19 / 20
恋敵
しおりを挟む「少しいいか」
午前の初授業を終えて直ぐ、トヴァの元までやって来たジークが言った。リールは無表情ではあるが、明らかに不機嫌だ。トヴァが「はい」と返事をすると、リールは目を見開いて彼女を見る。席を立ったと同時にリールに腕を掴まれ、酷く心配している様な瞳で見てくるものだから、トヴァは大丈夫だという意味を込めて穏やかに微笑んで見せた。
「申し訳ないのだけれど、カエとナナに今日だけは昼食を別で取る事を伝えてくれない?」
「...あぁ、分かった。伝えるよ」
「御免なさい。ありがとう、リール」
***
お昼休み。
ジークとトヴァは売店で適当に昼食を買うと、そのまま中庭へと向かう。因みに昼食は強制的にジークの奢りで、自分の分は払うというトヴァの意思を無視し、高級な素材を使用して作られた一番高価なベークドサンドと、希少価値の高い茶葉で作られた紅茶を購入したのだった。
中庭に着くと、端にある木陰の下のガゼボに入り、お互いに腰を下ろす。ジークが食べ物と飲み物を手渡してきたので、トヴァはお礼を言った。それを切り口に、ジークが本題を話し始める。
「最初に謝罪させてくれ。食堂での一件は、本当に悪かった」
そう言って頭を下げるジークに、トヴァはルシーに言った事と同じ言葉を返した。「もう怒ってはいない」と。その言葉を聞いて安堵した表情を見せたのも束の間に、ジークの瞳に熱がこもり始める。
「トヴァ、食堂でも言ったが、俺はお前との婚約を解消などしていない。認めていない。確かにお前の父親からそういった申し入れがあったのは事実だが、俺も俺の父も、俺達の婚約を告げた際あの場にいた使用人達も全員、婚約破棄を認めていない。勿論、正式な書類などを交わした訳じゃないが、正当な婚約には十分足り得ていただろう?」
ジーク様の言い分はよく分かった。それに、これは彼が正しい。私の父が勝手過ぎるし、おかしいのだ。いや、自分の能力の事を考えた選択が出来なかった浅慮な私も悪いのだけれど。でもてっきり婚約は解消されていると思っていたから、ジーク様に対するあの頃抱いたような気持ちは、もう持っていない。
恋愛するならリールがいい、結婚するならリールがいいなんて考えてしまう私は、やはり前世の記憶に毒されているのだろう。
「ジーク様の仰っている事は正しいですが、私は婚約は解消されていると思って生きてきました。ですから、ジーク様の婚約をお受けした時の気持ちは———」
言い終わる前に、何か柔らかい物が唇へ押し当てられた。何が起こったのか理解出来なかったが、全く離れていかない感触に、トヴァは自分が今置かれている状況を理解した。
キスされている———
その事実に気付いた瞬間、強張ったトヴァの体には御構い無しに、そのまま彼女の細い腰はジークによって抱き寄せられる。暫く触れるだけのキスを繰り返していたが、突然ぺろりと舐められた事により、驚きからトヴァは口を僅かに開けてしまった。それが狙いだったとばかりに、ジークの舌がトヴァの口内へと侵入し、蹂躙し始める。ジークの舌を追い出そうと必死に動かすトヴァの舌は上手く絡め取られ、余計に絡まりを深くし、濃厚な口付けになってしまった。
「...ふぅ、んっ」
トヴァの口から漏れた甘い吐息に、ジークの舌の動きはより大胆になっていく。トヴァは羞恥心から顔を真っ赤にして抵抗してはいるが、男の力に敵うわけもなく、抵抗はただジークを煽るものに過ぎない。
漸く唇を離す頃には、トヴァは全身の力が抜けてくたりとしており、ジークはそんな彼女の耳を甘噛みする。
「ぁ、やめ...っ」
耳の裏を舐められ、首筋や鎖骨辺りを甘噛みされ、トヴァは次第に何も考えられなくなっていく。
「...好きだ。好き過ぎて狂いそうになる程に愛してる。会えない間も、お前の事を考えない日はなかった」
耳元で囁かれ、背筋がゾクゾクする。
「お前は俺の婚約者だ。俺は何があろうともお前との婚約を解消しない」
「は...ぁ、」
左手で腰を抱かれ、右手で制服のスカートから覗く白い脚を撫でられると、トヴァの口から意図しない甘ったるい声が漏れた。
「...んぅ」
再び、一頻り貪り尽くすようなキスをされた後、ジークは己の額をトヴァの額へとくっつける。トヴァは涙目で、ジークの目を見つめ返した。
「俺達は卒業後すぐ結婚する。これはもう決まっている。お前の父親も説得した。嫌だと言ってももう遅い。もう二度とトヴァは俺から離れられない、一生な」
「な...んで...」
「...何がだ」
「何...で、そこまで。他にも、御令嬢は沢山います。私より素敵な——「トヴァより優れた令嬢など存在しない。万が一いたとしても、俺が選ぶのはお前だけだ」
「今の私には、もう...無理です...」
目的がある。卒業後すぐに結婚なんて出来ない。そんな事になってしまったら、イゥの心を守れない...っ!白怒の日が失くならなければ、その日が来る度に何度もイゥは思い出してしまう。苦し過ぎて、悲し過ぎて、自分を許せなさ過ぎて、イゥは苦しみ続けるのだ。そうして気付いた。隣にいて励ましているだけでは、慰めているだけでは永久的な解決にはならないと。そういった心の支えも必要だけれど、残念ながら私の体は二つない。ならば誰かに任せてしまえばいい。イゥの事を一番に考えてくれるであろう人物に———
あぁ、エイに任せればいい。きっと彼女ならイゥの心を守ってくれる。レイでもいい。二人いれば、尚更いい。
トヴァの中で、あの日の決意が思い起こされた。
「既成事実って言葉は素晴らしいと思わないか」
トヴァの髪を愛おしげに梳(と)きながら言ったジークの言葉に目を見開く。
眼前にある整い過ぎた容姿を持つその男は、うっとりとした表情(かお)でトヴァを見つめ続けており、たった今聞いた言葉は本当にこの青年から発せられた言葉だろうかと思う程だ。
「...ふ、ぁ...んぅ」
三度目の深いキスに、最早抵抗する力は残っておらず、只々ジークの舌と自分の舌を絡み合わせる事しか出来ないトヴァを、ジークは時々満足そうに見つめ、彼女から漏れる無意識の甘い吐息に浸り、その熱くて蕩けるような口付けを貪り、味わい尽くす。
「...死ぬまでお前とこうしていたいな」
一度唇を離しそう言った後、また再びトヴァの唇へ齧(かぶ)りつき、四度目のキスを再開しようとした時だった。
「ジーク兄さん、そこまでにしておいて下さい」
ガゼボのすぐ目の前に立っていたのはアスタロトで、彼は自分に目を向けたジークの腕に抱かれてぐったりと蕩けきっているトヴァを目にした後、事を悟って溜め息を吐く。
「いくら目立たない場所を選んだとはいえ此処は学園の中庭なんですから、いつ学生がいらっしゃってもおかしくないんですよ?」
「分かっている...」
アスタロトの正論に、今度はジークが溜め息を吐いた。そしてトヴァの髪に口付けた後、名残惜しそうにゆっくりと密着していた体を離す。
「兄さんのお気持ちは分からなくはないですが、これからはもっとお気を付け下さい」
「...ああ、そうだな。トヴァ、すまなかった。お前があんまりにも愛らしく美しいから暴走した。少し休んだら昼食を取って教室へ戻ろう」
たった今迄行われていた行為の所為で全身の力が抜け切ってしまっているトヴァをガゼボ内の腰掛けにそっと座らせ、ジークはその隣に腰を下ろすと、トヴァの肩を引き寄せて自分へ寄りかからせた。ジーク達の前方の腰掛けに座ったアスタロトは、その様子を見て困った兄だと肩を竦める。トヴァは僅かに入った力でジークを押し返すが、そもそも力で敵わない相手に更に力の入らない状態で反抗など出来る訳もなく、結局はされるがままになってしまった。
「ルシーはどうした?」
「今は恐らく食堂だと」
「...エリオットは?」
ジークがフェリス家の長男の名を出した瞬間、僅かにアスタロトが眉を顰めたのを彼は見逃さなかった。
「何だ」
鋭くなったジークの眼光に観念したアスタロトは、何故か申し訳なさそうに、ジークとトヴァが退出した後の教室での会話について話し始める。
———フェリス家との関係は長い。仕事上での関わりに、所謂友人同士としての付き合いを含めれば、アウラ家との関係より長いだろう。その為、フェリス家の長男である双子の兄エリオットと、その双子の妹であるイリスと交流する機会も多かった。しかし、アウラ家よりフェリス家との方が交流が長いにも拘らず、会う回数はフェリス家の双子よりも断然トヴァとの方が多いという事実から、テネブラエ家の三つ子のトヴァへの執着の深さが窺える。
フェリス家は、テネブラエ家とは真逆属性の魔力に愛された一族で、フェリス家の者は皆代々、光属性の高魔力を有して此の世に生を受ける。そして、フェリス家は国で唯一の近親相姦の一族として有名である。つまり、エリオットとイリスは将来的には夫婦になるのだ。そこに恋愛という感情がなくとも、家族愛こそ存在すればいいという考えで、幼き頃から兄を夫とし、妹を妻として生活を共にするその決まりは、"何か" に倣ったものだと聞いた事があるが、その何かは知らない。
「お久しぶりですね。エリオット様、イリス様、お元気そうで何よりです」
「アスタロト、久しぶりだね!敬称も敬語もいらないよ。昔からの仲だし、もうクラスメイトじゃないか」
「そうですか?では以前の様に呼ばせてもらうよ、エリオット」
「懐かしいね。ほらイリス、僕の後ろに隠れていないできちんとご挨拶しないと」
「...お、お久しぶりです...っ!アスタロト様」
「久しぶり。イリスは見ない間にとても美しくなったね」
「い、いえ...!そんな...事は...」
上がり症なのは昔と変わらないが、立派な令嬢に成長したイリスを微笑ましく思っていると、イリスがちらちらとルシーに視線を注いでいる事に気付いた。同い年であり同性であるルシーにも久しぶりに挨拶したいのだろうと察してルシーを呼ぶが、今のルシーには覇気が無い。
ルシーは昔から、家柄も容姿も魔力値も完璧な人間に拘っていた。エリオットもイリスも、そんなルシーが珍しく認めた人物なのに、此方に歩いて来るルシーの足取りは何故か重そうに見える。
「お久しぶりですわね。エリオット様、イリス様」
「久しぶりだね、ルシー!本当に美しくなっていて驚いたよ」
「まぁ、お上手ですわね。イリス様もお元気そうで」
「は、はいっ!ルシー様も!またお会いできて嬉しいです...!」
ルシーと話せた事が本当に嬉しいと言わんばかりのイリスに対し、ルシーの態度や言葉は何だか素っ気ないように感じられる。
「ところでアスタロト、さっきの女性がジークの惚れ込んでいるアウラ家の御令嬢なのかな?」
突然の問いに反応し遅れると、ルシーが先に口を開いた。
「でしたら何ですの?」
「いや、とても強い光属性の魔力を感じたから驚いたんだ。あそこまで高い人物に会った事がないからね。多分僕達よりも上じゃないかなぁ」
魔力を有している者は、同属性の魔力に敏感な傾向にある。特に高魔力保持者の場合、その感度は並大抵ではないので、エリオットの言った事は正しいのだろう。
「トヴァ様が同属性の高魔力保持者だから何ですの?はっきり仰ったら?」
そこで理解した。ルシーがエリオットに対して僅かな敵意を向けている理由を。
そう、ルシーは気付いていたのだ。教室へ入ってからトヴァがジークと教室を退室する迄の間、エリオットの視線が終始トヴァに注がれていた事に。
「単刀直入に言おうかな。実はね、僕とイリスは近親相姦制に反対なんだ。ね、イリス」
「はい...」
二人の考えにアスタロトとルシーは目を見開く。確かに近親相姦なんて普通ならあり得ないが、それを "あり" とし、しかも大々的に世間に認められているのは後にも先にもフェリス家だけだ。そんなフェリス家の基盤のルールである近親相姦に反対の意を唱えるとは...。
「僕もイリスも、結婚は本当に愛した者としたいんだよ」
———あぁ、なるほど。これがルシーの不機嫌な理由か。
「でもさ、やっぱり簡単じゃないんだよね。両親に言ったら、自分達を納得させられるような家柄、光属性の高魔力持ちの相手を連れて来いって言うんだ——」
止めろ。その先は言わないでくれ。
「僕もアウラ家の御令嬢と仲良くしたいな」
刹那、ブワッと黒焰のように激しい闇のオーラがルシーを覆う。切り揃えられた前髪の下から覗く瞳は、まるで親の仇でも見ているかの様で、彼女はエリオットを睨み付けたまま三日月の様に口角を上げて嗤った。
「エリオット様、御言葉ですがトヴァ様が御自分につり合うと思っておいでで?」
その言葉にエリオットは微笑みを深くし、それを肯定と受け取ったルシーの黒焰は更にドス黒いものとなり、眼光は冷たさを増す。
「トヴァ様はジークお兄様の婚約者ですわよ?それを御存知の上での発言ならば、御自分がお兄様より優れていると仰っているのと同義ですわ」
ルシーからは敵対の意思を通り越して殺意すら感じる。エリオットは微塵も怯む様子もなく、微笑みながら自分の胸の前まで軽く手を挙げて降参の姿勢を見せた。
「ジークの婚約者だって言うから、どんな御令嬢なのか見てみたかっただけなのに、君達は昔からちっとも会わせてくれなかったからね。ちょっと冗談を言って困らせてみたくなっただけさ」
「冗談の質が悪過ぎですわ」
「はは、悪かったよ。ああでも、何で君達があんなに頑なに彼女と会わせてくれなかったのか分かったよ」
「エ、エリーお兄様...っ、それ以上は...」
その先の言葉を予想し、流石に不味いと思ったのか、イリスはあわあわと焦り出す。
「魔力属性も値も完璧。容姿も美し過ぎるくらいだ。是非妻に欲しい...あ、ジークの婚約者なんだったね、"欲しかった" にしておこうかな」
「そうですの、それは残念でしたわね。けれどエリオット様ならもっと貴方様に "相応しい" お相手を見つけられると思いますわ」
「あれ程の御令嬢にはこの先絶対に会えないだろうと思うよ」
「でしょうね。トヴァ様より優れた御令嬢なんて、私も会った事が御座いませんもの」
アスタロトは、よくイリスの目の前でそんな事が言えるなぁと内心焦っていた。しかしイリスは何とも思っていないらしい。
「へぇ、ルシーが自分以外の女の子を褒めるなんて珍しいね」
「私に勝る御令嬢がいらっしゃらないのですから仕方ありませんわ。勿論、トヴァ様は例外ですけれど」
黒紫色の扇子で上品に口元を隠しながらニコリと笑うルシーの悪女ぶりったらない。ルシーの言っている事は正しいのだが、その辺にしておいてもらいたいものだ。一応、仕事上の関係もあるので、お互いが跡継ぎである以上は親睦を深めておきたい。この場にジーク兄さんがいなくて良かった。ルシー以上にキレるのが目に見えている。
「そういう所がルシーの魅力でもあるよね。あ、長々と話し込んじゃったな。そろそろ昼食にしようか。アスタロト、ルシー、一緒にどうだい?」
————... ...
アスタロトが一連の流れを話し終えると、ジークが顳顬を押さえて溜め息を吐いた。
「...ルシーはキレただろう」
「ええ。盛大にお断りしたルシーは、そのまま一人で食堂へ向かいました」
「ルシーも問題だが、エリオットも大概だな」
***
そろそろ昼休みが終わる頃、教室へと戻って来たトヴァの様子は明らかに変だった。
食堂へ向かう道すがらに合流したモーント、そしてモーントと同じクラスのカエルム、ナナに、今日はトヴァは昼食を一緒に取れないという旨を伝えたのだが、それを聞くやいなや、食い気味にジークとトヴァが向かったのは何処かと尋ねられ、知らないと言えば思いきり舌打ちをされ、二人は走り去った。結局二人はトヴァに会えたのだろうか。無駄に広い学園内で、しかも学園生活初日の今日、まだ生徒同士の名前も、皆何も覚えていない状態では聞く事も出来ないだろう。
その話をしようと声を掛けたのだが、トヴァは頷くばかりで前半の様な元気さは感じられない。
「トヴァ、大丈夫なのか?何かあった?」
「... ...何も...」
「でも、明らかに午前中と様子が違ってる。絶対何かあったんだろ?あの令息に何かされたのか...?」
俺の言葉に、ほんの一瞬瞳が揺らいだのが分かった。元凶があの男なのは分かった。問題は何をされたかだが、この様子の彼女は絶対に何も話さないのは知っている。やはり彼女はルクスなんだと心底嬉しくなってしまう。こんな状態の彼女を元気にさせる方法を既に理解している自分にも。
「ル... ...、トヴァ、見てて」
トヴァにしか見えないように、隣に座る彼女の手を両手で掬い取って、俺の両掌に彼女の片手の甲を乗せる。トヴァは目をぱちくりとさせて俺を見た後、俺の掌の上の自分の掌を見つめた。
「...!これ!」
「どう?綺麗じゃない?」
掌の上で銀色に光る妖精の少年と少女のような二つの物体が、くるくるとダンスを始めたのだ。前世でよく、舞踏会でプレーナと踊っていたのを思い出す。まじまじと見つめていると、仲良く二人で踊っていた妖精が何やら喧嘩を始めた。
...なんか懐かしい———
"おい、今態と足踏んだだろ!"
"あら、そんな事ないわよ。ちょっと目眩がしちゃっただけ、ごめんなさいね"
"俺がお前のお菓子食べたの、まだ怒ってるんだろ!悪かったって。後でお詫びにもっと美味いもの買って来るからさ"
———そう。前世での、幼い頃の私とプレーナの喧嘩にあまりにもそっくりだった。
「ふふっ」
「気に入ったか?」
取り敢えずトヴァの笑顔を取り戻す事に成功したリールが優しげに微笑む。
「ええ!キラキラしていてとても綺麗だし、妖精のようで可愛らしいわ!それに足を踏んで喧嘩なんてところも可愛いし」
———今、何て言った... ...?
実は妖精の様に動かしている光の粒で構成されたソレは、俺の記憶を投影していた。これは前世で、俺に自分の菓子を食われた事を根に持ったルクスが、社交界でのダンス中に態と足を踏んできた時の記憶だ。当時はそれなりにムカついていた様な気がするが、今となっては浸っていたい程に良い思い出で。
でも、足を踏まれたから喧嘩なんて見て分かる程の動きはなかったし、くるくると回る二人にドレスの裾も泳いでいる為、余計に分からない筈だ。そこから導き出された答えに、内心、首を横に振る。
そんな、まさか。
だって彼女は覚えていない筈だ。そして、こういう時も無駄に知恵の働く俺の頭はこう告げる。
カマをかけてみろと。
「...本当だな。態と踏んだみたいだ」
「きっと相手の男の子が悪い事をしたんでしょ」
何故だ?何故、足を踏まれたのが男の方だという言い方をする?
くすくすと笑うトヴァは自分の発言に気付いていないようで、喧嘩する光を慈愛のこもった瞳で見つめている。そこには哀愁も漂っている様に感じた。
そして俺は、最大のカマかけに出る。
「そうだな。恐らく、彼が勝手に彼女の菓子を食べてしまったんだろう」
俺のその言葉に、トヴァは大きく目を見開き、明らかな反応を見せた。
「なぁ、何で足が踏まれたから喧嘩が始まったなんて思ったんだ?踏まれたようになんて見えなかった筈だ。踊っていた際、足下はドレスの動きで隠れていたしな」
トヴァは何も言わない。
「ルクス、なのか——?思い出したのか?...いや、思い出したんじゃないのなら、先程の発言や今の反応は不可思議過ぎる。
... ...なぁ、ルクスなんだろ?」
***
頭が働かないとはこの事だと思った。明らかにやらかしてしまった。先程ジークとの間に起こった事が原因で未だに動揺していたからかもしれない。だって、少し考えれば自分の発言が如何に馬鹿だったか分かるのだ。
「ええ!キラキラしていてとても綺麗だし、妖精のようで可愛らしいわ!
——"それに足を踏んで喧嘩なんてところも可愛いし"」
リールの言った事が的確過ぎて訂正のしようもない。「足を踏んで喧嘩...」という発言は、「ダンス中に喧嘩なんて何方かが相手の足を踏んだとしか思えないからそう思った」と訂正する事も可能だったが、次のリールの発言に対する私の反応で、もはやそれも通じないだろう。
というか、リールは明らかに私にカマをかけた。
真剣な瞳で見つめてくるリールに、「学校が終わったら話そう」と提案し、取り敢えず今この場だけは凌ぐ事が出来た。そして私は午後の授業を受けつつ、ある決意をする。"今の私の考えをきちんと伝える" という決意を。
***
「トヴァ様、寮までご一緒しませんか!?」
授業後直ぐにすっ飛んで来たような早さでやって来たルシーに誘われる。その後からジークとアスタロトもやって来た。
「いえ、カエルムとナナもいますし。それにこの後少し用事が——「悪いが、トヴァは俺と少し話があるんだ」
リールが助け舟を出す様に、トヴァの言葉に被せて言った。すると、やはりルシーは面白くなさそうな表情をする。
そんなルシーを退けて前へ出て来たジーク。
「おい、先日の食堂での一件、謝罪が遅くなってすまない。改めて自己紹介しよう。俺はジーク・テネブラエ、トヴァ・アウラの婚約者だ」
そう言って細められた目が笑っていないのは気のせいではないだろう。心なしか「婚約者」という部分だけ強めに言ったように聞こえた。彼の冷ややかな笑みは他の学生が見たら恐怖で失神しそうだ。
「いや、此方もすまなかった。リール・リベロだ」
リールも社交的な笑みを浮かべているが、ジークに負けないくらいにその視線は冷たい。けれど、リールは特別喧嘩腰な言葉は口にせず、ギリギリ乗り切れるかなーとトヴァが思った時だった。
「大変だろうな。"互いの心が伴わない婚約" は。まぁ親同士が勝手に決めてしまう事はよくある事だし、仕方ないとは思うが」
一気に空気が冷えた。
爆弾を投下したリールがより一層笑みを深くすると、もう我慢出来ないといったように、ルシーがジークの横から罵声を浴びせようとしたのだが———
「トヴァー!迎えに来たよーっ」
セプテムが出入り口でトヴァを呼んだ事により、その先は言葉になる事はなかった。
助かったとばかりに、トヴァはリールの手を掴み、「ではまた明日」と頭を下げて足早にセプテムの方へと向かう。振り返って三つ子の様子を窺う心の余裕はなかった。
教室から出ると、セプテムだけでカエルムはいない。
「あれ、カエは?」
「ん~?あぁ、カエルムは——」
「アオー!何処行くのよっ」
「だぁぁあ!うっせぇ!付いてくんな!」
走らないギリギリの速度で此方へ向かって来るカエルムと、カエルムを追うように後か付いて来る女生徒。
カエルムがトヴァ達に気付いて立ち止まると、追って来た女生徒は背後からカエルムに抱き着いた後、するりと片腕に絡みついた。
「つーかまーえたっ♪」
「オイッ!いい加減にしろ、サクラ!」
波打つ桃色の長い髪をポニーテールに束ね、カエルムと同色の、ほんの少し吊り上がった愛らしい猫目な銀色の瞳を持った女生徒。
「ご覧の通り、今日一日ずーっとカエルムはサクラさんに付き纏われてたから、こっちに来る時も先に来ちゃったってわけ~」
セプテムは面白そうにケラケラと笑いながら、腕に纏わり付くサクラを懸命に引き剥がそうとしているカエルムを眺めている。
「さっきなんて隙を突かれてキスされててさぁ、舌まで入れられ「セプテム!!余計な事言ってんじゃねえ!」
その言葉に一瞬ビクついてしまう。昼休みにジークにされた事を思い出してしまったからだ。トヴァは平然を装う為、取り敢えず目の前の二人は置いておき、今日は先に寮へ戻っていて欲しいと告げる。
「え~、またぁ?お昼も一緒に食べられなかったのに~」
寮は男女で別棟の為、昼食以外は共に出来ない。渋るセプテムに、明日からは絶対と約束すれば、ちらりとリールを見遣った後、膨らました頰はそのままに小さく頷いてくれた。また気を遣わせてしまったらしい。
「じゃあ、また明日!リール、行こう」
「ああ」
歩き去って行く二人をつまらなそうに見送るセプテムと、サクラの所為でいつの間にか話しが進んでいた事に気付かなかったカエルムが「あっ、おいトヴァ!」と呼び掛けるが、サクラから目を離した瞬間に頰に吸い付かれ、また彼女に視線を戻す。
一方サクラは楽しそうにカエルムと言い合う目の端で、小さくなって行くトヴァを睨み付けており、その瞳には憎悪が滲んでいた。
***
トヴァとリールが去った後、セプテムはカエルムを置いて直ぐに寮へ戻ってしまった為、カエルムはサクラと二人きりになってしまった。
「ねえねえっ、寮に戻る前に中庭に寄って行きましょうよ!私、薔薇園が見てみたいわ」
「はぁ?一人で行けよ」
「...アオがあの森を出て行った所為で、私は父さんに、会った事も話した事もなかったブタみたいな魔獣とアオの代わりに一緒にさせられそうになったのに——「あああ分かったよ!行きゃいいんだろ!」
サクラはカエルムと同郷で、二人は故郷である森で幼い頃から共に過ごした幼馴染みのような間柄である。その森で、サクラの父親は同種族の魔獣の群を束ねるリーダーのような存在だった。明確にリーダーという訳ではないが、多くの魔獣に頼られていた為、必然的にそんな様な立場になっていた。
けれど、カエルムは連む事があまり好きではなかった為、なるべく魔獣のいない森の外の近辺で生活しており、その為、偶々トヴァに会ったのだ。
薔薇園に着くと、サクラは木陰の下に座って背伸びをした。その隣に座れと促され、渋々隣に座る。
「確かに、あれは傑作だったな!お前、木登り下手くそ過ぎだった」
「あ、あれはアオがどんどん上の方に登って行くから追い付けなかっただけでしょ!」
そのまま暫く昔話に花を咲かせ、笑い合った後、不意に静かになった。こうやって二人で巫山戯合うのは懐かしいなぁと、カエルムが思っていると、何故か突然芝生へ押し倒される。勿論カエルムを押し倒したのはサクラで、見下ろす彼女の瞳が寂しそうに揺らいでいた為、カエルムは純粋に心配した。
「どうし———」
「どうした?」という言葉はサクラに飲み込まれる。不本意ながら本日二回目のキスだ。サクラはカエルムの唇を割って入り、吸い付くように舌を絡める。彼女の両手はカエルムの頰を優しく包み込んでおり、キスを堪能しているように時折、彼の頰を撫でていた。
「...サ、クラ... ...やめ... ... ...、ふ、ぅ」
カエルムの口から意図しない甘い吐息が漏れる度に、サクラは腰を畝らせた。
「アオ、好き。子供の頃からずっと好きよ。愛してる」
熱のこもった瞳で頰を赤らめながらそう言った後、再び深い口付けを再開する。体勢的に、どうやってサクラを引き剥がそうかと考えている間に、酸素が足りなくなっていき、ぼぅっとしてキスに集中してしまいそうになる頭を何とかフル回転させたが、もう面倒臭くなってしまい、無理矢理押し退けようとしたその時だった。
「んぁ...っ」
服のしたに侵入してきたサクラの手が、直に肌に触れて、如何にも厭らしい手付きで肌を伝った事により、甘い声が漏れてしまい、羞恥から顔を真っ赤にすると、「可愛い、アオ」と、サクラはカエルムの耳朶を噛んだ。
「お、前、いい加減に、しろ...!」
カエルムはサクラを思い切り押し退けると、乱暴に立ち上がった。
「急に森を出て行った事は謝る。悪かった、迷惑を掛けた。けど、俺は同じ気持ちを、お前に対して持った事は一度も無い。それはこれからもだ」
「... ...やっぱり、あの人間が好きなの?」
サクラのその言葉に、俺は直ぐに返事が出来なかった。あの人間とは、トヴァの事を指すのだろう。トヴァの事が好きかと聞かれれば、勿論好きだ。ただ、それが恋愛対象として好きかと聞かれると即答できない自分がいる。ナナがトヴァのことを容姿端麗頭脳明晰だと言っていたが、本当にその通りだとも思う。身内贔屓かもしれないが、良い所しかないと思う。ジークとかいうトヴァの自称婚約者とリールが取り合っているのにも頷ける。それでも即答出来ないのは———
"...普通の青じゃなくて、綺麗な碧、高い空。
今日みたいな"
ふと、頭を過ぎったのは今みたいに明るく笑ったりしない頃のトヴァの言葉。初めて話したあの日、決まった名なんて持たない俺に、トヴァは今の名前をくれた。
"えっと...じゃあ、一緒に行ってくれる?"
この学園の存在を、俺でも入学可能な事を、他にも様々な事を教えてくれた。あの森での生活が世界の全てだった俺を、外の世界へ連れ出してくれた。
"...カエ、カエは私の光だよ。ずっと傍にいてくれて、ずっと私の味方でいてくれて…
大好きだよカエ、本当に大好き"
「...っ」
ドクン と、その言葉を思い出した瞬間、嫌に心臓が高く跳ねた。ばくんばくんと煩い心臓を抑えようと左胸辺りを握り締める。思い出してしまった言葉を早く流そうとすればする程に、胸が刺すように痛むのを感じた。
そこで、俺はふと思う。
何故トヴァの言葉を流そうとする?良い思い出じゃないか。何故、胸が痛む?何故———
「ア、アオ!?」
心臓辺りで握った拳に更に力が込められる。無意識だった。苦しくて苦しくて、視界が霞んだと思ったら、ポタポタと何かが地面へ落ちていく。
...そうだ。気付きたくなかった。気付いてしまえば、余計に苦しくなるから。気付きたくなかったんだ。
俺では、彼奴等(あいつら)に勝てない事に...。
どんなに好きでも大切でも、彼奴等の繋がりの強さには勝てない気がした。特にリールとトヴァの繋がりだ。トヴァの記憶返還の際に、トヴァの前世を知ってしまった事も原因だろう。リールとトヴァの間には、誰にも揺るがす事の出来ない絆があって、リールの様子を見るに、今世でもトヴァが好きで、トヴァは今はそうでなくとも、いつか必ずリールを選ぶだろうという考えは拭えなくて。だから俺は、考える事を、想う事を止めた。無意識のうちにストッパーを掛けていた事に今気付いた。
———俺は好きだったんだ。
もう来ないと言われたあの日から、そんなのは嫌だと後を追ったあの時から、初めて会った時からずっと... ....、
「...ああ。俺はトヴァが好きだ」
自覚してしまえば、認めてしまえば、それは俺の中にストンと落ち着いた。
今思えば、トヴァがイゥとかいう幼馴染みを一番大切にしていると知った時も、レイとかいう餓鬼がトヴァの気を引いていると思った時も、トヴァが一緒に行かないかとナナを誘った時も、リールの屋敷でトヴァが奴に笑いかけた時も、ジークって奴がトヴァの婚約者だと知った時も、いつも靄々(もやもや)していたし、ずっと何か気持ち悪かったし、何より痛かった。
「そう...、それがアオの答えなのね」
スッと距離を取ったサクラは酷く悲しげな表情をしているが、もう気にならない。俺は彼女の気持ちに応えてやれないし、薄情者と思われるかもしれないが、自覚してしまった今、トヴァ以外どうでもいいと思ってしまう。今こうしている間にも、早くトヴァの元へ走って行きたいと思っている。
「あの森でずっと一緒に居られると思ってたの。学園に入学するって聞いた時も、先ず魔人にもなれないのに無理でしょって。でもアオは本当に魔人になれるようになって、あの人間と出てっちゃって、だから私も必死で魔人になれるように頑張って、魔人なれるようになってからは近くの町で働いて、仕事終わりと休みの日は夜遅くまで勉強して...。全部、全部、もう一度アオに会いたかったから、一緒に居たかったから頑張れたのよ...っ、それでも駄目なの?私を選んではくれないの...?」
「選ぶ選ばないの問題じゃねえよ。俺はトヴァがいいんだ。トヴァ以外はそういう対象として見られない。トヴァ以外はどうでもいい」
「他の男と居たじゃない」
「あれには理由がある。それにもし、トヴァが俺に対してそういう気持ちを持ってくれなかったとしても、俺は彼奴を好きでいる事は止めない。...もう、決めた」
「... ...分かったわ。諦めてあげられるように努力する。でもこの意志は貴方と話したら直ぐに揺らいじゃうわ。だから暫く貴方とは話さない。だから貴方も私に話し掛けないで」
「ああ、ありがとう。...それに、今迄もありがとう、サクラ」
「... ...こんな良い雌(おんな)振るなんてバカね...っ」
カエルムは、駆けて行くサクラとは反対方向へ駆け出す。リールと二人きりであろうトヴァを捜す為に。
***
「ここら辺でいいんじゃないか?」
現在、リールとトヴァは中庭にいた。中庭といっても薔薇園や果実園、花畑や池などがある場所とは真逆に位置する場所に二人はいる。
「話してくれ、トヴァ。お前はルクスなんだろう?」
苦しげに、でも切実な期待の込められたその瞳から逸らす事なんて出来ない。射貫くような真っ直ぐな視線を、同じ様に真っ直ぐと見つめ返し、トヴァは口を開いた。
「久しぶりね、プレーナ」
「...ッ!ルクス!!」
強く引き寄せられ、抱き締められる。肩越しに彼が声を押し殺して泣いているのが分かった。私があやすようにリールの背中を暫く優しく摩っていると、私の首元に顔を埋めていたリールがゆっくりと顔を上げた。その瞳は未だに潤んでいて、まるで本物の深海を見ているかのよう。
「泣かなくたっていいじゃない」
「煩いっ、...今迄、俺がどれだけ...っ」
言って、トヴァの存在を確かめるように、額や頬、瞼や鼻先にキスの雨を降らすリールに、トヴァは今から言おうとしている言葉を飲み込んでしまいそうになる。しかし、これから伝える事は、過去ではなく今を生きる自分達にとって絶対に必要な事だと、トヴァは自分を奮い立たせた。
キスの位置が唇に到達する寸前、トヴァが待ったを掛けた事により、リールの顔は悲しげに歪む。
「キスさせろ」
「話があるん——「キスが先だ」
手を退けられ、その手はそのまま握られ、リールはトヴァに口付け、暫く啄ばむようなキスを繰り返した後、彼女の唇を解放した。話を聞く為だ。
「で、何だ?」
「...り、る、私達は今、今を生きてるでしょ?」
キスの所為で乱れてしまった呼吸を整えながら話す。
「そうだな」
「私もリールも、過去に縛られて生きる必要はないと思う。過去は過去で今は今だから」
「... ...つまり...?」
「プレーナはリールとして、私はルクスでなくトヴァとして、ちゃんと今を生きようよ」
リールが大きく目を見開いた。驚きを隠せないといった風で。そしてこの反応を見たトヴァは思う。やはりリールが前世に囚われているという自分の考えは間違いではなかったのだと。彼から、驚きの下に悲壮感をも感じた気がしたから。
暫く無言の間が続いたが、リールからの返事を待っていると、彼はゆっくりと口を開いた。
「...そう、だな。お前が正しい。でも互いが記憶を持っているなんて何かの縁だ。同じクラスだし、これからは一友人(いちゆうじん)として宜しくな」
そう言って、暖かい笑顔を見せた。少し寂しそうな気もするが、彼は彼なりに考えて理解してくれたのだろう。
「ええ、勿論!これからも宜しくね、リール」
「ああ、此方こそ」
和解のような握手を交わし、また明日とお互い自寮へ戻る為に別れた。寮は学園を挟むように左右に位置しており、男女で分かれているからだ。
明日きちんとカエルムとナナに報告しようと考えながら寮へと歩を進めるトヴァの足取りは軽かった。
「...はは、」
乾いた笑いが夕焼け空に溶ける。
「"一友人として" か... ...。とんだ茶番だな...」
昔も、俺は見ているだけだった。愛するお前が他の男と仲良くしているのを。お前は残酷にも、俺を "友人" だと言った。苦しくて苦しくて、悔しくて憎くて、それでも愛していたから耐えられた。...いや、その時の為に耐え抜いた。
「———... ...は...?俺は今何を...」
考えていた?何を思った?
「...疲れているのかもしれないな、」
寮へと歩を進めるリールの足取りは重く、悲しみに沈んでいた。
***
翌日から、トヴァに対するジークからの猛アタックが始まった。
寮は、連絡橋の様な渡り廊下で校舎と繋がっており、南の連絡橋は男子寮へ、北の連絡橋は女子寮へと連結している。校舎へ出入りする為の校舎側連絡橋出入り口までが、異性の学生が訪れても良い境界となっているが、出入り口への異性の侵入は校則で厳しく制限されている。
毎朝、ジークは女子寮への連絡橋の出入り口、令嬢達の通行の邪魔にならないよう端の方でトヴァの登校を待っているのだ。そしてトヴァが来ると空かさず手を取って教室までエスコートし、席は必ずトヴァの隣に座る為、初日のようにリールの隣の席には座れなくなってしまった。そんなジークとトヴァを囲むようにして、アスタロトやルシー、エリオットやイリスまでもが隣の席や前後の席に座るように。トヴァの左右にはジークとルシー、前にはアスタロト、後ろとその隣にはエリオットとイリスが座っている。昼食はカエルムとナナがいるので譲歩してくれるが、土日休みを除き平日登校五日間中の二回はジークと昼食を共に取る事になってしまっていた。アスタロトとルシーは別で取るらしい。二人にとって、自分達がトヴァと過ごす時間と同じくらい、ジークとトヴァが二人きりで過ごす時間も重要なものらしい。帰りも寮への出入り口までエスコートするし、土日も一緒に過ごさないかと誘われる。全学園生には既にジークとトヴァが婚約している事を知られている為、公認の未来夫妻になってしまっている。実はその裏でアスタロトとルシーが暗躍していた事を知るのはジークだけだが。
宵闇を思わせる漆黒の髪と、太陽を思わせるキャラメル色の髪。闇の象徴の様な深い紫苑色の瞳と、光の象徴の様な金色の瞳。美形だという共通点以外対極にある二人だが、それが更に皆の目を惹き付け、憧れの存在となっていた。お似合いの婚約者同士として。
そんな日々の中、トヴァは常にリールの事を気に掛けていた。トヴァの席が窓側列から中央列に変わった今も、リールは変わらず窓側列の最後方(さいこうほう)、窓際の席に座って外を眺めている。時々、頬杖をついたリールと目が合うと、口パクで「大変だな」と言って微笑む。そうしてまた、いつもの様に窓から見える景色へと視線を移すのだ。深海の様な深い青色の瞳は、光を受けると海面のように鮮やかな青を放つ。それはとても美しく、前世でトヴァ達が見ていた海を思い起こさせるのだ。だからトヴァは、外を眺めるリールの横顔を眺めるのが好きだった。遠くからでも、隣からでなくとも、ふとした瞬間に視線を彼へと移した際に見れる横顔、その瞳が本当に好きなのだ。
教室までの道のりも、教室に入ってからも、午前の授業中も、午前授業が終わっても、お昼休みも、午後の授業中も、午後の授業が終わっても、寮へ帰る際も、常にジークが傍にいる。隣にいる時は常に手を握るか、腰を抱くかの何方かで、ジークは絶対にトヴァから離れないし、彼女が自分から離れる事を許さない。それでもトヴァの目がリールを追ってしまう事を、ジークは気付いていた。ジークにとって、リールはこの上なく邪魔な存在となっていった。
「リール・リベロ、お前はトヴァの何だ」
ある放課後、トヴァをルシー達に任せた後、リールと自分以外いなくなった教室で問う。リールは視線をゆっくりと窓の外からジークへ移すと、再び外へ視線を戻してから口を開いた。
「...何でもない。ただの一友人だ」
「本当の事を言え」
ジークの声音に苛立ちが混じるが、リールは平然としている。
「...言えば、返すのか?」
「... ...あ?」
瞬間、刺す様な冷たい視線がジークへと向けられた。
「真実を言えば、貴様は彼女を俺に返すのかと聞いている」
まるで元は自分の女だったとでも言うかのような言葉と態度に、ジークは自分の中でリールに対する殺意が込み上げてくるのを感じた。
「トヴァは昔から "俺の" 婚約者だ。妄言を抜かすな」
「"昔から" か」
リールは吐き捨てるように嗤う。
「それはいつからだ?数百年前か?数千年前か?」
「何を...」
リールは頬杖をつき、再び外を見た。あんまりにも外を眺め続けるリールの視線の先を追い、ジークも視線を外へと移す。中庭の先には、夕焼けに染まる赤い海が見えるだけ。いつもと変わらぬ景色。
「...彼奴が笑って、楽しいと歌う」
"プレーナ!"
「俺が耳を塞ぎたくなるような暴言も、彼奴が歌って掻き消してくれた...」
"歌姫の歌声をいつもタダで聴けるのは、プレーナだけよ?"
「本当は... ...、彼奴と一緒に居られるなら、世界なんてどうでも...よかったんだろうな」
ジークには、リールが何を言っているのか理解出来なかった。ただ海を眺めながら淡々と話すその姿からは哀愁が漂っていて、ジークは暫く口を閉ざしたまま、リールと同じ様に海を眺めた。
「...トヴァ!」
教室の出入り口から物音がした為、其方へと視線を向ければ、そこに立っていたのはトヴァで、何故戻って来たのかは分からないが突然の愛しい婚約者の登場に、ジークは心が落ち着くのを感じる。ジークがトヴァの元へ行こうと足を踏み出した時だった。
「ルスク、ダンスのレッスンはもう終わったのか?」
嬉々とした瞳でトヴァを見て話すリールに、俺は驚愕し、固まる。まるで別人だった。確かに、俺に対する態度とトヴァに対する態度は違うが、こんな風ではなかった。それに、此奴(こいつ)は今、何て言った...?
トヴァのことを、"ルクス" と呼ばなかったか?
ダンスのレッスン?そんな授業も部活もない。
トヴァへ視線を移せば、やはり彼女も驚いているように見える。
「何、言ってるの...?」
「は?いつものレッスンだよ、レッスン。他に何があるんだ?」
「い、いやだから、...そんな授業も部活もないじゃない」
「じゅぎょう?ぶかつ?お前何言ってんだよ」
話が噛み合っていない。お互いにお互いのことを怪訝に思っているのが見て取れる。
「そうだ、明日海に行くか?最近雨ばっかだからしょげてたろお前」
「最近雨なんて降ってないでしょ、リール」
「は? "りーる" ?何言ってんの?」
「何って...、リールは貴方でしょ...?」
トヴァの言葉に、リールは目を見開く。まるで信じられない何かを目撃したかの様に。彼は暫くそのまま固まっていたが、やがてぽつりと呟いた。
「... ...あぁ...、そう...だな。俺は...リールだ...」
今迄見開かれていたその目は伏せられ、陰りを見せるが、表情とは対照的に彼のプラチナブロンドの髪は夕陽を浴びて仄かに赤白く輝いている。
「悪かった。少し...具合が良くないみたいだ」
言って、教室の出口へ向かって歩いていくリールの背を見つめるしか出来ない。"ルクスとして" 応えてあげる事は出来ないから。掛ける言葉も無いまま、教室から出て行ってしまったリールのことを考えていると、ジークがトヴァを呼ぶ。
「トヴァ...、大丈夫か?」
「え、何がですか」
「何がって...」
ジークが、トヴァの頰に伝ったそれを指で優しく掬い取る。
「... ...あ、れ...?な...んで...」
トヴァは自分が泣いている事に気付かなかっただけでなく、何故自分が泣いているのか直ぐに理解出来なかった。
"兄上は俺によく仰ってくれた。"お前が笑うと、俺も嬉しくなる" と。
...あいつもそうなんじゃないのか"
"…してる、ずっと!ずっとルクスだけを愛してる…!"
"もし、あんたが死んだって、ずっと愛すよ。生まれ変わったルクスだって何だって、永遠に…"
"ずっと俺と一緒に、二人でそんな国を目指して実現させればいい話だ!そうだろ?ルクス!!… …だから、頼むから…そんな事言わないでくれ…っ"
"ルクス!ルクス!俺を置いて逝くなっ!"
"" 頼む…からっ、俺を一人にしないでくれ…っ "
脳内に再生されるプレーナの言葉、胸を締め付けるその声音に、トヴァは涙を止める事が出来ず、ついにその場に蹲ってしまった。
「おい、大丈夫か!?」
心配し、焦ったジークはトヴァの前へしゃがみ込み、両手で彼女の頰を優しく挟んで、ゆっくりと顔を上げさせる。
「何が悲しい?何が苦しいんだ?お前の為なら何だってしてやりたいが、分からなければ何もしてやれない」
ジークの真剣な瞳に切なさが滲む。本当に本当に、トヴァの事を心配している。想っている。今この時だけに限らず、嫌という程に伝わってくるから、時々呑まれてしまいそうになるのだ。けれどそんな時も、いつだって彼(リール)の顔が浮かぶ。笑った顔も、怒った顔も、悲しげな顔も、思えばどんな表情も全て自分に向けられていた。
過去は過去、今は今。せっかくまた生を受けたのだから、前世に囚われず今を生きようと、確かにそう決めた。今だってその考えが間違っているとは思えないが、リールに関しては当て嵌まらない気がした。...いや、どうしても当て嵌められない自分がいる事に気付いてしまった。きっと、本当はとっくに気付いていたのだ。けれど認めたくなかった。
プレーナとこんなに仲良くならなければ、私の死なんかで彼を悲しませる事はなかった。
...それよりも、そもそも出会わなければ、彼は... ...
その思いがずっとあった。そうだ、私はずっと———
「...怖かったんだわ... ...」
あんなに愛しい人を、私を愛してくれた人を、本当は人一倍寂しがり屋な彼を、もう苦しめたくはなかった。今世でまで苦しめたくはなかった。再び彼を愛してしまったら、また彼は、いつか同じように苦しむ羽目になってしまうかもしれない。
だから応えられなかった。今世でも、こんなにも自分を愛してくれている彼に。
私が意気地無しだったから——
「トヴァ?」
トヴァが立ち上がろうとしているのに気付いたジークは、彼女が立ち易いようにと両腕を優しく支えてやりながら共に立ち上がった。
俯いていたトヴァが彼へ視線を向け、彼女の瞳を見つめ返すジークは僅かに息を飲む。その瞳は、何かを決意した様な至極真っ直ぐなものだったからだ。彼の頭に危険信号が鳴り響く。聞きたくない、聞いてはいけないと。
「ジーク様、やはり私は貴方と婚約出来ません」
トヴァの言葉に頭が真っ白になる一方で、心は絶望の色に染まっていく。
...止めろ、それ以上言うな。
「ジーク様は確かに、私の初恋だったと思います。ジーク様のおかげで、アスタロト様やルシー様とも仲良くなる事が出来て、四人で過ごしたあの時間は、当時の私にとってこの上ない最上の時でした」
何故だ?何故もう終わりだとでも言うような表情(かお)をして話す?
「感謝致しております。心から。...けれど、感謝の意を婚約という形で示す事は出来ません。それは大変不敬な事であり、不誠実です」
不敬であり、不誠実だと?
俺は、お前がずっと俺の傍にいてくれるならば、それでいい。例えそれが昔の様な想いが伴っていないとしても、一生を掛けて、俺はトヴァに想いを伝えていくつもりだ。再び愛してもらえるように。
「そして何より、今の私は、リール・リベロを愛しております」
世界が壊れる音が聞こえる。
何故だ?何故だ何故だ何故だ何故だ?どうしたらいい?どうしたら彼女の心を手に入れられる?どんなに贈り物をしても、愛の言葉を囁いても効果は無い、常に彼女と共に居ても、己の婚約者だと周囲の者に分からせても、彼女は俺を見ない。
どうすればいい?どうすれば...。何故だ。何故、彼奴(リール・リベロ)なんだ。何処が良い?俺より何処が優っている?学力だけだろう?だがそんなもの、すぐに追い抜ける。他には何だ?
俺の... ...何がいけない...?
「...俺は、お前との婚約を解消などしない」
「ジークさ——「諄(くど)い!!!」
ジークが怒鳴る事なんて滅多にない。ビクッと肩を跳ね上げたトヴァは驚愕からか、恐怖からか固まる。ジークは、そんなトヴァの腰に腕を回していつもの様に引き寄せ、口付けようとした。しかし、トヴァはギリギリのところで両指をジークの唇と自身の唇の間に割り込ませ、ガードした。ジークの眉は顰められ、濃い紫苑色の瞳は不満一色に染め上げられる。
「っ!?」
けれど、ジークはそんな彼女の指を舐め始めたのだ。態と厭らしい音を立てて舐めたり吸ったりする行為に耐えられず、遂に手を退けてしまったその瞬間を待ってましたとばかりに、ジークは空かさずトヴァの唇を割って入り、逃げ回る小さな可愛らしい舌を絡み取る。
そして、いつのまにか机の上へ押し倒される頃には、息も絶え絶えで、キスをされながら弄られた身体は言うことを聞かない程に蕩けきっていた。そんな彼女を満足気に見下ろした後、ジークはふと視線を教室出入り口へと向ける。ジークの口から放たれた辛うじて聞き取れたそれは詠唱で、彼が魔法を使ったのは明らかだった。
「最中に邪魔が入ったら、うっかり殺してしまうかもしれないからな」
「... ...何を...、ぁっ...」
太腿を撫で上げられ、無意識に声が漏れる。
「前に言っただろう。"既成事実って言葉は素晴らしいと思わないか" と」
その言葉を聞いた途端、今からジークが自身に何をしようとしているのかを察し、目の前が真っ暗になる。
「待っ...!止めてくだ——「待たないし、止めるつもりはない。先にお前の心を取り戻したかったが、それはもう後でもいい。俺の子を孕んでくれ、トヴァ」
「そんな...ぁ、ジークさっ、...は、ぁ...」
「お前の声は甘いな、かなり強い毒だ。それに善がる姿は何よりも美しい。...狂おしい程に愛している」
トヴァの言葉も抵抗もジークには一切届かず、今日この日、この瞬間、トヴァは初めてリール以外の男に抱かれた———
0
あなたにおすすめの小説
異世界の花嫁?お断りします。
momo6
恋愛
三十路を過ぎたOL 椿(つばき)は帰宅後、地震に見舞われる。気付いたら異世界にいた。
そこで出逢った王子に求婚を申し込まれましたけど、
知らない人と結婚なんてお断りです。
貞操の危機を感じ、逃げ出した先に居たのは妖精王ですって?
甘ったるい愛を囁いてもダメです。
異世界に来たなら、この世界を楽しむのが先です!!
恋愛よりも衣食住。これが大事です!
お金が無くては生活出来ません!働いて稼いで、美味しい物を食べるんです(๑>◡<๑)
・・・えっ?全部ある?
働かなくてもいい?
ーーー惑わされません!甘い誘惑には罠が付き物です!
*****
目に止めていただき、ありがとうございます(〃ω〃)
未熟な所もありますが 楽しんで頂けたから幸いです。
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
「ご褒美ください」とわんこ系義弟が離れない
橋本彩里(Ayari)
恋愛
六歳の時に伯爵家の養子として引き取られたイーサンは、年頃になっても一つ上の義理の姉のミラが大好きだとじゃれてくる。
そんななか、投資に失敗した父の借金の代わりにとミラに見合いの話が浮上し、義姉が大好きなわんこ系義弟が「ご褒美ください」と迫ってきて……。
1~2万文字の短編予定→中編に変更します。
いつもながらの溺愛執着ものです。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
愛する夫が目の前で別の女性と恋に落ちました。
ましゅぺちーの
恋愛
伯爵令嬢のアンジェは公爵家の嫡男であるアランに嫁いだ。
子はなかなかできなかったが、それでも仲の良い夫婦だった。
――彼女が現れるまでは。
二人が結婚して五年を迎えた記念パーティーでアランは若く美しい令嬢と恋に落ちてしまう。
それからアランは変わり、何かと彼女のことを優先するようになり……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる