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記憶と思い出
しおりを挟む全ての記憶を思い出す事ができたといってもいいのだろう。記憶のページを見続けている時、最初のうちはただテレビを見ているような感覚だったものが、今ではその時目にしたもの全て、自分の身に起こった事なのだと、自分の記憶なのだと分かる。
ただ一つ気になる事があるとするならば、プレーナと私の友であった "Arcus" の事だ。
プレーナとアルクスと私の三人で一緒にいる時の会話や、アルクスと私の二人だけの時の会話は、どんな話をしているのか鮮明に聞こえた。
...けれど、何故かプレーナとアルクスの二人だけの時の会話だけは、ノイズが入ったように途切れ途切れで鮮明とは程遠く、全く聞こえない訳ではなかったが、何を話しているのかさっぱりだった。
それにあの後... ...、
私が死に、プレーナが亡くなった後、アルクスがどうしたのかも分からない。
ただ、プレーナが亡くなる少し前から、二人は何やら真剣に話し込む事が多かったようだけど、勿論会話の内容は分からなかった。
プレーナが亡くなる間際の、アルクスとの会話も、何を話しているのかは聞き取れなかった。
プレーナは世界に復讐する気だったのね。
私が彼を一人残して逝ってしまったから。あの祝いの場ですら、油断すべきではなかったのに。
世界への復讐、プレーナは周辺諸国に片っ端から戦を仕掛けるようになった。あんなに共に苦労して結んだ幾つもの同盟国とですら。
大量虐殺王、残酷無慈悲王、冷徹非道王などの言葉を投げ付けられても、その瞳の奥の暗闇は変わる事なく悪化し続け、自国の国民が起こしたストライキですら、彼らの意見に耳を傾ける事なく、関わった者達全員を処刑した。
涙が... ...止まらなかった。
彼は毎晩のように私の名を口にしては、両手で顔を覆って泣いていて、まるでこの世の終わりみたいに呟くのだ。
"君を忘れられない事を、許してほしい"
と——————... ...
...だが、当然そんな状況が長く続く筈もなく、結局プレーナは自国の民と他国の結託により命を落とす事となった。致命傷を負わされ、城に火を放たれ、自室で生きたままの焼死。
勿論、嬉しい事だってあった。息子が生まれたのは、当時のプレーナや私にとって最も幸せな出来事だった。私の髪色を継いだキャラメル色の髪に、プレーナ譲りの深い青い海のような色の瞳。
愛しい我が子、【ウィルトス・ゼゼ・クレヴァス・ルーナ】と【パクス・ゼゼ・クレヴァス・ルーナ】
長男のウィルに、次男のパクス。
今世では愛しい息子達にはまだ、会えていないみたいだけど———
「...私は知らないうちに、私にとって、とても大切な人に再会できていたんだね... ...」
あの時、記憶さえあれば、プレーナの気持ちを理解する事ができたのに。
モーントに、「おかえり」と言えたのに...。
目の前の光景が徐々にぼやけていくのと同時に、強烈な睡魔に襲われ、トヴァは意識を手放した——————
***
ゆっくりと瞼を開けて起き上がる。
辺りを見回せば、トヴァの横で彼女に手を伸ばすようにして倒れているカエルムとナナがいて、トヴァは飛び起き、起こそうと二人の身体を揺らす。
どうやら二人共、ただ眠っているだけのようで、それが分かったトヴァはホッとして、今度はトヴァに記憶を返してくれた人物を見た。
「その御二方は、そのうち目覚めるでしょう。
トヴァ様は、無事思い出されましたか?」
そう言って優しく微笑む彼に頷けば、「それは良かった」と、彼は再び微笑んだ。
しかし、その穏やかな表情は、次のトヴァの言葉により崩される。
「本当にありがとう、【スキエンティア】。いえ、【スティア】と呼んだ方がいいかしらね、宰相閣下?」
「... ...っ!
...あぁ、なんと、そんな事まで思い出して頂けたのですか?」
先程までの穏やかな微笑みが嘘のように崩れて、今にも泣きそうに顔を歪める彼が、目の前にはいた。
「"そんな事"って...。私にとっては凄く重要な事だわ」
「その御言葉だけで、あと三百年は頑張れそうです」
「ふふ、スティアは昔から大袈裟ね!私が薔薇の棘で指を切った時も、凄く心配して私を抱き抱えて... ...って、スティア!?何で泣くの!?」
流れる涙を拭う事も隠す事もせずに、ただただ涙を流しながら目を細めてトヴァを見つめ続けるスキエンティアに、トヴァは驚きを隠せない。
「...っ、申し訳ありません。感極まってしまったようです」
「え、そんなに!?」
「勿論です。姫様達は私の全てでしたから。...いえ、"でした" ではないですね。今も尚、貴女様もプレーナ様も私の全てです」
「...ちょ、ちょっとスティア、恥ずかしいから止めなさい」
「そう仰られても...、事実ですからね」
「...もう... ...。
そういえば、どうしてカエとナナは眠っているの?」
トヴァが少し心配そうに彼らを見やれば、スキエンティアは「大丈夫ですよ」と目を細めた。
「彼らは、私が姫様に記憶をお返しする際の術の影響を受けてしまっただけですので」
「影響?」
「はい、姫様が魔法陣に囲まれた際、御二方は姫様を御心配する余り、手を伸ばされました。その際、身体の一部であれ、陣内に直接入ってしまった為、姫様と同じく、姫様の記憶を御覧になっていたのだと思いますよ」
「...あの記憶を、カエとナナも... ...」
「...まずいでしょうか?ならば御二方の記憶を操作する事は可能ですが」
「スティアはきちんと陣内には入らないよう、言ってくれたわ。だから、スティアの所為ではないのだから、そんな罪悪感たっぷりの顔をしなくていいの」
「説明不足でした...」
「いいってば」
それから、カエルムとナナが目覚めるまで、私はスティアと昔話に花を咲かせた。
話せば話す程、最初は感激して涙ぐんでいたスティアも、笑う方が多くなっていって、そんなスティアを見たアカネはとても嬉しそうに私達の会話を聞いている。
「もうプレーナ様にはお会いしたのですか」
「ええ、今はリールと名乗っていたわ。それに、プレーナだった頃の記憶も全部覚えているようだったわ」
そう聞くや否や、スティアは不安げに眉を顰めた。きっと、この世界を恨んで復讐なんて考えを実行に移したプレーナが、今世でもまた同じような事を仕出かすのではないかと心配しているのだろう。
「スティア、大丈夫よ。プレーナ...いえ、リールはもうきっと、あんな事はしないわ」
「しかし...」
「仮にもしリールが何かしそうなら、絶対に止めるわ!
だって、例え前世の記憶があったとしても、昔は昔、今は今でしょ?身分も生きる場所も全て違うのだから、また最初からやり直すつもりで生きなければ。前世を引き摺って生きる必要なんてないでしょう?」
そうは言われても、やはりニカッと無邪気に笑うトヴァの笑顔が、ルクスと酷似し過ぎていて、スキエンティアは「その通りですね」とは答えたものの、困ったように微笑んだ。
「しかしあれですね、記憶を取り戻したトヴァ様と、取り戻す前のトヴァ様の性格が違っていて多少驚いています」
「えっ、そう!?」
「はい。一気に明るくなられました。というより、姫様に戻りました」
「無意識だったわ...」
これじゃあ、自分が主張した「前世を引き摺って生きる必要なんてない」という言葉を自分で塗り潰しているではないか。
「でも、そちらの性格の方が、私は嬉しいですけどね」
「...スティアって、本当に甘いわ」
「よく王妃様に怒られましたね...」
「ほんと!プレーナのお母様って、普段とっても優しいのに、怒ると...」
「鬼でした...」
いやはや、と恥ずかしげに頰を掻くスティアが可笑しくて、トヴァは久々にお腹を抱えて笑った。
そうしてまた、そこで一つ思い出す。
昔、前世ではなく今世で、ただ只管一生懸命に、私を笑わせようとしてくれていた少年がいたことを————
***
「ジーク兄さん、最近随分ご機嫌ですね。何か良い事でもありましたか?」
とある大豪邸内の一室。
少し長めの黒髪を一房に纏め横に流した美少年が、デスクに山積みにされた書類一枚一枚に目を通している同じ髪色の美少年に問う。
しかし、ご機嫌だと言われた少年は、特別笑顔でもなく、鼻歌を歌っているわけでもない。側から見れば、無表情に黙々と何かの業務をこなしているようにしか見えない。
「まぁ、アスタロトお兄様には分からないのですか?」
クスクスと上品に笑う此方も美少女。前髪は目よりほんの少し上辺りで綺麗に切り揃えられており、その長い黒髪は少し高めの位置で結ばれ、可愛らしいツインテールを成している。
黒髪に紫苑色の瞳は、この部屋にいる三人に共通しており、その顔つきもほぼ同じといっても過言ではないくらいには似通っていた。
「ルシーは知っているのですか?」
「当然ですわ。寧ろ、分からないアスタロトお兄様が鈍感過ぎるのです」
得意げに言うルシーに、指を口元に添えて考え込むアスタロト。
「アスタロトお兄様は鈍感に加えて真面目過ぎますわ」と、溜め息を吐いたルシーが再び口を開く。
「もうすぐ学園に入学できるんですもの」
手を合わせ、目を輝かせるルシーに、アスタロトは更に疑問が生まれたのか、首を傾げた。そんな彼を見て、彼女はやれやれと肩を落とす。
「我が由緒あるテネブラエ家が、最も優れた一流財閥であると示す絶好の機会ではありませんか」
「ああ、そういうことか」
「それだけではありませんわ。ねえ、ジークお兄様?」
ルシーが意味ありげにジークへ視線を流すと、それに気付いたのか偶々なのか、手にしていた書類を置き、ルシー達の方を見やる。
「...少し煩わしいぞ、ルシー」
「っ!も、申し訳御座いませんっ、ジークお兄様!」
スッと細められた冷ややかな、自分より少し濃い目の紫苑に、ルシーは焦って怯えたように謝罪する。
「...でもまぁ、そうだな。お前は俺をよく理解してはいる」
そうルシーに声を掛けて、再び書類へと視線を戻すジークに、ルシーは胸を撫でおろした。
「もしかして、アウラ家の御令嬢ですか?」
「...」
「... ...」
アスタロトお兄様ぁぁあ!!
何故今、このタイミングでお気付きになられたのですか!?
何故今の会話を目の当たりにしたのにも拘らず、そんなに平然とドストライクな事を仰るんですか!!
本当に、アスタロトお兄様は空気を読むのが下手ですこと!
なんていう、ルシーの中での盛大な突っ込みとは対照的に、シーンと静まり返った室内。
ルシーは段々居たたまれなくなってきた。
「... ...あのぅ、ジークお兄様...?」
あまりにも静寂が続くものだから、思い切って逸らしていた顔を長男へと向けながら声を掛けてみれば、頬杖をついて、すぐ横の窓から見える中庭を眺めていた。
恐る恐る近付いて、ジークの視線の先を追ってみれば、アスタロトも同じように中庭を見つめる。
「...懐かしいな」
そう呟いたジークの細められた目がとても柔らかい事に気付いて、ルシーは再度、自分の考えが的中していると確信した。
「昔、よくあの木の下で遊びましたね」
「...ああ」
きっと、今ジークお兄様は思い出している。
お兄様が何をしても、どんなに頑張っても、なかなか笑ってくれなかった少女のことを。
アスタロトお兄様にとっても、私にとっても、とても大切な友人だった少女。
星の数ほどいたテネブラエ家に見合う家柄の婚約立候補者の中から、誰一人として選ばなかったジークお兄様が、ご自身たってのご希望で婚約者になさった少女———
トヴァ・アウラ様のことを——...
***
「いい加減笑え、何故笑わない」
そう言って、少女の口の両端を引っ張り、無理矢理にでも笑顔を作らせようとしている十歳の少年と、そんな痛そうな状況にも拘らず無表情な同じく十歳の少女が二人、中庭の中央にある木の下で騒いでいた。
...騒いでいるのは少年だけなのだが。
「ちょ、ちょっとジークお兄様!!トヴァ様になんて事してらっしゃるの!」
すごい形相で焦って飛んで来たルシーは、ジークの手を叩き落とすと、引っ張られていた箇所を労わるように摩る。
「大丈夫ですか!?トヴァ様!痛くありませんか!?」
「平気です。心配なさらないで下さい、ルシー様」
「そんなに強く引っ張ってはいない」
「いや、そういう問題じゃないですよ」
ルシーに続いてアスタロトまで登場し、ジークは舌打ちした。
「お前達は、こいつが本当に笑った顔を見てみたくはないのか」
「それは見てみたいですが、だからといって無理矢理引っ張ってはダメですよ、ジークお兄様!何か別の方法を考えましょう?」
「...別の方法?」
「例えば...ほら!何かプレゼントするとか!」
「この前、ネックレスを贈ったが」
「アクセサリーに興味が無いのならば、花...とか」
「...この前、花束を一荷台分贈った」
「じゃ、じゃあ服なんてどうですの!?」
「... ...先月、ドレスを二十着贈った」
「「... ...。」」
アスタロトとルシーの提案も虚しく、ジークはもう既に殆ど実行していて、それでも笑わないという鉄仮面少女に、難攻不落の壁を見た。
しかし、我が兄がここまで頑張っているのだ。妹のルシーとしても意地がある。何せ、ジーク、アスタロト、ルシー含め、テネブラエ家の者は皆、代々、容姿端麗成績優秀、家柄も完璧で金持ちの最強ロイヤル一家。
そんな一家の子息、しかも長男であるジークがこんなに真剣に、たった一人の少女の笑顔が見たいと奮闘しているのだ。手助けしないわけがない!そして、どうやらそれはアスタロトも同じようで、ルシーとアスタロトは目を合わせて頷き合った。
「ト、トヴァ様?あの、トヴァ様が楽しいと思う事はなんですの?」
「楽しいこと...」
「嬉しいことでもいいですよ」
「...嬉しいこと」
それはもう真剣に、真剣に考えているトヴァを見ながら、
え?そんなに考え込まないと出てこないの?「あれ買って欲しい!」とか、「あそこに行きたい!」とか、何でもいいのに、何もないの?
...え?本当に?本当に何もないの??
と信じられない物を見る目つきで、ルシーがトヴァを見つめていると、ようやくトヴァは、「あ」という顔をした。
やっと何か思いついたのかと、トヴァの答えをワクワクしながら待っていると、何を思ったのか、トヴァは歌い出したのだ。
その歌は現代で使われている言語の歌ではなく、大昔に使われていた言語で歌詞を成していて、突然歌い出したトヴァに驚く一方、その透き通った美しい歌声に、三人が聴き入っていると、まるでトヴァの歌声に呼応するかのように光の粒が出現し、掌に乗るくらいの小さな数匹の光の妖精になってクルクルと踊り出した。
その光景は本当に綺麗で、声も発せず見入ってしまった三人の表情は、それはそれは嬉しそうで。
トヴァが歌い終えるのと同時に、光の妖精は弾けて消えた。
「これが嬉しいことだと思います」
「え、え?どれですの?」
ルシーが疑問符を飛ばしまくっていると、トヴァが続けた。
「今の、お気に召しましたか?」
「え?ええ!もちろん!感動しましたわ!ですよね!?ジークお兄様っ、アスタロトお兄様っ」
先程の光景を思い出したのか、興奮冷めやらぬといった風に瞳を輝かせて答えるルシーに、ジークもアスタロトも同意の表情を見せる。
「ん。でしたら、私も嬉しいですし、楽しかったです」
そう言ったトヴァの表情は、笑顔とまではいかなくとも、限りなくそれに近い優しいもので、三人はその表情に魅入ってしまった。
...が、すぐに、ジークによって現実に引き戻される。
「ルシー、もうすぐダンスのレッスンの時間だろ。早く戻って支度をしろ」
「え、ジークお兄様?まだ少し時間が...「時間より前に行動する習慣をつけろ」
「?は、はい...」
「アスタロト、お前もだ。たまにはダンスのレッスンでもしておけ」
「...はい」
厄介者払いするかのように、的確に、双子の弟と妹をこの場から退場させたジークに、トヴァが尋ねる。
「ジーク様もお忙しいようでしたら、そちらに行かれても大丈夫ですよ」
「... ...もう少ししたらな」
「そうですか、ではもう少しだけ付き合って頂けますか?」
俺は、トヴァが一人で過ごすのも嫌いではないタイプだと知っている。そんなトヴァがこんな風に言うのは、気を遣ってくれているんだろうという事も分かる。
「...ああ」
「ありがとうございます」
トヴァはふわりと微笑むと、そのまま座り直し、自分の隣に座るよう促した。その微笑みも、やはり何かが足りないように感じる。
そうして木の下に座り、ただ時間を潰す為に会話をした。
「...お前さ、」
「何ですか?ジーク様」
「... ...その、本当に何か、欲しい物はないのか」
「はい、特には」
予想通りの返答に、ジークは大きな溜め息を吐き、トヴァは首を傾げる。
「ジーク様?」
「...では、もう分からない」
「??」
「一般的には、女にアプローチするにはプレゼントが基本だろう。アスタロトもそう言っていた。だが、お前は何も欲しがらないし、俺が贈り物をしても、喜ばない」
もう何をしたらよいのか分からないと、本気で悩んでいる様子のジーク。
「ジーク様にして頂いた事はとても嬉しいと思っていますよ」
「... ...そういうのはいい。お前が本気で喜んでいないのは分かる」
「いえ、本当に嬉しく思っていますよ」
「じゃあ何で笑わないんだ。俺はお前が本当に笑っているところを一度も見たことがない」
「...強いて言うなら、家ではあまり笑わないからでしょうか」
何と答えてよいのか分からないトヴァは、一生懸命考えるのだが、やはり明確な回答は出ない。
「なんだ、家でも笑わないのか」
「はい。笑うような事が御座いませんので、全く」
ジークは、即答したトヴァに対して純粋に驚いた。ジーク、アスタロト、ルシーは三つ子で仲が良く、自由な時間は基本常に行動を共にする。何事も全て完璧にこなす天才ジークに、鈍感ではあるが狡猾アスタロト、お転婆ルシーの三人揃っていれば、毎日笑いが絶えないのだから。
そしてこの三つ子、年齢にそぐわない知力と魔力を有している為、使用人は勿論、他の色々な方々に、末恐ろしいと一目置かれている。
「...私が笑っていると、嬉しくないようなので」
「... ... ...は?」
ひどく小さくぽそりと呟いたその言葉。よく聞き取れたな、と思う程に小さい呟きを零したトヴァの方を見れば、その悲しげな表情に、ジークは思わず息を飲む。
「秘密ですよ」
ジークが自分の呟きを聞き取ってしまったらしい事に気付いたトヴァは、シーっと人差し指を口元に当てた。
その表情は、今見た悲しげな表情からいつものトヴァに戻っていたが、ジークはそんなトヴァを見て思い出す。
ジークの父親である【ニゲル・テネブラエ】とトヴァの父親である【ファルサ・アウラ】は仕事柄旧知の仲で、よく仕事の話をしに、ニゲルがファルサ宅へ出向いたり、ファルサが今日みたくニゲル宅へ赴いたりする。
ジークは自分が長男である事を利用し、テネブラエ家を継ぐ身として早く仕事を覚えたいという理由で、父親がトヴァの家へ行く際はほぼついて行くのだが、それは80%トヴァに会う為である。残りの20%はきちんと仕事目的だ。
しかし、トヴァはそういった事をしないので、ジークやアスタロト、ルシーが「どうしてもトヴァに会いたい」とニゲルに頼み込んで、連れて来てもらっているわけだが、確かに、トヴァが父親に対して笑っているところを見たこともなければ、遠目に二人を見た時も、どちらも笑っていなかった事を思い出す。
思えば、何度かトヴァの両親とトヴァが三人でいるところを目にした事はあったが、トヴァは本当に必要な時だけ微笑んでいたように感じた。
そこから導き出されるのは、トヴァの家庭環境はあまり良好ではないのではないか、という考えだった。
政略結婚なんて、ジーク達の世界ではよくある話だが、例え政略結婚であっても、結婚してからお互いに愛し合うようになるケースも少なくはないし、勿論その逆のケースも存在する。そして、そういう夫妻の間に産まれた子供は、家督を継ぐ為だけの存在であり、愛されない。珍しい事でもなんでもなく、本当によくある事だ。
だが—————... ...
「ジーク様」
「何だ?」
「私は、ジーク様にそこまでして頂けるような人間ではありません。それは、魔法属性的にも、人間的にも」
テネブラエ家には代々、高魔力を有した闇属性の魔法を得意とする子供のみが産まれてくる。そこには、家柄的にも見合う闇属性の魔法に秀でた者同士が、後継となる子を成し続けることによって成り立ってきたという背景がある。
しかし、アウラ家は代々、特別高魔力を有しているわけでもなければ、そもそも魔力持ちすら少なかった家系。高魔力且つ光属性の魔法を得意とするトヴァは、イレギュラー中のイレギュラーだった。
「闇は光あっての闇で、光は闇あっての光だろう?」
「考え方によっては、そうですね」
「それにお前は先程、俺達が楽しいと楽しいというようなことを言ったな」
「はい」
「ならば、俺もアスタロトもルシーも、お前が傍にいる時はいつも楽しいのだから、お前も楽しいという事になる。顔は笑っていないわけだが」
そうだな?と言葉にせずとも確認を取るように話すジークに、トヴァは頷く。
「お前がいつも隣にいるなら、俺は幸せで楽しい。そうすればお前も楽しい、なら俺達は結婚するべきだと思わないか?」
「はい———
... ...はい?」
聞き間違いか何かだと思ったが、そうでもないらしく、ジークは立ち上がってトヴァの手を引き、自分と同じくトヴァを立ち上がらせると、今度はトヴァの目の前にスッと片脚で跪いた。
ジークはそのままトヴァへ掌を差し出し、口を開く。
「私との婚約をお受け頂けますか?トヴァ様」
自分を真っ直ぐと見据えるジークの紫煙色。
高価な宝石をあしらったアクセサリーも、私が好む色合いのドレスも、荷台いっぱいの花々も、今迄にジークから贈られた物は全て、ジークの心が伴っていたのだと、トヴァはそこで初めて気が付く。
父親同士仲が良いからだとか、仕事上の都合とか、そういった理由で仕方なく、ジークはトヴァへアプローチさせられているのだと、もうずっとそう思っていた。
「... ...後悔しても知りませんよ?」
眉を八の字にして微笑み、差し出されていたジークの掌に、自身の手をそっと置くと、彼はトヴァの手の甲へ口付けを落とす。
そうして次の瞬間には、トヴァはジークの腕の中にいた。
「...ずっと恋い焦がれてたものが、ようやく手に入ったのに、後悔などするわけがない」
至極嬉しそうに、幸せそうに、彼は言った。
嬉しさが声音に滲み出ていて、ジークの腕の中でトヴァがくすりと笑うと、ジークはトヴァの両肩を掴み、バッと離れ、トヴァの顔をガン見して目を丸くしている。
「...ジーク様?」
「笑ったな!」
「... ...っ、」
はにかんだように笑うジークを見るのは初めてで、そんな彼を見て、トヴァは心がゆっくりと温かくなるのを感じた。
ジークと一緒にいればきっと、毎日が楽しくて、幸せなものとなるのだろう。
そう確信しているのに、頭の中、奥では、誰かが自分を呼んでいるような気がした。
そんな不確かな違和感に蓋をして、ジークの手を取り、彼の婚約者となったトヴァ。
ジークもトヴァも幸せなれると信じて疑わなかった。両親は勿論、双子の弟・妹も、使用人を含めテネブラエ家の者達は全員、トヴァとの婚約を祝福してくれた。
その日、家に来ていたトヴァの父親も皆んなと共に笑っていた。
だから気が付かなかった———
トヴァの父親の苦虫を噛み潰したような表情に。
妙な違和感を少しばかり感じて振り返れば、にこやかなトヴァの父親が自分の父と話しているだけだったので、気のせいだろうと。
***
テネブラエ家からの帰り道、リムジンの中でトヴァの目の前へ座るファルサが口を開いた。
「婚約を受けたんだってな」
「はい...」
俯きがちに返事をしたトヴァに、「お前は外見だけはいいからな」と鼻で嗤うファルサ。
「正直、お前がここまで考えなしの浅はかな選択をするとは思わなかったぞ」
突然変わった父親の地を這うような声音に、咄嗟に顔を上げたトヴァは、首を掴まれ、反射的に小さな呻き声を上げる。
「お前はその、気味の悪い力のことを考えなかったのか?」
トヴァは、魔法とは関係なしに魔獣と話せる力を持つ。ファルサはその事について言及しているのだろう。
「テネブラエ家の御子息との間に産まれた子供に、万が一お前のその不気味な能力が受け継がれでもしたら、どうするつもりなんだ」
ああ、そうか。
確かに自分は軽率な選択をしてしまった。もし父さんの言う通りになってしまえば、それはアウラ家だけの問題ではなくなってしまう。
「...っ、も、申し訳、ありま...せん」
上手く呼吸できない状態の中、やっとの思いで謝罪を口にすれば、トヴァの首は解放され、一気に取り込んだ空気に暫し咳き込む。
「お前はもう、テネブラエ家には連れて行かん。婚約も上手く解消させよう」
「...っ」
「ただ、あの御子息も、なかなか諦めが悪いからな。お前、ほとぼりが冷めるまでピリザに戻っていろ。
御子息には、"トヴァたっての希望で、外国に留学させた。後程よく考え、やはり自分はテネブラエ家には相応しくない為、婚約を解消したがっている" とでも伝える。そして、もし何かあれば話を合わせろ。いいな?」
先程ジーク様の婚約を受けた時の、本当に嬉しそうだった彼の顔が浮かんだ。
彼だけではない。アスタロト様とも、ルシー様とも、これから先もずっと一緒にいられると。
でも、やはり私には———
「...はい、分かりました」
そんな資格は無かったのだと、思い知らされた。
***
...馬鹿な!
そんな馬鹿な話があるか!!
トヴァが俺からの婚約を受けてくれたのはつい先日だぞ!?
大切な話があると父に呼び出され、訪れた父の書斎で告げられた婚約解消の話。
何でも、婚約解消はトヴァたっての希望であり、婚約を受けた後、よく考えた結果、自分の選択が浅はかであったと言う結論に至ったというのだ。
「父さんは、それをトヴァ自身からお聞きになったと言う事ですか?」
俺のこの質問に、父は眉間に皺を寄せる。やはり違うようだ。
そもそもこんなのは、やり方がおかしすぎる。俺が未成年だという事を考慮しても、仮に婚約を解消するならば、当人同士できちんと話し合いのできる場を設けるべきだ。
「トヴァと直接話がしたいので、場を設けて下さい」
おそらく、裏で動いているのはトヴァの父親だろう。あの時感じた違和感は、やはり勘違いなどではなかったようだ。魔力属性的にも悪意に気付き易い体質の筈なのに、浮かれて過ぎてしまっていたあの場の自分を殴り付けたい。
「それがな...、トヴァ様は外国へ留学なさったんだそうだ。前々から考えてはいたらしいのだが、気持ちに踏ん切りがつかなかったのだとか... ...」
荒げそうになる声を必死に抑えて懇願すれば、父さんは困ったように言った。
絶対に嘘だ。旧知の仲だからといって、父さんは本当にそんな見え透いた戯言を信じるのか?
確かに、こちらから聞かなければ、トヴァは自分の事を話すような性格ではない。だからと言って、外国へ留学するなんていう、そんな重要な事までトヴァが俺達に伝えないなんて事はあり得ない。
俺達三つ子とトヴァの仲は、そこまで浅くはない。
「だからな、お前にはもっと良い縁談を受けるようにと...「は?何ですか、それは。余計なお世話ですよ」
ジークがそう言い放つと同時に、書斎の空気がらりとが変わった。ジークの足元から黒い風が巻き起こり、デスクに積んであった本や書類を舞い散らかす。
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風が止み、散らかりまくった書斎に再び訪れた静寂を破ったのは、父親の安堵からくる溜め息と、アスタロトがジークを呼ぶ声だった。
「ジーク兄さん、どうしたんですか。らしくないですよ」
ジークは、アスタロトを無視して書斎から出て行ってしまう。
ルシーが事の経緯の説明を求めれば、父親は隠す事なく全てを話した。
「何ですの!?それは!そんなのっ、ジークお兄様が怒るに決まっているではありませんか!」
キッと自分を睨みつける娘に、再び本や書類が飛び交う事態になるのかと、身構える父親。
「お父様は全然分かっておりませんわ!ジークお兄様は、もう四年もトヴァ様のことを想っていたのですよ!!それでやっと先日、結ばれたと思ったのに、それは酷過ぎますわ...!!」
涙目のルシーに、流石のニゲルも愛娘を泣かせてしまうと焦り出す。アスタロトは、ルシーの頭をぽんぽんと優しく撫でる。
「でも父さん、本当におかしいとは思いませんか?それは幾ら何でも、こじつけが過ぎると思うのですが」
「...そうだな。確かに、電話でそう言われた時は、ん?と思ったが、ジークがそこまでアウラ家の令嬢を気に入っているとは思わな「"気に入っている" ではなく、"愛している" が正しいですわ!お父様!」
喚き立てるルシーに、即座に謝り言い直すニゲルを見て、アスタロトは娘に激甘な父親にやれやれと小さく息を吐いた。
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