消えた隣人

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とても暑い日

消えた隣人

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うだるような暑さ、37度は超えている
べったりと汗が身体に吹き出し、シャツを身体に張り付かせている。はやく、自室でシャワーを浴びたいものだ、こんな時に限り電車が来ない。
ベンチに座るが風がひらりともそよがない。電車のホーム越しに見える新築の病院の白い壁が眩しくてたまらない。
隣に、いつのまにか中学生くらいの色白の少年が座っている。こんなに暑いのに、ほとんど汗をかかない、
羨ましい、樹は汗かきだ。
電車のアナウンスが人身事故の為、列車の遅れを伝える。
また投身自殺か、よりによって鉄道使うのはやめてほしい。周りの迷惑もはなはだしい。暑さで意識が遠のきそうだ。
ふと、数十年前の事が頭を過った。あの時もこんな暑い日で、日が落ちてもまったく気温は下がらなかった。
大阪で万国博覧会を控えて、日本がまだ沸騰していたあの頃、私は病室にいた。
もう半年になる。小児リュウマチという名前の病で時たま高熱が出る以外は自覚症状もなく、身を持つ余すとはまさにこのことだ。私はこの病院で一番健康で、病院外の外界の人間と較べてもかなり元気な方だ。
長く病院生活を送っていると、私はこの閉鎖的な施設の主人になっていた。昼間は、売店の従業員からはじまり順にレントゲン室、薬局、会計、内科待合室、外科、皮膚科、眼科、歯科と順に外来待合室を、まるで大学教授のように巡回して従業員達と挨拶してまわる。看護室の前はいつも看護師たちのおしゃべりのノイズでうっとおしく、足早に通り過ぎる。
たまに、長老の長期入院者の散策者と鉢合わせになるが、私は年寄りの爺さんは苦手で顔を合わせない。
ここまでしてもまだ時間はようやく正午で、とても時間はゆっくり進む。
4人部屋の相部屋に戻り、薄く味を付けた味気ない食事を取る。部屋は4人部屋だが、今は私ともう1人70くらいの女性がいるだけであとは空いている。
検査のある日はあるが、いつもではなく週一回くらいだ。午後からの時間は主に食後の食事に当てられる。病院を抜け出して近くの食堂で好物の鍋焼き蕎麦を食べる、熱熱の鍋焼蕎麦は暑気払いにもなり具合が良い。薄味の淡白な少量の食事では育ち盛りの腹を収めることは出来ない。
他に、近くのパン屋で食べる玉子サンドとハムサンドも絶品であたった。淡白な病院食だからとびきり美味く感じると当時は思っていたんだが、私は退院した後も社会人になってもずっと鍋焼蕎麦も、玉子サンド、ハムサンドも店に通い食べ続けた。数年前にその店がなくなるまで、およそ40年間にわたり食べ続けた。実際美味かった。
最期までその蕎麦屋も、パン屋も繁盛していた。病院が老朽化に伴う移転が決まり、病院が無くなってもまだ2つの店は繁盛していた。だが、ある日突然2つの店はなくなり、程なくその場所は示し合わせたみたいに黒地に白線の駐車場になった。パン屋の敷地は狭く僅か5台分、蕎麦屋は8台分の駐車場になっていた。
一度その駐車場に立ち、子供の頃の思い出を思い出そうとしたが、なぜか、何一つ思い出せない。しかし、病院生活の事はよく覚えてる。
とても鮮明に。
夕方病室に戻り、また病室食、あれだけ買い食いしてもまだ食べれる。
隣の婆さんは話好きだ、家はお寺をやっているそうだ。お盆が近くなると、亡者がいつも寺に帰って来るというその寺は町からは遠くたしかに裏寂しい場所にあり、お婆さんの言う通り、そんなことがあっても不思議はないところらしい。その日も日中は暑く30度は軽く超えているが、同室の隣のお婆さんはいつもそんな夜は寺での怪談話をしてくる。
かなり無理して怖がるふりをするが、そうすると興がのり、怪談話は追加されてゆく。病院の夜は単調に過ぎてゆき婆さんの怪談話は最大3話で終わる。年のせいか長く起きていられないのだろう。
その日も船乗りを溺れさせる亡霊の話が最終話であった。柄杓を持って船を沈めようとしている海の亡霊が柄杓を貸せと強要するが知恵を働かした船乗りが底の抜けた柄杓を貸して災難を逃れる話だ。決して退屈するほどのつまらない話ではないけど、少なくとも怖くはならない。
病院では、怖いことが本当はある。滅多に、無いことなんだけど人が死ぬ。しかし死人は無害で、静かなものだ。入院してる間に4人の患者が死んだ。はじめての患者が死んだ時に私はまだ病院内に詳しくなく誤って遺体安置室の近くを偶然通りかかってしまった。地下の奥の通常人が通らないところにあるその部屋は、ありとあらゆる怪談話に出てきそうな場所だ。足早に私はそこを通り過ぎたが、夜勤の看護師が私がそこを歩く姿を見て驚嘆して追いかけてきた。その時が正直怖かった。死体が起き上がって追いかけてきたより怖かった。
私は、部屋に逃げ込み布団を頭からかぶったが、しばらくして廊下で看護師数人がひそひそと話する声が聞こえてきた。
ものすごく怖かったその夜はなかなか眠れなかったが、霊安室へはその後近寄らない様にしている。
それからあと3人の患者が死んでいったが、私がなぜ患者が死んだかわかるかというと、死が患者を包み込む前には予兆があった。患者の急変は、酸素ボンベを乗せた台車を走らせるタイヤの音、病室から漏れてくる家族の声、病院全体がピンと張り詰めた空気に包まれる。行き交う看護師、医師の顔にはどちらも高揚感に包まれている。医療従事者全てがこの死の一瞬の為に有るかの様な心地よい緊張感が病院内に走る。まさに、フィナーレだ、患者を含むこの病院という生き物が晴れ姿に輝いている様に樹には思えてならない。そんな時、樹には不遜にも期待に身体が躍動するのを感じた。
その夜はことの外寝苦しかった。布団を跳ね除けてもまだ暑い。ぼうっと病室の白壁を暗闇の中眺めていて、ふと隣の寺の婆さんのベッドを見ると、なんと婆さんがベッドの上に立ち上がり吊り戸棚の中をなにやら片付けている様子だ。何も真夜中にやらんでもと樹はいぶかしんだ。
おばあさん
樹は声をかけた。
返事が無い。
おばあさん、再び樹が声をかける。その瞬間におばあさんの姿は白い煙草の煙の様に樹の視界から消えて、後には静かに眠るいつものお寺のおばあさんの寝姿がベッドにあるだけであった。
樹は事態がよく飲み込めなかった。しばらくして初めて自分が見てはならないものを見てしまった事を理解して布団をかぶり頭を抱えた。今まで見聞きしてきた全ての怪談話が頭をよぎり、全身の体の感覚が失せてしまった。樹は眠ろう眠ろうとするがそれどころではなく、他の病室の患者の臨終の際に走る酸素ポンベを乗せて走るタイヤの音さえもがいとおしかった。とにかく、誰かに来て欲しかった。こんな時に限ってだれもこない。1分が1時間に感じるとはこの事だ。怖くて布団から顔を出して寺のおばあさんのベッドを見る勇気はとてもなかった。自分の呼吸を数えながら時が過ぎゆくのを待った。
50数年後の今もどうやって朝を迎えたかはうまく思い出せない、何故か。ひょっとして緊張のあまり気を失っていたのかもしれない。翌朝を迎えて老婆のベッドを恐る恐る見ると老婆はいつものようにベッドの上でなにやら手繕をしている。
そして程なくして退院していったのだ。
私は老婆が退院した2週間後に退院した、退院した後もう半年学校を休み私は復学した。
私の記憶から老婆のあの夜の記憶は程なく消え去っていった。老婆の記憶は消えていき、心の奥底に沈んでいった。

盛夏の夕日が樹の座っているベンチに差してきた。これはたまらない、樹は日陰を探してホームをさまよった。日が傾いてもまだまだ暑い。今晩は熱帯夜になりそうだ。ようやくホームの端にある柱の影に逃げ込んだ樹はタオル地のハンカチで顔を拭った。その時遅れていた列車がホームに入ってきた、ゆっくりとその白地の列車が止まり、数人の客が列車内に逃げ込むように入った。
ふうっ
思わず樹はため息をついた、中は冷房がよく効いていて汗が一気に引いていった。濡れたシャツが冷たく気持ち悪い。ふと見ると向かいの席にあの先程の涼しげな若者も腰掛けている。
最終駅までの長い乗車になる。規則的な鉄路の単調なリズム音が眠気を誘った。
いつの間にか樹は夢を見ていた。夢の中で樹はあの病院にいた、年齢も当時と同じ少年に戻っている。病院内はとても明るく外来患者でごった返している。こんなに活気のある病院を見たのは樹は初めてだった。皆笑顔で、病院独特の鎮痛な面持ちの患者は皆無だ。まりをついてる子供がいるが誰も注意しないばかりか笑顔で見ている。
樹も何やら晴れやかな気持ちになって浮かれてきた。心のどこかでこれは夢である事を自覚しておりこの短い映画を楽しんでいる。身体も子供の頃に戻り空腹を覚えいつもの近くの食堂へ行こうとするがどうしても出入り口がわからない。夢で良くあるパターンだ。
樹は今度は自分の病室へ向かった。病室は記憶のままの状態でそこにあった。当然だ、夢は記憶のフラッシュバックなんだから。
病室に入るとおばあさんはいない、樹は自分のベッドへ向かい腰を下ろした。夢なんだから現実離れした、出来れば心地よい経験がしたいと樹はベッドの上に寝転んで病室の白い天井を見上げた。
老婆はいつまで経っても現れなかった。樹の興味はこの夢をなるべく覚めることなく、長く続くように願った。樹は夢で奔放な出来事を願ったがなかなかそうは進まず、いつか夢が覚めてしまわないか気が気ではなかった。
いつの間にか日が陰ってきた、身体は子供でも冷たいビールが飲みたくなるのが自分でもおかしかった。あたりはあっという間に暗くなり、樹はベッドでまだ天井を眺めていた、やがて飽きて身体を起こした。
ずいぶん時間が経ったはずである。覚めないでいてくれと願っていた夢の途中の樹だが、樹の願い通り夢は醒める様子もない。病室の外から聞こえていた先程までの喧騒は嘘のように静かになった。夏の夜なのに虫の鳴き声一つしない。樹は立ち上がると病室のドアを開けて廊下に出た。

病院の廊下はうす赤い白熱灯の光の中でくすんだように樹の目前に広がった。蒸した夜で樹は首筋から汗が滴った。そこまで歩いて樹はスリッパを履いていないことに気がついた。病室に戻ろうと思ったが煩わしくなってそのまま廊下を進んだ。廊下の中央付近に自動販売機のある小休憩場所のあたりが少しだけ明るく照らし出されていた。そこにある端の破れた黒地のビニール生地のカバーの腰掛にすわり、樹はそっと周りを見渡した。蒸し暑い夜だが、妙に肌寒さを感じた。
遠くで何か物音が聞こえたような気がした。空耳かもしれないが気になった樹は声の方へ歩き出す、今度はたしかに人の話し声が聞こえてきた。声の方角には看護師詰所は無いはずだが、確かに女性達の話し声が聞こえてくる。声の主達が近づいてくると周りがほのかに明るくなってきた。明かりはどんどん明るさを増し眩く輝き、とうとうまわりは昼のように明るくなった。
眩しさに樹は眼を開けていられず眼を閉じた。そして、再び眼を開けると先ほどまでの眩い光は消えていて、女性達の声も消えていた。樹は部屋の前に立っていた、両開きの部屋のドアは閉められていて、ドアの上には白い看板があり、そこには赤褐色の白熱灯に照らされた霊安室の部屋の名が浮かんでいた。
次の瞬間樹は自分でも驚くような行動をとった。霊安室の鍵は開いていてドアは簡単に開いた。


白いベッドが一つあって、あとはなにもなかった。あまりに殺風景だった。簡単な祭壇くらいはあるんじゃないかと予想していたが樹は当てが外れた。樹はどんどん大胆になっていった。遺体用のベッドに腰掛けて、しばらくしてあろうことかそこに仰向けになって身体を横にした。ひんやりの心地良かった。
知らぬ人がみたら本物の遺体と思われてもこのシュチエーションではしかたない。
長い、あまりにも長い夢だ。いくらなんでも長すぎないか。どうなってるんだ、ちょっと不安になってきた。
右横に黒い霊安室名簿という冊子が目に入った。随分分厚い冊子だ。昭和42年と金色の文字で年度が記入してある。樹はいつしか眠くなった。




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