、か細い声で言った。
「ありがとう」
*
嵐は収まらない。
何ブロックも歩いた。少女は家の番号を数えている。
「101、102、103、104……?」
急に立ち止まって、辺りを見回した。
「ここ、さっきと同じ場所じゃない?」
「え?」
少女が一軒の家を指差す。
「104。ここ、さっき見た」
前に進んだはずなのに、また1に戻っていた。
雨が少し弱まった。少女が俺の袖を引っ張った。
「ねえ、あなたの名前は?」
「え?」
「名前。教えて」
「……タケシ」
「タケシ」
少女が繰り返した。何度も何度も、噛みしめるように。
「変な名前」
「失礼だな」
思わず笑ってしまった。久しぶりに笑った気がする。
「タケシは、何してる人?」
「何って……」
言葉に詰まった。
「学生?」
「いや、もう卒業した」
「じゃあ、働いてるの?」
「それは……」
少女がじっと見つめている。純粋な瞳。嘘がつけない。
「今は……探してる」
「何を?」
「仕事」
「見つからないの?」
「うん」
「大変だね」
少女が小さく頷いた。
「パパもね、仕事辞めたの。それからママと喧嘩ばっかり」
「そうなんだ」
「パパ、いつも疲れた顔してた。ママも悲しそうだった。私、どうすればいいか分からなくて」
少女の声が震えている。
「大人って、難しいよね」
「難しい」
二人で歩き続けた。雨音だけが響いている。
「ねえ、タケシ」
「ん?」
「タケシは、何が好き?」
「好き?」
「うん。好きなこと」
考えた。好きなこと。そんなの、いつから考えてなかっただろう。
「昔は……絵を描くのが好きだった」
「絵!見たい」
「今は描いてない」
「どうして?」
「……時間がなくて」
嘘だ。本当は、自信がなくなったから。何を描いても、意味がないと思ったから。
「私ね、歌が好き」
少女が突然言った。
「ママがよく歌ってくれたの。子守唄」
「そうなんだ」
「タケシに歌ってあげようか?」
「いや、いいよ」
「遠慮しないで」
少女が小さく歌い始めた。知らない曲。優しいメロディー。下手くそだけど、温かい。
歌が終わると、少女が微笑んだ。
「どう?」
「……良かったよ」
「本当?」
「本当」
少女が嬉しそうに笑った。その笑顔が、少しだけ胸を温めた。
「タケシもさ、また絵を描けばいいのに」
「無理だよ」
「どうして?」
「才能ないから」
「そんなことないよ」
「分からないだろ。君には」
言葉が強くなってしまった。少女が黙った。
「……ごめん」
「ううん、いいの」
少女が首を振った。
「でもね、私思うんだ。好きなことって、才能とか関係ないと思う」
「え?」
「だって、私歌下手でしょ?でも好き。歌うと楽しいから」
「それは……」
「タケシも、絵を描いてる時、楽しかったでしょ?」
言葉が出なかった。
楽しかった。確かに楽しかった。何も考えず、ただ描いていた時間。あの時間が、一番幸せだった。
「……そうだな」
「だったら、それでいいんだよ」
少女が笑った。
子供のくせに、何でそんなことが言えるんだ。
でも、その言葉が、どこか心に響いた。
*
何時間も歩き続けた。
同じ場所を何度も何度も回っている。靴の中まで水が染み込んで、足が痛い。少女も疲れているはずだ。小さな体で、ずっと歩き続けている。
「ちょっと休もうか」
「まだ大丈夫」
強がっている。でも足取りが重い。
古びたコンビニを見つけた。看板の半分が消えている。ドアを押すと、カランカランとベルが鳴った。
店内は薄暗い。棚には商品が並んでいるけど、どれも埃をかぶっている。レジには誰もいない。
「誰もいないね」
少女が囁いた。
奥から物音がした。老人が現れた。しわだらけの顔。目が濁っている。
「いらっしゃい」
声がかすれている。
「すみません、雨宿りさせてもらえますか」
老人は黙って頷いた。
「あの、この辺で白い髪の女性と男性を見ませんでしたか?この子の両親なんです」
老人の目が少女に向けられた。長い沈黙。
「見てない」
「そうですか……」
老人が店の奥を指差した。
「座れ」
小さな休憩スペースがあった。古い椅子が二つ。座ると、老人が温かいお茶を持ってきた。
「ありがとうございます」
お茶を啜る。体が少し温まった。少女も嬉しそうに飲んでいる。
「この町、おかしいんですよ。同じ場所をぐるぐる回って――」
「そうだ」
老人が遮った。
「この町は呪われている。ずっと昔から」
「呪い?」
「ああ。ここに迷い込んだ者は、出られない。永遠に同じ道を歩き続ける」
背筋が寒くなった。
「でも、出られた人もいる」
老人が続けた。
「どうやって?」
「知らん。ただ、たまに消える者がいる。光になって、空へ昇っていく」
少女が俺の袖を掴んだ。怯えている。
「大丈夫」
頭を撫でた。
老人が立ち上がった。
「もう行け。嵐が弱まった」
「ありがとうございました」
店を出ると、本当に雨が弱まっていた。
*
歩き続けた。
少女が急に立ち止まった。
「ねえ、あそこ」
小さな公園を指差している。ブランコが一つ。さっき少女がいた場所だ。
「ここ、また戻ってきちゃった……」
少女の声が震えている。
「大丈夫。諦めない」
でも、心の中では不安が広がっていた。本当に出られるのか。この呪いから。
少女がブランコに近づいた。座って、ゆっくり漕ぎ始める。
「ママね、よくここに連れてきてくれたの」
「そうなんだ」
「パパも一緒に。三人でブランコ乗って、笑ってた」
少女の目に涙が浮かんでいる。
「最近は……喧嘩ばっかりだった。私のせいかなって思ってた」
「違うよ」
「でも……」
「君のせいじゃない。大人には大人の問題があるんだ」
ブランコが止まった。少女が俺を見上げている。
「あなたも、辛いことあるの?」
「え?」
「だって、さっき泣いてた」
言葉に詰まった。
「……うん。辛いことがあった」
「何があったの?」
「大学を出たけど、仕事が見つからなくて。母さんに心配かけて。自分が情けなくて」
初めて口にした。誰にも言えなかったこと。
「でもね、あなた優しいよ。私を助けてくれた」
少女が微笑んだ。
「そんなの……」
「優しい人は、自分に厳しすぎるの。ママが言ってた」
胸が熱くなった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
立ち上がって、また歩き始めた。
しばらく歩くと、少女が急に立ち止まった。
「ねえ、タケシ」
「ん?」
「タケシって、本当は優しいんだね」
「そんなこと……」
「だって、私のこと助けてくれてる。知らない子なのに」
「放っておけなかっただけだよ」
「それが優しいってことだよ」
少女が微笑んだ。
「タケシは、自分のこと嫌いでしょ」
「え?」
「分かるよ。私も、自分のこと嫌いだったから」
「……君が?」
「うん。パパとママが喧嘩するの、私のせいだと思ってた。私がいなければ、二人は幸せだったんじゃないかって」
少女の目に涙が浮かんでいる。
「でもね、ママが言ったの。あなたがいてくれるから、私たち頑張れるって。あなたは私たちの宝物だって」
「……」
「だから私、思ったの。自分を嫌いになっちゃダメだって。誰かにとって、大切な存在なんだって」
胸が締め付けられた。
母さんの顔が浮かんだ。いつも優しく微笑んでいる母さん。心配ばかりかけている母さん。
「タケシも、誰かの宝物だよ」
少女が俺の手を握った。小さくて、冷たい手。
「だから、自分を嫌いにならないで」
「……」
「約束して」
「……分かった」
嘘かもしれない。でも、今は約束したかった。
少女が満足そうに頷いた。
「よし、じゃあ頑張ろう!」
元気な声で言って、また歩き始めた。
その後ろ姿を見ながら、思った。
この子に、救われているのは俺の方だ。
*
突然、強い風が吹いた。
看板が倒れる音。ガラスが割れる音。嵐がまた激しくなってきた。
「危ない!」
少女を抱きかかえて、建物の影に隠れた。
雷が鳴った。稲妻が空を裂く。
「怖い……」
少女が俺にしがみついている。
「大丈夫。ここにいよう」
しばらく待った。でも嵐は収まらない。
「どうしよう……」
「ねえ」
少女が言った。
「雷が光った時、あっちに何か見えた」
指差す方向を見た。次の稲妻が光った瞬間、確かに何かが見えた。
建物。大きな建物。
「あれ、何だろう」
「行ってみよう」
嵐の中を走った。雨が激しく叩きつける。
建物に着いた。古い教会だった。扉を押すと開いた。
中は静かだった。ステンドグラスから微かな光が差し込んでいる。
「誰もいない」
少女が囁いた。
祭壇の前に、一冊の本があった。手に取ると、埃が舞った。
ページをめくる。文字が書いてある。
「この町の呪いについて……」
声に出して読んだ。
「昔、この町で悲劇があった。家族が引き裂かれ、子供たちが迷子になった。その悲しみが呪いとなり、町を覆った。呪いを解くには……」
次のページが破れている。
「続きがない……」
がっかりして本を閉じた。
少女が祭壇の下を覗き込んでいる。
「ねえ、これ」
破れたページだった。拾い上げて読む。
「呪いを解くには、迷子を家に帰すこと。ただし、家に帰す者は、自分自身を見失ってはならない」
「自分自身を見失ってはならない……」
意味が分からない。
「でも、私を家に帰してくれたら、呪いが解けるってこと?」
少女が目を輝かせた。
「そうかもしれない」
「じゃあ、早く!」
手を引かれた。
教会を出て、また嵐の中へ。
*
同じ場所を何度も何度も回っている。嵐が少し弱まったので、バス停で休むことにした。
ダメだ。小さな子供の家一つ見つけられない。この町は呪われている。永遠に同じ場所をぐるぐる回り続けるんだ。
「もう無理かも」
頭を抱えて呟いた。
シャツもTシャツもびしょ濡れだ。母さんに何て言おう。
「どうしたの?」
隣で少女が心配そうに覗き込んでいる。涙が出ていたらしい。
「探しても無駄だよ。俺たちは――」
「そんなこと言わないで!」
少女が叫んだ。さっきまでとは違う、しっかりした声だった。
「何度でもやり直せる。一回ダメだったからって、全部ダメじゃない。この先うまくいくかもしれないでしょ。ママが言ってた。辛い時ほど頑張らなきゃいけないって。今諦めたら、もう一歩で見つけられたかもしれないのに分からないまま。それに……あなた、もうこんなに助けてくれた。そんなことしなくてもよかったのに。だから、諦めないで」
少女の言う通りだ。諦められない。
涙を拭うと、少女がブレスレットを差し出した。
「はい」
ブレスレットに名前が彫ってある。
「アイコ……」
「うん」
「行こう」
手を握って、また嵐の中へ。
*
アイコが回数を数え始めた。
「59、60、70、80、90……」
100を超えた時、アイコが袖を引っ張った。
「ねえ」
「ん?」
「私たち、ぐるぐる回ってるんじゃない。前に進んでるつもりで、戻ってるの」
「どういうこと?」
「104の次が1に戻るでしょ。だったら……後ろ向きに歩いたらどうかな。本当に振り返って、反対向いて歩くの」
馬鹿げているように聞こえたが、この町で起きていることは、どれも理屈に合わないものばかりだった。
「じゃあ、君のやり方でやってみよう」
完全に振り返り、来た方向を向いた。アイコが再び数え始めたが、今度は後ろ向きに歩き、家の番号を見つめている。
「104、105、106、107……」
番号が実際に進んでいる。心臓が高鳴り始めた。
「うまくいってる!」
笑顔で叫んだ。ついにこの悪夢から逃れられる。
数字が大きくなるにつれ、自分のリズムでスキップし始めた。
「120、121、122……ねえ、見て!」
興奮して一軒の家を指差した。122番だ。長年の風雨に晒され朽ちた、廃屋だった。
家の塗装は剥がれ落ちている。亀裂から家の中が見える。真っ暗だ。
「ここ!ここが私の家!」
アイコの声が感情で震えた。
黙るべきだと悟った。なにしろ、彼女はまだ子供なのだから。静かに彼女と一緒に家へと歩いた。
*
扉が勢いよく開いた。
アイコと同じ白い髪をした女性が立っていた。泣き腫らした目をしている。その後ろに、心配そうな顔をした背の高い男性が現れた。
「アイコ!」
二人が同時に叫んだ。
母親が膝をつき、両腕を広げた。アイコは俺の手を離し、母親の腕の中へと駆けていった。父親も加わり、二人を腕で包み込んだ。身体を震わせながら、すすり泣く。
「私の子、私の子」
母親が何度も囁き、雨に濡れたアイコの髪にキスをする。
「もう会えないと思った」
父親が声を震わせながら言った。
雨の中に立ち、再会を見守っていた。寒さにもかかわらず、胸に温かさが広がっていく。これが全ての意味だった。この瞬間のために。
アイコが両親の抱擁から少し離れ、こちらを向いた。陶器のような肌が薄暗い光の中で輝いているように見える。微笑む姿には、どこか儚げな何かがあった。ゆっくりと消えていくように見えた。
「ありがとう」
優しく、しかし子供には重すぎるような声で言った。
「アイコ?」
囁きながら、一歩前に出た。
両親が娘を見上げたが、パニックの代わりに、愛と受容だけが顔に浮かんでいた。涙を流しながら微笑んでいる。まるで、この瞬間が来ることを最初から知っていたかのように。
「やっと安らかに眠れる」
アイコが言った。声はどんどん弱くなり、身体の一部がきらきらと光る破片となって溶け始めていた。
「話しておかなきゃいけないことがあるの。私、呪われてたの……私たちみんな。ここに閉じ込められて、永遠に円を描いて歩き続けるの」
「呪い?」
かろうじて聞こえる声で尋ねた。
「そう」
彼女は続けた。その姿は風に揺れる蝋燭の炎のように揺らいでいる。
「呪いは、あなたみたいな人が来た時だけ解けるの。自分のことは諦めてるのに、他人のことは諦めない人。自分のことより、知らない人の痛みの方が大事だと思える人。あなたは自分の絶望に溺れて、諦めそうになってたのに……私のことは諦めなかった。それが呪いを解いたの。だから、やっと私たち、家に帰れる」
両親が小さな粒子に溶け、消えかけた炎から舞い上がる火の粉のように、天へと昇っていく。
「俺みたいな人?」
囁いた。
「自分を見失ってしまった、優しい心を持つ人」
アイコが優しく言った。消えていく中でも、その笑顔は輝いていた。
「さよならを言う手伝いをしてくれて、ありがとう。それとね……あなたも、自分を見失わないでね?」
彼女が消えていくとき、俺は微笑み、涙声で言った。
「さよなら……アイコ」
彼女が消え、雨が止んだ。空を見上げた。深いピンク色をしている。日の出のような、心を癒す光。
ブレスレットを握りしめ、空に掲げた。
「アイコ」
「忘れないよ」
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