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遺志
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貴方が残してくれたものは、私のルーツを辿る糸だった。
*
〝花柳の舞い〟
御幸からの最後の手紙に封入されていたチケットにはそう書かれていた。
みちるは昨年末、御幸に会った。御幸に会う最期となる夜だった。新橋の高級料亭で初めて優美な芸者の舞いを観た。
初めての、知らない世界に足を踏み入れ、食べたことも見たこともない料理を前に箸が進まなかったみちるに御幸は優しく言った。
『みちる、彼女達の舞いの発表会を観てみたくはないか?』
『舞いの発表会?』
固い面持ちのみちるに御幸は柔らかな微笑みで緊張を解す。
『そう。本当は五月にある〝東をどり〟という会に招待したいのだが、その頃の予定がまだ分からないのでね。その前に内輪の会があるから、そちらに招待させてもらうとしよう』
チケットを見詰め、みちるは新橋の夜に想いを馳せた。
〝品格〟という言葉を体で表現する男の姿は料亭の和の空間美と見事に調和し、尚且そこに柔和な雰囲気が融け合い、馴れない場所に身を置くみちるを無駄に緊張させないように、という配慮までも感じ取られた。
何故、御幸が突然『みちるに芸者の舞いを見せたい』と言い出したのか。あまりにも遠く駆け離れた無関係なものである筈の世界。
御幸は、自然な仕草で芸者の酌に答えながらみちるに穏やかに言った。
『その会は少し特別なもので、京都の芸妓も招待している』
京都の?
益々分からない、と首を傾げたみちるに芸者が上品に酌を奨めた。すみません、と盃を差し出すみちるに芸者は言った。
『二十年ぶりくらいで右京さんがお座敷に呼んでくださったと思ったら、可愛らしいお嬢さんをお連れしてらして。お若い方に私達の芸を見ていただける機会があれば、それはとても嬉しい事です。この会は、ちょっと珍しい試みなんですよ。是非いらしてくださいな』
優美に妖艶に、白塗りに目尻に僅かな紅を挿し、日本髪の蘰。年端は行っているようだったが、不思議な、芸者特有の魅力が溢れていた。間近に見たみちるは、胸の奥底を微かに引っ掻くような何かを感じた。
この感触は――懐かしい? フッと浮かんだそんな想いに戸惑いを覚えたが、心の何処かが記憶しているような、形の見えない、潜在的なものだった。
送られたチケットは御幸が、後日みちるの元に郵送する、と言っていたものだった。
手紙の一式を手に、みちるは目を閉じた。
招待主である御幸が亡くなってしまった今、行くべきか、行かぬべきか、みちるはゆっくり思考を巡らせた。
数ヶ月経った今でもはっきりと瞼に浮かぶ、芸者の舞い。三味線の調べに載せる美しく雅な舞い。みちるの五感が彼女の深淵に眠る記憶を揺り起こす。
呼んでる。誰が?
「行って、みよっかな……」
もう一つみちるの背中を押す決め手があった。御幸の手紙の中に書かれた一文だ。
『この会にもう一人、みちるに会わせたいある女性を招待した』
行けば何かが分かるかもしれない。自分のルーツを辿る、何かが。
星児と保の傍から離れないと決意したみちるだったが、〝自分が何者なのか〟という疑問にも答えを求める気持ちはやはりあった。
「新橋演舞場?」
久しぶりの休みの日曜日。リビングで保が新聞を読んでいた。
暖かな春の昼下がりの日差しが、ソファーに座り長い足を組む姿を柔らかく演出する。保をちょっと眩しそうに見、みちるは新橋演舞場の場所を聞いていた。
チケットと同封されていたチラシに〝於・新橋演舞場〟と書かれていたが、東京に明るくないみちるには何処にあるのか分からなかった。
保は新聞を閉じながら首を傾げる。
「東銀座で降りて新橋方面に歩いて、そうだな五分かからないくらいかな。どうした、そんなとこ行く用事が出来たのか?」
えと……、とみちるは口ごもる。少し思案して、はチケットとチラシを保に見せた。
「右京さんからの最期の手紙に入ってたの、ほら、年末に右京さんに会ったでしょ? その時に招待を受けてて」
受け取ったチラシに目を通した保が優しい眼差しをみちるに向けた。
「行くのか?」
保の率直な問い掛けに、みちるの答えには少しの間があった。
「正直、迷ってたんだけど」
「行って来なよ」
え、とみちるは改めて保の顔を見た。変わらず優しい眼差しが注がれていた。
「こうして御幸氏の手紙がみちるの手元に届いた、という事は、そこに彼の意思と願いがしっかりと宿っていたからに他ならないんじゃないか? だから観に行くべきだと俺は思う。みちるの気持ちも既に八割方、行く方向傾いていたんだろ」
保はチラシとチケットを返しながらみちるの頭をクシャッと撫で、
「きゃっ」
腰に手を掛けてグイと抱き寄せ膝に座らせた。みちるの顔を両手で挟み、保は自分の額を合わせた。
いつも一緒にいるのに。改めてこうして互いの息づかいまでもが感じられる距離で見詰め合うと。
みちるの鼓動が加速する。肌で感じる幸せだった。上目遣いに微かに頬を染めたみちるを見て保はクスリと優しく笑った。
「不安なんだ?」
みちるの考えている事は聞かなくても分かる、というかのように保はいつもみちるの心をフワリと抱いた。みちるは素直に、うん、と頷いていた。
「こういうのって、凄く敷居が高そうで。何を着て行ったらいいのかも分からないし」
「そっか」
みちるの不安ももっともだな、と保は考える。
みちるに見せてもらったチラシは、集客目的に大量印刷されたものではなかった。上質な和紙に金字で〝花柳の舞い〟と銘打つ、さしずめ招待状といった趣きだった。
まさに内輪のもの。誰しもが招かれる会ではないのだろう。
思案顔をしている保を、みちるは不安そうに見詰める。保は優しく笑い掛けた。
「着ていくものならあるだろ? 御幸氏の形見になったあの着物。あれなら何処に出ても恥ずかしくない。それに、彼も喜ぶ」
「あ……」
みちるの表情がパッと明るくなった。
「よし、いい顔だ。大丈夫。俺は一緒には行けないけどちゃんと送り迎えしてやるから」
「うん」
「みちるが迷子になったら困るしな」
「なりません」
保はハハハと笑い、みちるの唇にキスをした。
甘く優しく夢心地。保のキスはいつもみちるの不安を拭い去る。
保さん。
みちるは、抱かれる腕に全てを委ねる。
*
〝花柳の舞い〟
御幸からの最後の手紙に封入されていたチケットにはそう書かれていた。
みちるは昨年末、御幸に会った。御幸に会う最期となる夜だった。新橋の高級料亭で初めて優美な芸者の舞いを観た。
初めての、知らない世界に足を踏み入れ、食べたことも見たこともない料理を前に箸が進まなかったみちるに御幸は優しく言った。
『みちる、彼女達の舞いの発表会を観てみたくはないか?』
『舞いの発表会?』
固い面持ちのみちるに御幸は柔らかな微笑みで緊張を解す。
『そう。本当は五月にある〝東をどり〟という会に招待したいのだが、その頃の予定がまだ分からないのでね。その前に内輪の会があるから、そちらに招待させてもらうとしよう』
チケットを見詰め、みちるは新橋の夜に想いを馳せた。
〝品格〟という言葉を体で表現する男の姿は料亭の和の空間美と見事に調和し、尚且そこに柔和な雰囲気が融け合い、馴れない場所に身を置くみちるを無駄に緊張させないように、という配慮までも感じ取られた。
何故、御幸が突然『みちるに芸者の舞いを見せたい』と言い出したのか。あまりにも遠く駆け離れた無関係なものである筈の世界。
御幸は、自然な仕草で芸者の酌に答えながらみちるに穏やかに言った。
『その会は少し特別なもので、京都の芸妓も招待している』
京都の?
益々分からない、と首を傾げたみちるに芸者が上品に酌を奨めた。すみません、と盃を差し出すみちるに芸者は言った。
『二十年ぶりくらいで右京さんがお座敷に呼んでくださったと思ったら、可愛らしいお嬢さんをお連れしてらして。お若い方に私達の芸を見ていただける機会があれば、それはとても嬉しい事です。この会は、ちょっと珍しい試みなんですよ。是非いらしてくださいな』
優美に妖艶に、白塗りに目尻に僅かな紅を挿し、日本髪の蘰。年端は行っているようだったが、不思議な、芸者特有の魅力が溢れていた。間近に見たみちるは、胸の奥底を微かに引っ掻くような何かを感じた。
この感触は――懐かしい? フッと浮かんだそんな想いに戸惑いを覚えたが、心の何処かが記憶しているような、形の見えない、潜在的なものだった。
送られたチケットは御幸が、後日みちるの元に郵送する、と言っていたものだった。
手紙の一式を手に、みちるは目を閉じた。
招待主である御幸が亡くなってしまった今、行くべきか、行かぬべきか、みちるはゆっくり思考を巡らせた。
数ヶ月経った今でもはっきりと瞼に浮かぶ、芸者の舞い。三味線の調べに載せる美しく雅な舞い。みちるの五感が彼女の深淵に眠る記憶を揺り起こす。
呼んでる。誰が?
「行って、みよっかな……」
もう一つみちるの背中を押す決め手があった。御幸の手紙の中に書かれた一文だ。
『この会にもう一人、みちるに会わせたいある女性を招待した』
行けば何かが分かるかもしれない。自分のルーツを辿る、何かが。
星児と保の傍から離れないと決意したみちるだったが、〝自分が何者なのか〟という疑問にも答えを求める気持ちはやはりあった。
「新橋演舞場?」
久しぶりの休みの日曜日。リビングで保が新聞を読んでいた。
暖かな春の昼下がりの日差しが、ソファーに座り長い足を組む姿を柔らかく演出する。保をちょっと眩しそうに見、みちるは新橋演舞場の場所を聞いていた。
チケットと同封されていたチラシに〝於・新橋演舞場〟と書かれていたが、東京に明るくないみちるには何処にあるのか分からなかった。
保は新聞を閉じながら首を傾げる。
「東銀座で降りて新橋方面に歩いて、そうだな五分かからないくらいかな。どうした、そんなとこ行く用事が出来たのか?」
えと……、とみちるは口ごもる。少し思案して、はチケットとチラシを保に見せた。
「右京さんからの最期の手紙に入ってたの、ほら、年末に右京さんに会ったでしょ? その時に招待を受けてて」
受け取ったチラシに目を通した保が優しい眼差しをみちるに向けた。
「行くのか?」
保の率直な問い掛けに、みちるの答えには少しの間があった。
「正直、迷ってたんだけど」
「行って来なよ」
え、とみちるは改めて保の顔を見た。変わらず優しい眼差しが注がれていた。
「こうして御幸氏の手紙がみちるの手元に届いた、という事は、そこに彼の意思と願いがしっかりと宿っていたからに他ならないんじゃないか? だから観に行くべきだと俺は思う。みちるの気持ちも既に八割方、行く方向傾いていたんだろ」
保はチラシとチケットを返しながらみちるの頭をクシャッと撫で、
「きゃっ」
腰に手を掛けてグイと抱き寄せ膝に座らせた。みちるの顔を両手で挟み、保は自分の額を合わせた。
いつも一緒にいるのに。改めてこうして互いの息づかいまでもが感じられる距離で見詰め合うと。
みちるの鼓動が加速する。肌で感じる幸せだった。上目遣いに微かに頬を染めたみちるを見て保はクスリと優しく笑った。
「不安なんだ?」
みちるの考えている事は聞かなくても分かる、というかのように保はいつもみちるの心をフワリと抱いた。みちるは素直に、うん、と頷いていた。
「こういうのって、凄く敷居が高そうで。何を着て行ったらいいのかも分からないし」
「そっか」
みちるの不安ももっともだな、と保は考える。
みちるに見せてもらったチラシは、集客目的に大量印刷されたものではなかった。上質な和紙に金字で〝花柳の舞い〟と銘打つ、さしずめ招待状といった趣きだった。
まさに内輪のもの。誰しもが招かれる会ではないのだろう。
思案顔をしている保を、みちるは不安そうに見詰める。保は優しく笑い掛けた。
「着ていくものならあるだろ? 御幸氏の形見になったあの着物。あれなら何処に出ても恥ずかしくない。それに、彼も喜ぶ」
「あ……」
みちるの表情がパッと明るくなった。
「よし、いい顔だ。大丈夫。俺は一緒には行けないけどちゃんと送り迎えしてやるから」
「うん」
「みちるが迷子になったら困るしな」
「なりません」
保はハハハと笑い、みちるの唇にキスをした。
甘く優しく夢心地。保のキスはいつもみちるの不安を拭い去る。
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