記憶の先で笑うのは

いーおぢむ

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愛しているから

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トヴァとジークという男が体の関係を持った事は直ぐに分かった。俺達魔人は鼻が効くからだ。糞気に入らねえけど最近トヴァはジークとよく一緒にいるようになったから、トヴァから奴の匂いがする事は珍しい事じゃなかったが、とある日からその匂いが濃くなった。それも今迄のようにトヴァの外側からではなく、内側から、何て言うかこう...トヴァと奴の生気が混じり合った匂いがしやがる。

確かに、入学してからは常にトヴァを傍で守る事が出来なくなった。それは単に、俺とナナがトヴァと同じクラスじゃないって事もあるが、トヴァの前世を知ってから、俺の知らないトヴァの知り合いに対して、変に空気を読む癖がついちまった。「何かしらトヴァにとって重要な関係があるんじゃないか」と。その所為で、唯一共に過ごせる昼休みすら、週三回になってしまっている。何とかこの状況を打破するには、やはり俺とナナがオルビスへ昇級し、トヴァのクラスメイトになるしかないとナナと話し合い、ここ最近はいつにも増して学生らしく勉学に励んでいた。

教室外にいる時、よく遠目からトヴァを見るが、相変わらずジークと一緒にいる事が多い。ジークはトヴァから離れない。いつもトヴァの隣にいて、いつもトヴァを見ているし、トヴァに邪な目を向けるような奴もジークやルシーに睨まれればそれまでだが、最近ではそういった輩も目にしなくなってきている。


「トヴァが特別元気ないなら分かるけど、見た感じそうでもないと思うし、動物なんだから後尾なんて珍しくもないじゃない。ていうかそれより、来月中旬にある定期テストの勉強に集中しないとオルビス昇級遠退くよ。俺はせっかくトヴァに貰った "今" を絶対無駄にしたくないし、早く同じクラスになりたいから、カエルムが何かしようって言うなら今回は付き合えないけど」


セプテムはそう言った。こいつも変に気を遣ってしまうようになってしまった一人だが、確かにその通りだ。トヴァが心配なら、早くオルビスに行って常に傍にいられるようにならなければ。それにセプテムの言う通り、トヴァは特別元気が無いようになんて見えない。本当に僅かに、何となーく元気がないように感じただけだ。気の所為かもしれない。


「...だな」


カエルムは鞄から教科書を取り出すと、セプテムの前の席へ座って勉強を始めた...

...そう、始めようとしたのだ。


「...やっぱり、ちょっと行って来る」


ガタリと割と勢いよく席を立ち、そのまま図書室を出て行ってしまったカエルムと、机に置かれたままになった教科書やペンケース、机の横の鞄に目をやり、ナナは溜め息を吐いた。瞳はころころと色を変えている。


「持ち物、全部置いてっちゃったね」

「誰が届けてやるもんか...」

「届けるの面倒臭いね~、ナナちゃん」


***


「オイ、ちょっと面貸せよ」

「カエ...!」

「よっ、トヴァ」


ジークに声を掛けたのだが、その隣にいたトヴァの方が反応が早かった。カエルムはトヴァに笑顔で応えた後、本来の目的であるジークへと視線を戻す。しかしその瞳はまるで別人の様に冷たく、敵意溢れるもの。


「トヴァ、少し待っていてくれるか。お前の大切な友人と話して来るだけだ」


ジークは至極優しく微笑んで言った。トヴァはカエルムとジークを交互に見てとても心配そうにしており、ジークの言葉にすぐ答えない。


「大丈夫だ。話をするだけだろう?」

「ああ」

「夫を信じて待つのも、妻の務めだ」


そう言ってトヴァの手を掬い取り、手の甲に口付けを落とすと、トヴァはそんなジークに対して微笑んだ。側から見れば微笑ましい婚約者同士のこんなやり取りも、カエルムは嫌悪感しか感じなかった。


「...バーカ」


だって分かっているから。あの微笑みは本物じゃないって。けどそれに気付かないテネブラエ家の坊ちゃんは、さぞかし浮かれ、喜んでいるのだろうと呆れ半分の視線を向ければ———


「... ...」


そこにいたのは自分が想像していた表情(かお)をするジークではなく、トヴァを見つめ、淋しげに笑うジークだった。






***



思いきり顔面を狙った筈の拳は奴の鼻先すれすれで魔法によって止められ、次の瞬間にはすぐ横に移動していた奴から繰り出された肘鉄をガードした事により、距離が開く。相当なスピードだ。頭脳だけじゃなく戦闘も一級品ってか、心底気に入らない、このジーク・テネブラエという男は。


「ハッ、流石オルビスってか」

「突然襲い掛かってくるとは野蛮だな。"シニステル" の魔人は」


溜め息混じりに、クラス名を強調してそう言ったジークは、まるでゴミでも見るかのような目線をカエルムへ向けている。


「そこを退け。婚約者を待たせてしまっている」


ジークがカエルムへ向かって掌を翳すと、周囲から黒い光が掌へ集められるようにして黒光(こくこう)の球体を成していく。球体が拳サイズより大きくなると、ジークはその球体を握り潰した。そして次に手を開くと、球体のサイズは掌に収まるくらいに小さくなっており、黒・紫色の電気をバリバリと纏っていた。


「その "自称" 婚約者に、お前、何しやがった...?」


明らかに危険な魔法だと分かるのに、カエルムは微塵も怯む様子はなく、ジークを睨み付けている。


「婚約者を抱く事の何がいけない?普通の事だろう———

... ... ...!」


ジークが気付いた時には目の前にいた筈のカエルムは、己の背後に移動しており、青い炎で覆われた片手でジークの首を掴む寸前だった。しかし、ぎりぎりその動きに対応したジークの黒光とカエルムの青炎(せいえん)がぶつかり合い、反動で凄まじい強風が吹き、砂塵が舞う。


「...トヴァをリールに返せ」

「...何?」

「トヴァは彼奴と共にいる事で幸せになれる!!てめぇじゃ駄目だ」

「意味の分からない事を抜かすな。トヴァは俺の妻になり、俺の子を産む。これは昔からの決定事項だ。お前のような魔人風情が首を突っ込む事は許されん」

「何でお前はそこまでトヴァに拘んだよ!相手なんて幾らでもいるだろうが!それにトヴァはてめぇの家に代々伝わる魔力属性じゃねぇだろ」

「トヴァであれば、家柄や属性など、最早どうでもいい事だ。俺はトヴァという女を必要としている」

「だからどうしてそこまで拘る!?答えになってねえよ!」


今にも殺さんとするカエルムの射貫くような視線を受け、且つカエルムのその問いに、ジークは固まった。カエルムがそんなジークの様子に驚いていると、ジークは考える様な仕草をほんの僅かの間した後で、視線をカエルムへと戻して口を開く。


「...俺が、笑わせてやりたいからだ」

「... ...は?」

「隣で笑っていて欲しいから、彼女に俺だけを見ていて欲しいから、彼女を傷付ける者がいるならば即刻排除したいから、だ。
... ...愛しているのだから、そう思うのは当然だろう?」

「... ...」

「俺は、トヴァと初めて会ったあの日からずっと、彼女しか見えていない。...だが彼女は違った。いつも何処か遠くを見ていて、常に俺ではない誰かの事を考えていた。どんなに贈り物をしても、言った俺自身でさえ恥ずかしくなるような愛の言葉も、彼女の心には届かない。だからもう、既成事実を作るしか道はないという結果になった。満場一致だ」


話している間、酷く悲しげな表情をしていたジークが予想外で、カエルムは不覚にも聞き入ってしまったが、最後の彼の言葉に怒りが沸々と再燃し始めるのを感じる。

やっぱり此奴だけ潰しても意味はない。アスタロト・テネブラエも、ルシー・テネブラエもどうにかする必要がある。


「...お互いに同じ想いじゃねえのにそんな事して、無意味だろ。馬鹿じゃねえの、お前」


カエルムのその言葉に、カエルムの表情が僅かに翳った。


「... ...貴様も、同じ事を言うのか」


" 大変だろうな。互いの心が伴わない婚約は——— "


「...ハ?」


一瞬、先程トヴァへ向けていた表情と同じ表情をしたジークと、彼の口から零れたその言葉に、カエルムは間の抜けた声を漏らす。


「...兎に角、トヴァから離れろ」

「無理だな」

「なら改めてちゃんとした場で勝負しろ!人も集めて魔術武闘館で俺と戦おうぜ。俺が勝ったらトヴァには——「断る」


まさか提案中に却下されるとは思っていなかったカエルムは、驚きでほんの一瞬フリーズしてしまったが、直ぐ煽る方向へと脳が働いた。


「負けるのが怖ぇのかよ?高魔力が売りのテネブラエ家の長男が聞いて呆れるな」

「挑発には乗らん。賭け事にトヴァを関わらせるつもりはない」


此奴がどれ程トヴァに固執しているか分かっているつもりだった。けど、本当に "つもり" でしかなかったらしい。実際は想像を遥かに超えていて、テネブラエ家の跡継ぎという立場の長男である此奴が、他人から売られた喧嘩を買わないなんてあり得ない。売られた喧嘩は倍にして返すタイプの人間だという事は、此奴自身を見ても、此奴の弟と妹を見ても容易に分かる。


「...ッ、いい加減にしろよ!!自分勝手な理由で彼奴(トヴァ)の自由を奪ってんじゃねぇ!お前だって、本当は分かってんだろ!?」

「...」

「俺はっ!トヴァにはいつも笑っていて欲しい。けど、それはお前じゃ駄目なんだ!
... ...俺でも...、駄目なんだ...」

「...お前、」

「リールとじゃないと駄目なんだっ!」


...苦しい。苦しくて、それを紛らわせるかのように拳を強く握り締める。視界が霞みそうになるのを必死で耐えたが、眉間に刻まれた皺は簡単に消えてはくれない。嘸かし情けない滑稽な顔をしてるだろう、俺は。けど仕方ない。だって、苦しくて痛くて、辛いから。

あんなものを見てしまったら、あんな前世を知ってしまったら、誰だってそう思うだろう。同じ事を考えるだろう。

トヴァにはリールしかいない、と。

それに、リールと話しているトヴァを見る度に思う。確信する。この二人の絆は切れるものではないと。


「何故そこまであの男を推す?頭はよく回るようだ。魔力値と容姿が理由になるとして、家柄に関してはどうだ?何処の貧困層から出て来たか分からない。その点で言えば、俺がトヴァを路頭に迷わす確率は0(ゼロ)だ。彼女が欲しがる物全て与えてやれる」


確かに今の彼奴(リール)は此奴の言う通りかもしれない。前世は王族だったかもしれないが、現世では貧困層の出かもしれない。まぁ、古くてもあんな豪邸に住んでいるくらいだ。現世での生まれはどうあれ、金銭面に関して言えば今は心配ないんじゃないか...?

... ...けど———


「...彼奴がそんなの望まない事くらい、お前ならとっくに分かってんだろ...?」


そうだ。この男はきっと、もう気付いている筈だ。先程トヴァの手の甲に口付けをした後、此奴の表情はそういう表情だった。

俺の言ったことを、まるで反芻しているかのような間(ま)。

そして暫くだんまりが続いた後、漸く口を開いたジークの言葉はカエルムが全く予期していないものだった。


「...彼奴なら、リール・リベロなら、トヴァを笑顔にしてやれるのか?いつも笑わせてやれるのか...?」

「... ... ...え...、」


予想外過ぎて、なんとも間の抜けた返事をしてしまった。まさか目の前の此奴が、テネブラエ家の長男であり跡継ぎでもあるジーク・テネブラエが、人の意見を、しかもいくらトヴァに関係する者だからと言ってシニステルの魔人の言う事に聞く耳を持つなんて。


「... ...分かっている。お前の言う通りだ。本当は分かっている、理解...している」


目を伏せたジークは本当に悲しげで、トヴァを解放しろと迫っているのは俺なのに、何故か同情という矛盾した感情が湧き上がる。


「お前の気持ちは分からなくはねーよ。...けどな、リール・リベロじゃなきゃ駄目だ。これだけは間違いなく分かる」

「... ...根拠はなんだ」


そんなの、前世で彼奴とトヴァが夫婦だったからなんて言えるか。そこに至るまで二人に何があったのかも全部なんて、話そうとしても話し切れないし、上手く話せる気がしねぇ...。だからって、「なんとなく」とか「俺、勘が鋭いから」なんて言ったら間違いなく一蹴りだ。本当の事を言うしかないが、そもそも信じるか? "前世" って言葉でさえ、割と胡散臭いのに?

...まぁでもどっちにしろ、


「俺からは話せない。知りたきゃトヴァかリールに聞けよ」


勝手に話せる内容でも重さでもない。二人に聞いたところで答えてくれるかも分からない。けど、それしか言う事できねーよ。


「...それも、そうだな」

「話はそれだけだ。じゃーな」


予想外の反応とか返事とか、返しに困る質問とか、俺から呼び出したくせに正直なところ糞疲れた。ただ、俺の発言の所為でトヴァが奴に質問責めにされて困らないかとか、何で喋ったんだって嫌われないかとか、そういう考えだけが、今の俺の頭の中をぐるぐるしていた。



***



そんな事、言われずとも分かっていた。トヴァがいつも誰を見て、誰を想っているかなんて。けど、どうしても諦められなかったのは、認められなかったのは、俺の我儘だ———





「トヴァ、悪い。待たせたな」

「そうでもないですよ。この教室、景色が良いから見てて結構飽きないんです。時間経つの早かったですよ」


話が終わった後、自身の教室へと戻りドアを開ければ、既に此方に視線を注いでいるトヴァと目が合う。「足音がしたのでもしかしたらと思って」と微笑む彼女に待たせた謝罪をすると、そう言ってまた笑った。


——頼むから、笑いかけないでくれ。


あんなに大好きな笑顔を、いつも見ていたいと思っていた笑顔を、今だけは心の底から見たくないと思ってしまう程に、俺はまた揺らいでしまう。

タイムリミット、潮時、そんなものとっくに分かってた。それでも解放してやれなかったのは、手放せなかったのは、無理矢理身体の関係を持ったのは、ずっと傍にいたかったのは———



「———ずっと好きだった。初めて出会った時からずっと、お前のことが、本当に好きだった」


愛してしまったから。


目を見開いて固まるトヴァ。当然だ。戻って来て早々何を言い出すのかと普通なら驚くだろう。


「...だからもう、解放してやる」

「... ...」

「婚約は、解消する。本当にすまなかった」


頭を下げたジーク。

トヴァが近づいて来る足音が聞こえる。

そして、目の前に屈んだトヴァがジークの両頬を優しく包み込んで顔を上げさせた。


「ジーク様...」

「... ...っ、んだ、これはっ、」


止まらない。泣くのなんていつ以来だ。ガキの頃以来じゃないか。というより、何故俺は泣いているんだ、いや理由なんて分かっている。
涙が止まらない。止められない。こんな情けない姿、トヴァの前で晒すなんて大恥もいいとこだ。


「... ...に決まっている」

「...ぇ?」

「嫌に決まっているからだ...っ!!何故俺がお前を手放さなければいけないッ!何年待ったと思う!?何で離れなきゃなんねえ!
... ...何で、俺じゃ駄目なんだ。何で彼奴なんだ...?俺には何が足りない?

どう、すれば...、お前は俺を見てくれるんだ...?俺だけを愛してくれる...っ?」


止まらないのは涙だけじゃなかった。ずっと抱えていたものを、溜め込んでいたものを一緒に吐き出してしまった。女々しいと思われようが、重いと思われようがもう何でもいい。此奴が俺の傍を去ってしまうのなら、もう全てどうでもいい気さえした。


「ジーク様...、私は——「俺を選んでくれ...っ、他の誰でもない、お前がッ!」


彼女を抱き寄せ、首元に顔を埋めれば、荒んだ心が僅かに落ち着いたのを感じる。
ああこれでは駄目だ。振り出しに戻ってしまう。頭では理解しているのに、俺を形成する他の部位が、細胞が、それを拒絶している。

トヴァの両肩を掴み、心が千切れそうな思いで彼女と距離をとって真っ直ぐと視線を交えると、トヴァは穏やかな笑みを浮かべた。


「知ってますよ。ジーク様が私を好きでいてくれた事、ちゃんと知ってます。
ジーク様は、私には勿体無いくらい全てにおいて素敵な方だと心から思ってます」


ジークは黙ってトヴァの話に耳を傾けている。しかし、次の彼女の言葉を聞いた瞬間、


「... ...でも、もうずっと、何百年も前からずっと、私はリールを孤独にしてしまいました。全て、背負わせてしまった...っ」


"それはいつからだ?数百年前か?数千年前か?"


そうリールが言っていたこと思い出した。


「だからチャンスがあるなら、何の因果が分からないけれど、もう一度貰えたのなら彼の傍にいたいんです。...今度こそ、彼を最期まで愛したい...からっ、」


何の事を言っているのか、理解出来なかった。けれど、一度リールがおかしくなった事と関係あるような気がした。もうこれは勘だ。確かあの時、奴はトヴァを———


「"ルクス" とは何だ。お前の名前はトヴァだろう?何故リール・リベロは、お前をルクスと呼んだ」


全く違う名で呼んでいた。


「相変わらず勘が鋭いんですね」

「茶化すな」


トヴァは、ジークには全て話してもよいと思った。寧ろ、話さなければならないと考えた。昔から一途に想い続けてくれたジークにこんな顔をさせ、こんな事を言わせてしまっているジークに、せめて誠意を持って真実を伝えなければと。例え信じてもらえなくとも、本当の事を。

そしてトヴァは自分の前世の事を全て話した。トヴァが話している間、ジークは口を挟まず終始静かに聞いていた。


「... ...俺でも、割り切れないだろうな」


——成る程な。奴が言っていたのはこう言う事か。

"俺はっ!トヴァにはいつも笑っていて欲しい。けど、それはお前じゃ駄目なんだ!

... ...俺でも...、駄目なんだ..."


瞑目したジークは、先程カエルムに言われた言葉を反芻する。本当に辛そうに眉間に濃く皺を寄せ、カエルムはそう言っていた。最後の方の言葉は振り絞るようにして出されたか細いもの。

分かるから、理解してしまったから、もう終わりだ。


「お前が何を言っても、俺の気持ちは変わらない」

「ジークさ——「けど、だからこそ、だ。...お前を解放する。愛しているから、どうしようもなく愛し過ぎているから、お前を自由にしてやるよ」


そう言って、トヴァの頬をするりと撫でたジークが彼女との間に距離を取る。


「婚約は解消だ。今迄ずっと、悪かった」


謝罪したジークはトヴァが一度も見た事のない程に傷付いた表情を浮かべていて、今にも泣きそうな瞳で、じっとトヴァを見つめた後トヴァに背を向けさせ、そっとその背を押した。


「早く彼奴(あいつ)んとこ行けよ。ここ来る時、図書室で見かけた」


ジークの口調は、常に一緒に過ごしたあの頃のものに戻っていて、あの優しい日々の懐古感が目頭を熱くする。
両親から化け物だと罵られたトヴァを、気味が悪いと嫌悪感を向け続けられた日々も、痛みに慣れてしまう程に暴力に耐えていた時間も、全て覆える程に安らぎを与えてくれたジークにだからこそ、今から言うこの言葉は契りだ。


「...もしも来世があるなら...っ、次は、貴方だけを!」


涙で霞んでジークがよく見えなかった。それでも、彼が驚いているのは何となく分かって、手の甲で雑に涙を拭って再び彼を見れば———


「言ったな。その約束、絶対に守れよ」


いつの間にか目の前にいたジークに右手を掬い取られ、その薬指に指輪を嵌められる。今度はトヴァが驚き、ばっとジークの顔を見上げた。


「かなり早い予約だが、お前は来世でも人を惹き付けるだろうから虫除けだ」

「じーく...さまっ、」

「泣くな。俺は待つのが得意だ。だから気にすんな。その代わり、来世は必ずだ。トヴァが言ったんだから破るなよ」

「来世は絶対...っ、」

「ああ、楽しみにしてる」


——トヴァが去った後、ジークは窓の外に視線を移す。中庭を見下ろせば、笑ってしまうくらい容易に思い出せる光景に、無意識に目を綻ばせていた。


「次の代は、アスタロトかルシーの餓鬼に任せるか」


もしもトヴァの言う通り、前世や来世なるものがあるのなら、今世で俺はトヴァ以上に想える相手に出逢う事はないだろう。
ああ、そうだ。断言出来る。トヴァ以外の異性を愛する事は不可能だ。


「ルシーにやされるな」


アスタロトはそうでもないだろうが、婚約解消を伝えた際のルシーの反応が容易に想像出来、ジークは溜息を吐いた。



***



走って走って、酸素なんて取り込む暇も無いくらいに無我夢中で足を動かして、彼がいるであろう図書室へと駆ける。今にも廊下を走るなと注意されそうなものだが、そんな事を気にしている余裕は無い。今この時ばかりは、校舎が広過ぎることに苛立ちを覚える。

息もえに漸く図書室へと辿り着いたトヴァは、そのまま勢いよく中へと入った。時間も時間だからか、図書室には受付以外に誰もおらず、リールの姿も見当たらない。

別にいい筈だ。今日会えずとも、明日会って伝えればいい。それだけの事なのに、どうしても今日、トヴァは会いたいのだ。頭をフル回転させて考える。全速力で走ってきた所為で思考に必要な酸素が足りないが、それでも考える。時間的にはもう寮へ戻っていたとしてもおかしくはないが、何故かトヴァは確信していた。きっとリールはまだ寮へは戻っていないだろうと。根拠のない推測だが、何故かそう強く思った。ならばと、彼の行き先について思考を巡らせる中で、トヴァはたった一つ、思い浮かんだ。

いつもだ。彼はいつも見つめていた。教室から見える窓の外。中庭の先に広がる海。きっと彼は思い出していたのだろう。城を抜け出し、レッスンをサボって海へと駆けたあの頃を。帰ればこってり絞られるのは重々承知していたのに、お互いがいれば何も怖くないと、全てが楽しいと笑い合っていたあの日々を———









「リール!!」


的中だった。海の畔には胡座をかいて座るリールがいて、名前を呼ばれた彼は振り返り、目を見開いた。


「ト、ヴァ...?何で此処に...」

「...っ!!」


リールの顔を見た瞬間、次から次へと涙が溢れてきて頰を伝う。そんなトヴァに、何事かとリールはぎょっとした。トヴァは構わず駆け寄り、背後から彼の首に腕を回して抱きついた。


「おい、どうし——「プレーナ!!ごめんなさい!ごめんなさい!貴方を置いていってしまって...!」


意図したわけではなく、リールの言葉に被せるように放たれたトヴァの謝罪の言葉に、リールは固まる。加え、今トヴァがリールをプレーナと呼んだ事に対しても思考が定まらない。


「私、今からすっごく勝手な事言うわ!でもどうか聞いて欲しいの!
... ...私っ、貴方に言ったわ。昔は昔、今は今だって。だから過去に囚われずに今を生きましょうって」


——ああ、覚えてる。あの瞬間ほど今世で絶望した事はない。


「それでも...、それでもっ!そう言ったのは私なのに、私自身が割り切れなかった!!
何をしていても貴方のことを考えてしまうの!その所為でジーク様の事まで傷付けているのは分かってたわ...。でもそれでも考えてしまうの!」


... ...何を、言って———


「... ... ...好きっ、私は貴方が好き、大好きなの!やっぱりどうしても、貴方が愛しいの、プレーナ...!」


...これは、本当に現実なのか?トヴァ不足過ぎて、ルクスが恋し過ぎて、俺が良いように創り出した夢か幻聴か、将又(はたまた)幻かなんかじゃないか?


「勝手な事ばっか言ってごめんなさい...っ!本当に——...!?」


言い終わる前に、トヴァはリールに抱き竦められた。彼の腕の力は想いを込めるように徐々に強くなっていく。


「本当に...、勝手だな」

「ごめんなさいっ」

「でも、こんなにも喜んでる俺が一番勝手で、どうしようもない...っ」


声音と肩越しに、リールも泣いているのが分かって、それが更にトヴァの涙腺を崩壊させる。


「どこがっ!プレーナは全然勝手じゃないわ...!」

「勝手だよ、俺は。ガキの頃からアンタに会いたくて会いたくてどうしようもなかったのに、トヴァと初めて屋敷で会った時、本当は思い出して欲しいくせして、"思い出さなくていい" なんて言った。なのに、愛している事だけは覚えておいて欲しいなんて訳の分からない事言って...、十分勝手だろ」

「そんなのっ、私の為じゃないっ!」


二人して一頻り泣いて、それが互いに鼻をすする程度に収まった頃、先に口を開いたのはリールだった。


「...ルクス、さっきの言葉が本当なら、俺はもうお前を手放せない。それでもいいのか...?」

「プレーナ...」

「もう二度と、俺から離れられなく——「私が!私が離さないっ!今世こそずっと傍にいるわ...!いさせて欲しいの...」


再び涙が溢れてくるのを耐えながら思っている事をきちんと声に出せば、その声は思いの外震えていた。けれど、目の前の彼の顔を見れば、ちゃんと伝わったようで。


「...る、くす!ルクス...!!

ずっと...苦しかった... ...っ、

思い出して欲しくて、仕方なかった...!」


トヴァの頭を抱えて引き寄せ、もう片方の腕は彼女の腰を抱き寄せ、隙間なんて無いほどに密着し合えば、本当に前世のあの頃に戻ったかのように錯覚してしまう。そのくらい、そのままだったのだ。何も変わっていなかった。リールであるプレーナも、トヴァであるルクスも、またその逆も。





「... ...随分遅くなってしまったわ。戻りましょ?」


あれからお互いに黙りこくり、ただ抱きしめ合っていただけなのだが、辺りはすっかり夜のそれ。中庭を美しく彩る魔灯まとう(魔力を源にした街灯)と、夜空に浮かぶ月だけが、この場を照らす灯りだった。


「...寮なんて、無ければいい」

「何言ってるのよ」

「寮が無ければずっと一緒にいられるだろ」

「お城でも部屋は別れてたじゃない」

「それとこれとは別だ」

「ふふ、何それ」


己の腕の中にいるトヴァの髪をくるくると弄りながら、拗ねたように言うリールに苦笑する。


「明日からは学園でもずっと一緒にいられるわ。だから夜くらい我慢して」

「夢みたいな話だな、...本当に」


今世で見る最高の微笑みで、リールは言った。と同時にまた強く抱き締められて、トヴァが「少し苦しいのだけれど」と僅かに身を捩れば、


「我慢しろ、何年待ったと思ってるんだ」


と、更にきつく抱き締められた。



***



「ジークお兄様!それはどういう事ですの!?」

「言葉通りだ」


翌日、いつもならトヴァをエスコートしに来るジークがそれをしなかった事と、教室での席順が初日に逆戻りした事、リールとトヴァが二人でいるのを放置している事、トヴァと行動を共にしない事、上げたらきりの無い今迄ジークとトヴァの間で普通に行われていた行為がピタリと止まった理由をジークに問い質したルシーは、元から憤怒していたが更に悪化してしまった。


「婚約解消なんて、そんなの馬鹿げてますわ!!お兄様、確かにトヴァ様は未だリール・リベロを想っている節が見受けられます。ですが、そんなものはお兄様がこれからもアプローチし続ける事によってきっと覆せますわ!」

「ルシー、当事者である兄さん達が決めた事だ。確かに至極残念ではあるけれど、口を挟むのは良くない」


寮が違うルシーと違い、昨日のうちに伝えられたアスタロトは彼の性格も相まって既に理解者となっていた。


「流石アスタロトお兄様は私と違って理解力に長けておられますわ。私は一生掛けても "お兄様のように" はなれそうもありません」


皮肉たっぷりに言い放ったルシーにアスタロトが溜息を吐けば、彼女の機嫌は更に急降下し、悪の女王さながらの顔と態度になってしまった。


「別にジークお兄様じゃなくたっていいんですのよ?アスタロトお兄様」


ジークが駄目ならアスタロトがトヴァの婚約者に、と言葉にはしていないがルシーがそう言っているのが分かる。確かにルシーは昔からそこに拘ってはいなかった。トヴァを自分の義姉にできるのならどちらでも構わないと。要するに、トヴァを身内とする為なら手段を選ばないのだ。


「...確かにトヴァと初めて会った際、彼女に惹かれたのは事実だし、当然のように兄さんが彼女を婚約者にしたのを面白くないと思った事もあったが、それは昔の話だ」

「そうだったのか...?」


アスタロトのカミングアウトに驚きを隠せないジークが、頷くアスタロトを見て更に目を見張る。


「今は、彼女を兄さんの婚約者としてしか見ていない」


しかしながら、現在のアスタロトにトヴァへ対する恋愛的感情は無く、それをルシーへと伝えれば、俯いた彼女は両の手を握り締めた。怒りから、その手はわなわなと震えているのが見て取れる。


「そんな戯言はどうでもいいですわッ!!」


ゆらりと黒い炎の様に具現化した魔力がルシーを覆い、切り揃えられた前髪から覗く紫苑色の瞳は憤怒に染まっている。ここまでルシーがキレているのも、睨みつけられるのも初めてのジークとアスタロトは動揺していた。


「私が男性だったなら、こんな愚行は犯しませんでしたわ!!」


そう言って歯をくいしばる彼女を見て、此奴が弟じゃなくて本当に良かったと目を見合わせるジークとアスタロトだったが、ジークが静かな声音で話し出す。


「...俺は、トヴァが笑えない未来なんて認めない」

「ですからそれはっ、——「だから誰が何と言おうが、この決定は変えない」


ジークがあまりにも真っ直ぐと自分を見据えてくるものだから、ルシーはたじろいだ。
いつもそうなのだ。結局、アスタロトもルシーも、こういう瞳をしたジークに勝てない。
ルシーは苦虫を噛み潰したような表情(かお)をして俯き、ジークの決定に対する不満を堪えていた。



***



「ふーん、漸くくっ付いたんだ。おめでと」

「お前反応薄くね?」

「別に?トヴァが誰と番になっても構わないよ。だって、それでもしトヴァが泣かされでもしたら今度こそ潰しちゃえばいいだけの話じゃない?」


そう言ってニコリと笑うナナの笑みは敵意を微塵も隠さない満面の黒い笑みで、リールの屋敷での事を根に持っているのが丸分かり過ぎて、リールは苦笑する。


「...言っとくけど、俺達完璧にお前のこと認めたワケじゃねぇからな」

「別に貴方方に認めて頂かなくとも、当人同士で決めた事なら良い筈では?」

「あ゛?」

「お前、初めっから気に入らなかったんだよね~」


モーントとカエルム&ナナの間にバチバチとぶつかり合って弾ける火花が見えた。ナナに至っては瞳が琥珀色に変わっている為、戦闘準備完了している。そんな三人の仲裁に入るリールとトヴァ。


「モーント!カエルムとナナはトヴァの大切な友人だぞ!それに彼らの言った事は正しいだろう!喧嘩を売るな」

「カエ、目が怖い。セプテムも落ち着いて」


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