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1. prologue
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まもなく、時計の針が正午を指そうとしている。
穏やかな日差しと柔らかな空気が、この住宅街一帯を包み込んでいる。
茶褐色のレンガで統一された建物が並ぶ住宅街。統一された風景の街並み。
この街は、この国でも随一を争うと言ってもいいビジネス街からさほど遠くない場所にあり、その都市のベッドタウンとも言われている場所。
ちょうど昼時ということもあり、あまり人が行きかう姿は見られない。時折、最近この街でもよく目にするようになった丸みを帯びた車が、砂埃をまき散らしながら通り過ぎる。
そんな不作法な車を恨めしそうに一人の中年の女性が一瞥し、その手で押していた乳母車に、砂埃が入らないようにと肩にかけていたストールをふわりとかぶせた。
薄く明るい栗色の髪にカールが似合うその女性は、何事もなかったように再び乳母車を押し始めた。
しばらく歩くと、慣れていないと間違えそうな同じ姿の茶褐色のレンガで作られた縦長の建物の一つの前に立ち止まった。
「さ、もうお散歩は終わりですよ、レイン」
そう、乳母車の中に声をかけると、その呼びかけに答えるかのように小さな手がストールの隙間から出てきて探るように宙をかく。
女性は慣れた手つきで乳母車の中からレインと呼んだ小さな手の主を抱き上げ、三段ほどのレンガの階段を上り、建物の中に入っていった。
建物の中は暖かみのある木製の家具で統一されている。壁には小さな額に飾られた写真がいくつも飾られている。
その多くは、ちょうど今ベッドに寝かされた『おくるみ』に包まれた赤ん坊の写真。その他には、濃い茶色の髪の男性と明るい金色の髪の女性の若い夫婦が笑い合う写真。
そして、1枚だけ夫婦と赤ん坊と先程の中年の女性と、四人で写っている写真もあった。その写真の中の中年の女性は少し緊張しているようにも見える。
それもそのはず、この中年の女性はこの夫婦の家族ではなく、赤ん坊の世話や家事を任されているハウスキーパー。
ここの家主の若夫婦は、共にビジネス街でそれなりの地位を築き上げている立場だ。そのため、家庭の事までは十分になかなか手が届かなかった。そこで、第一子の男の子が生まれた期にハウスキーパーとして人を雇い入れたのだ。
女性はここから汽車で丸1日かかる田舎に住んでいた。前年度の干ばつで作物の不作が続き、歳は60をもうすぐ越えようとしていたのだが、いやおうなしに都会へと仕事を求めて出てきた次第だ。
この国は多くの人々が集まり、その潤いも世界でもトップクラスの国だ。しかし、あまりいい言い方ではないが、経済が発達した理由の一つには、他国の幾度と繰り返される戦争に肩入れし、経済が潤った国ともいえる部分もある。
そのため都心部は豊かでいても、まだ地方との貧困の差はかなりあった。
それでも気さくな夫婦は、田舎から出てきたばかりの女性をすぐにニックネームで「キャシー」と呼び、家族のように接していた。この写真はまだ来たばかりの頃に撮ったものだった。
キャシーは、眠いのかうつらうつらと薄目になったレインを穏やかな瞳で見るとキッチンへと移動し、食事の支度を始める。
レインと呼ばれる赤ん坊は、父親と母親の髪の色の間ぐらいの淡い茶色の髪をしている。街路樹と同じ明るい緑色をした瞳をゆっくりと閉じながら、次第に気持ち良く小さな寝息をたて始めた。
夫婦は共にそのほとんどの時間をビジネスにつぎ込んでいた。しかし、自分たちの息子のレインには、ごく一般的な家庭より触れ合う時間は少なくても、しっかりと溢れんばかりの愛情を注いだ。
また、ハウスキーパーのキャシーも本当に自分の子供か孫のように可愛がってくれていたので、レインは少しも寂しい思いをすることはなかった。そして、とても良く笑う真っ直ぐな子としてその月日を重ねていった。
レインが8歳になった頃の冬の事だ。
その年はこの地域では珍しく大寒波がやってきて、普段はめったに降ることのない雪が降り続いていた。
その日、あまり雪に慣れていなかったキャシーは入口の階段で段を踏み外し、腰を痛めてしまった。
しばらく寝込んである程度は回復したが、以前ほど仕事ができなくなってしまった。
レインもそれなりの事は自分でできるようになったため、これを機にキャシーは故郷に帰る決意をした。
その帰郷が決まってからのレインのふて腐れ度は半端なく、パンでも口に含んでいるのではないかと言うほど頬をしばらく膨らませていた。
キャシーとの別れの日、今度はその緑色の瞳から溢れんばかりの涙を溜めているレイン。少しでも突っつくと、その涙が止めどなく決壊してしまいそうだ。
それでも、それ以上わがままを言うわけでもなく、汽車に乗り込むキャシーの手にいつから握りしめていたのだろうか、くしゃくしゃになった手紙をねじ込む。
汽車が汽笛を鳴らし、金属の擦れ合う音と共に走り出す。
キャシーが窓から身を乗り出すと、共に見送りに来ていた両親の胸に顔をうずめるレインの姿が映り、それは次第に小さく遠くなって行く・・。
目線をふと手元に移す。その手に握られているくしゃくしゃの手紙には、今までのキャシーへのたくさんの愛のこもった感謝の言葉が、つたない文字で綴られていた。
穏やかな日差しと柔らかな空気が、この住宅街一帯を包み込んでいる。
茶褐色のレンガで統一された建物が並ぶ住宅街。統一された風景の街並み。
この街は、この国でも随一を争うと言ってもいいビジネス街からさほど遠くない場所にあり、その都市のベッドタウンとも言われている場所。
ちょうど昼時ということもあり、あまり人が行きかう姿は見られない。時折、最近この街でもよく目にするようになった丸みを帯びた車が、砂埃をまき散らしながら通り過ぎる。
そんな不作法な車を恨めしそうに一人の中年の女性が一瞥し、その手で押していた乳母車に、砂埃が入らないようにと肩にかけていたストールをふわりとかぶせた。
薄く明るい栗色の髪にカールが似合うその女性は、何事もなかったように再び乳母車を押し始めた。
しばらく歩くと、慣れていないと間違えそうな同じ姿の茶褐色のレンガで作られた縦長の建物の一つの前に立ち止まった。
「さ、もうお散歩は終わりですよ、レイン」
そう、乳母車の中に声をかけると、その呼びかけに答えるかのように小さな手がストールの隙間から出てきて探るように宙をかく。
女性は慣れた手つきで乳母車の中からレインと呼んだ小さな手の主を抱き上げ、三段ほどのレンガの階段を上り、建物の中に入っていった。
建物の中は暖かみのある木製の家具で統一されている。壁には小さな額に飾られた写真がいくつも飾られている。
その多くは、ちょうど今ベッドに寝かされた『おくるみ』に包まれた赤ん坊の写真。その他には、濃い茶色の髪の男性と明るい金色の髪の女性の若い夫婦が笑い合う写真。
そして、1枚だけ夫婦と赤ん坊と先程の中年の女性と、四人で写っている写真もあった。その写真の中の中年の女性は少し緊張しているようにも見える。
それもそのはず、この中年の女性はこの夫婦の家族ではなく、赤ん坊の世話や家事を任されているハウスキーパー。
ここの家主の若夫婦は、共にビジネス街でそれなりの地位を築き上げている立場だ。そのため、家庭の事までは十分になかなか手が届かなかった。そこで、第一子の男の子が生まれた期にハウスキーパーとして人を雇い入れたのだ。
女性はここから汽車で丸1日かかる田舎に住んでいた。前年度の干ばつで作物の不作が続き、歳は60をもうすぐ越えようとしていたのだが、いやおうなしに都会へと仕事を求めて出てきた次第だ。
この国は多くの人々が集まり、その潤いも世界でもトップクラスの国だ。しかし、あまりいい言い方ではないが、経済が発達した理由の一つには、他国の幾度と繰り返される戦争に肩入れし、経済が潤った国ともいえる部分もある。
そのため都心部は豊かでいても、まだ地方との貧困の差はかなりあった。
それでも気さくな夫婦は、田舎から出てきたばかりの女性をすぐにニックネームで「キャシー」と呼び、家族のように接していた。この写真はまだ来たばかりの頃に撮ったものだった。
キャシーは、眠いのかうつらうつらと薄目になったレインを穏やかな瞳で見るとキッチンへと移動し、食事の支度を始める。
レインと呼ばれる赤ん坊は、父親と母親の髪の色の間ぐらいの淡い茶色の髪をしている。街路樹と同じ明るい緑色をした瞳をゆっくりと閉じながら、次第に気持ち良く小さな寝息をたて始めた。
夫婦は共にそのほとんどの時間をビジネスにつぎ込んでいた。しかし、自分たちの息子のレインには、ごく一般的な家庭より触れ合う時間は少なくても、しっかりと溢れんばかりの愛情を注いだ。
また、ハウスキーパーのキャシーも本当に自分の子供か孫のように可愛がってくれていたので、レインは少しも寂しい思いをすることはなかった。そして、とても良く笑う真っ直ぐな子としてその月日を重ねていった。
レインが8歳になった頃の冬の事だ。
その年はこの地域では珍しく大寒波がやってきて、普段はめったに降ることのない雪が降り続いていた。
その日、あまり雪に慣れていなかったキャシーは入口の階段で段を踏み外し、腰を痛めてしまった。
しばらく寝込んである程度は回復したが、以前ほど仕事ができなくなってしまった。
レインもそれなりの事は自分でできるようになったため、これを機にキャシーは故郷に帰る決意をした。
その帰郷が決まってからのレインのふて腐れ度は半端なく、パンでも口に含んでいるのではないかと言うほど頬をしばらく膨らませていた。
キャシーとの別れの日、今度はその緑色の瞳から溢れんばかりの涙を溜めているレイン。少しでも突っつくと、その涙が止めどなく決壊してしまいそうだ。
それでも、それ以上わがままを言うわけでもなく、汽車に乗り込むキャシーの手にいつから握りしめていたのだろうか、くしゃくしゃになった手紙をねじ込む。
汽車が汽笛を鳴らし、金属の擦れ合う音と共に走り出す。
キャシーが窓から身を乗り出すと、共に見送りに来ていた両親の胸に顔をうずめるレインの姿が映り、それは次第に小さく遠くなって行く・・。
目線をふと手元に移す。その手に握られているくしゃくしゃの手紙には、今までのキャシーへのたくさんの愛のこもった感謝の言葉が、つたない文字で綴られていた。
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