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カルテ1 可愛くなんてなれなくて
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「ちょっと綺麗だからっていい気になって選り好みしてるから行き遅れるのよ」
あまり好意的とは思えない噂話。
悪いけど、全部聞こえていますから。
カフェで偶然居合わせた友人二人。
ううん、友人と思ったことなんてないけれど学び舎が一緒だったいわゆる〝ご学友〟ね。
街で会えば話しくらいはする。
けれど、今日は。
クライアントに会って、その後相手方の所へ出向き話しを聞いて、事務所に戻る前にちょっと資料をまとめようとカフェに入った。
そこで〝彼女達〟に出くわした。
場所を確保する為に窓際のカウンター席にバッグを置いた時、奥の方から囁く声がした。
「翠川さんだわ」
「あ、ホント」
「相変わらず綺麗で、バリバリ働いてますって感じだけど、結婚、してないんでしょ?」
さり気なく声のした方へ視線を走らせ、顔を確認した。
高校から大学まで同じ学校だった同窓生だ。
声を掛けるには微妙な距離。
聞こえてしまった話しの内容だけに、今さら、あら、久しぶり! なんて言えない。
気付かないふりをして財布だけ持ってレジカウンターに向かった時だった。
「私、知ってるわよ。
大きな法律事務所の所長さんと結婚決まっていたのに、それをフッたんでしょ」
そして、クスクスと笑う声に混じって聞こえたのが。
「ちょっと綺麗だからって、選り好みしてるから――」
自分のこと、綺麗だなんて思ったことないわ。
選り好みだってしていない。
わたしはただ、本当に好きになった一人の男を忘れられなかっただけなの。
たった一人の男しか、愛せなかったの。
初めての男。
別れてくっ付いて、を繰り返して。
諦めようとしたこともあったけど。
駄目だった。
駄目だったのよ。
どんな時も、どんな男と一緒の時も。
彼の姿がチラついて、消えなかった。
だから――。
「そういえば、高校の時に翠川さん付き合っていた彼がいたじゃない。
ほら野球部のキャプテンですごくカッコよかった――」
わたしの足は、カウンターの前を素通りし、店の奥へ向かっていた。
「お久しぶり~。元気だった?」
わたしに声を掛けられて、二人はびくっと顔を上げた。
「あら、翠川さん。
久しぶり~」
「ほんと、こんなところで会うなんて」
わざとらしい。
そう呟きたくなる嫌悪感は胸の中にしまい込む。
「あら、だって~、生憎ここはわたしの生活圏ですもの。
高校時代からわたしのテリトリーは変わらないのよ」
二人はわたしを見上げて顔をひきつらせながら、
「そうね、そうだったわね」
とお愛想笑い。
フン、だ。
もっとどぎまぎさせてあげる。
「そうだわ、ご一緒してもいいかしら。
わたし、バッグここに持ってくるから。
久しぶりにお二人の近況も聞きたいわ~」
お二人さんは。
「あ、ごめんなざい! 私、もう帰らなきゃ」
「私も子供のお迎えがあるから」
取ってつけたように携帯で時間を確認して慌てて立ち上がった。
「あらそう? 残念」
わたしは肩を竦めてちょっぴり残念がるフリをして見せた。
そそくさと帰っていった二人の後姿に、小さく舌を出してはみたものの、ふう、とため息が漏れてしまった。
『ため息なんてつくなよ。
一つするごとに一つ幸せが逃げるぞ』
快活に笑ってそう言ってくれた彼の声が脳裏に蘇って、胸に焼き付くような痛みを覚えた。
彼女達の会話、あのままわたしへのイヤミで終わるなら別に放っておいた。
でも、彼の話題になりそうだったから。
そこにだけは持って行って欲しくなかったから。
だから、あんな形で割って入った。
イヤミに意地悪。
わたしはこうやって嫌な女になっていくのかしら。
こうなりたかった訳じゃないのに。
彼に話したら、きっと笑うわね。
「お前、そんなだからいつまでもカレシ出来ねーんだぞ」って。
カラカラってあっけらかんと。
日に焼けて精悍で、わたしをときめかせてやまなかったあの顔をはっきりと思い出してしまって、喉の奥が痛くなった。
放っておいてよ。
妄想の会話ね。
今ではもう会うこともない彼に、心の中でそう言った。
そうよ、わたしはこんなだから、新しいカレシが出来ないの。
放っておいて。
*
都心から離れた郊外の街にだって、ワインバーなんてお洒落なバーはある。
仕事が終われば、そこに繰り出して、日々のうっぷんを晴らす、のだけど。
わたしの目の前で、熟女美人がワイングラス片手に豪快に笑っている。
「アハハハッ、それはいいわ!
いいわよ翠川菊乃(みどりかわきくの)、そういう女達にはにはそうやって遠慮せずぶつかっていくのよ。それでこそ、私が見込んだ女だわ」
通称、美魔女弁護士。
わたしの事務所の所長で、君島蓉子(きみじまようこ)先生。
御年、還暦を超える、とだけ言っておこう。
どう見たって40後半にしか見えないのだから。
わたしは蓉子先生が立ち上げた芙蓉法律事務所、という小さな事務所に弁護士として所属している。
法律事務所、と一言で言っても、それぞれの事務所にはカラーがある。得意とする分野が違うのだ。
弁護士が取り扱う事案にはいくつもの種類がある。
広く知られている刑事民事の事件法務から始まり、企業法務、渉外、そして、刑事事件までは行かずとも、人と人との間に起きるトラブルの代理人として交渉するのも弁護士の役目。
それは家庭内、特に拗れに拗れた離婚問題も入っていた。
その離婚を専門に扱う事務所もある。
芙蓉法律士事務所は、まさに離婚相談を売りにする事務所だった。
最近では女性の駆け込み寺として巷で知られる事務所になっていた。
蓉子先生は、今はこんなに明るくていらっしゃるけれど、離婚を2度経験した方。
その時に大変な苦労をした経験から、40過ぎてから弁護士を目指して見事司法試験に合格した、という経歴の持ち主。
家裁、特に離婚関係のエキスパートでいらっしゃる。
そんな蓉子先生が、以前勤めていた法律事務所を追われて路頭に迷っていたわたしを拾ってくださったのだけど。
「菊乃、この間の合コンはどうだったの?
ほら、30過ぎてから10回目の」
「先生! 10回目じゃありません!
7回目です!」
「7回目? いやあね、もう四捨五入して10回にしちゃいなさい!」
一事が万事こんな調子。
蓉子先生には敵わない。
「蓉子先生、今夜はこちらのワインがお薦めですよ」
いつも、ソムリエの資格を持った店のマスターはわざわざ蓉子先生のところにボトルを持って来ていいワインを紹介する。
そうねぇ、と蓉子先生はマスターの、手の中のボトルを見て少し考える。
そんな蓉子先生を見るマスターの目が、とても優しい。
わたしは知ってる。
マスターは蓉子先生に対して、特別な女性として接していること。
蓉子先生の気持ちは知らないけどね。
でも、そんな男性はマスターだけじゃない。
蓉子先生は美人、ではないんだけれど、きっと内面から湧き出るバイタリティーみたいなものが人を惹きつけるのね。
蓉子先生みたいにわたしもなれるかしら、と何度も思ったけれど。すぐにそんな願いは打ち消される。
蓉子先生とわたしでは〝恋愛経験値〟が明らかに違う。
年を考えれば当然なのかもしれないけれど、蓉子先生はわたしの年の頃にはもうすでに一回目の結婚をされていた。
わたしは、本当に恋愛に臆病になってしまった。
「で、今回もそのスッチーの友人と一緒に玉砕なワケね」
「先生、スッチーって言い方、オジサンみたいです。
やめた方がいいですよ。
今は、キャビンアテンダント、CA、です。
それともう一つ。
合コン、ではあまりません。パーティーです」
「まあぁ、相変わらず可愛くない女!」
「そうです、こんな三十路女は可愛くなんてなれません」
「開き直ったわねー」
蓉子先生、カラカラと笑った。
可愛くない、か。
連絡先を交換する男はいた。
でも、その後何度か食事に行ったり、まで。
幾度目かの時に大抵の男はこう言った。
『君は、独りで生きていけるよね』
遠回しの〝君とはお付き合いできません〟の言葉。
はっきり言ってくれた方がよっぽどいいのに。
男はこの年くらいになると〝可愛げのある子〟を望むようになるらしい。
どうせ、わたしは可愛くありませんよ。
なんて。
こんな可愛げのない女が卑屈さまで身に付けてしまったらもう目も当てられない。
色恋なんて遠ざかる一方ね。
ワイングラスに口を付けた時、先生が言った。
「菊乃は、まだその例の彼の影を追ってるの?」
ドキン、として口に含んだワインが危うくグラスに逆流するところだった。
ゴックン、と飲み干して、ナプキンで口元を拭う。
「もう諦めました!」
ちょっとムキになって言ったわたしに先生が、フフと笑った。
「その言い方は、諦めきれていないわね」
先生の流し目が色っぽくてドキッとした。
そうか、こうやって男性を落とすのか。
なんて考えてしまう。
そうね、わたしは諦めきれていないから、今でもこうして燻っているのね。
「極上の男に出会ってしまって、その男を射止めることが出来なかった女の悲劇?」
その言い方はあまりにも、わたしのど真ん中を突く言い方。
よく研がれた日本刀で、一気に一突き!
わたしは、深く息を吐いた。
「最高の、男だったんです。
彼以上の男なんてきっといません」
懐が深くて、潔くて、頼りがいがあって、それでいて、包み込むような優しさを持っていた。
そんな男、彼以外、どこを探しても見つからなかった。
「なんの仕事してる人だったっけ?」
わたしは、一呼吸置いて、ゆっくり答える。
最上級の男に、弁護士、医師、ベンチャー企業の社長、そんな肩書なんていらない。
「普通の、高校の教師、です」
蓉子先生は相変わらずお色気たっぷりの仕草で、テーブルに肘をついて手を組み、その上に軽く顎を乗せてわたしを見た。
「その彼のこと話す時のあなたの目、トロンとしてる。
よっぽどいい男だったのね。
セックスも」
ごちそうさまでした、と挨拶をして先生をタクシーにお乗せしてわたしは駅へ向かう。
腕時計を見ると、駅前から出るバスの最終には余裕で間に合いそうだった。
酔いを醒ます為に初夏の涼しい夜風を浴びながら、わたしはゆっくりと歩き出した。
セックスも、だなんて。
蓉子先生の言葉を受けた時、ドキンとしてしばらく口も利けなかった。
甘く、低く、柔らかく、耳から滑り込んだ彼の声はいつもわたしを痺れさせた。
彼の指も、手も、肌も、そして――、彼の全てが愛しかった。
欲しくて欲しくて、貪欲にしがみついた頃もあった。
先生の言葉が、わたしの中でむりやりに眠らせていた甘い記憶を呼び起こしてしまった。
「遼太……」
思わず声に出してしまった彼の名前は、ひんやりと冷えた夜風がどこかへ運んで行った。
いいの、わたしには仕事があるから。
心の中に生まれた迷う自分にそう言い聞かせ、わたしは前を向いて歩き出した。
駅のロータリー近くまで来ると人通りが多くなる。
駅から出てきた人の流れに逆らうように進むと雑踏の中、若い女の子達がキャピキャピとした声で話しながら、タクシーに乗り込むのが見えた。
「先生、ごちそうさまでした~」
「また明日~」
口々にお礼を言う女の子達を見送るのは、スーツ姿の背の高い男性。
キャバ嬢さん達? と思ったけれど、女の子達はお洒落なOLさん風。
このあたりのオフィスで働いていて、仕事上がりに呑んで帰るところ、といったところね。
見送る男性はさしずめ、上司?
そんなことを思いながら自分が乗る路線バスの停留所に着いたわたしは遠目に様子を見ていて、思わず声を上げそうになった。
タクシーに乗り込んだ女の子達を見送る男性は、わたしの知る男だった。
スラリとしたモデルのような長身だけでもひと目引くのに、その顔はまるで歌舞伎の女形が出来そうなくらい美しい。
街の光が灯る中、その出で立ちは画になった。
緒方君……。
心の中でその名前を呟いた。
声を掛けるか、悩んで、やめた。
見つからないようにすぐそばにあったバス停看板の影に隠れてしまった。
「お疲れ様。気を付けて」
良く通る澄んだ、耳に心地よい響きを持った男性の声が聞こえた。
ああ、やっぱり緒方君だ、と思うと同時に、この辺りで働いているのかしら、という疑問が浮かぶ。
正直、あまりお会いしたくはないのだけれど……。
恐る恐る様子を窺うと、タクシーを見送った彼はこちらとは反対方向である駅の中に入って行くところだった。
人混みに紛れる筈の後姿、背筋の伸びた長身のそれはあまりにも目立って建物の中に完全に入ってしまうまで見失うことはなかった。
どうして、こんなところで見つけてしまったのか。
緒方君に会って話しかけたりでもしたら、わたしが目をつぶる為に置き去りにした感情を呼び覚ましかねない。
たとえこの近くで働いていたとしても、もう会うことはありませんよう、そう願いバッグを持つ手に力を込めた。
顔を上げると、こちらに向かって静かに滑り込んでくるバスが見えた。
あまり好意的とは思えない噂話。
悪いけど、全部聞こえていますから。
カフェで偶然居合わせた友人二人。
ううん、友人と思ったことなんてないけれど学び舎が一緒だったいわゆる〝ご学友〟ね。
街で会えば話しくらいはする。
けれど、今日は。
クライアントに会って、その後相手方の所へ出向き話しを聞いて、事務所に戻る前にちょっと資料をまとめようとカフェに入った。
そこで〝彼女達〟に出くわした。
場所を確保する為に窓際のカウンター席にバッグを置いた時、奥の方から囁く声がした。
「翠川さんだわ」
「あ、ホント」
「相変わらず綺麗で、バリバリ働いてますって感じだけど、結婚、してないんでしょ?」
さり気なく声のした方へ視線を走らせ、顔を確認した。
高校から大学まで同じ学校だった同窓生だ。
声を掛けるには微妙な距離。
聞こえてしまった話しの内容だけに、今さら、あら、久しぶり! なんて言えない。
気付かないふりをして財布だけ持ってレジカウンターに向かった時だった。
「私、知ってるわよ。
大きな法律事務所の所長さんと結婚決まっていたのに、それをフッたんでしょ」
そして、クスクスと笑う声に混じって聞こえたのが。
「ちょっと綺麗だからって、選り好みしてるから――」
自分のこと、綺麗だなんて思ったことないわ。
選り好みだってしていない。
わたしはただ、本当に好きになった一人の男を忘れられなかっただけなの。
たった一人の男しか、愛せなかったの。
初めての男。
別れてくっ付いて、を繰り返して。
諦めようとしたこともあったけど。
駄目だった。
駄目だったのよ。
どんな時も、どんな男と一緒の時も。
彼の姿がチラついて、消えなかった。
だから――。
「そういえば、高校の時に翠川さん付き合っていた彼がいたじゃない。
ほら野球部のキャプテンですごくカッコよかった――」
わたしの足は、カウンターの前を素通りし、店の奥へ向かっていた。
「お久しぶり~。元気だった?」
わたしに声を掛けられて、二人はびくっと顔を上げた。
「あら、翠川さん。
久しぶり~」
「ほんと、こんなところで会うなんて」
わざとらしい。
そう呟きたくなる嫌悪感は胸の中にしまい込む。
「あら、だって~、生憎ここはわたしの生活圏ですもの。
高校時代からわたしのテリトリーは変わらないのよ」
二人はわたしを見上げて顔をひきつらせながら、
「そうね、そうだったわね」
とお愛想笑い。
フン、だ。
もっとどぎまぎさせてあげる。
「そうだわ、ご一緒してもいいかしら。
わたし、バッグここに持ってくるから。
久しぶりにお二人の近況も聞きたいわ~」
お二人さんは。
「あ、ごめんなざい! 私、もう帰らなきゃ」
「私も子供のお迎えがあるから」
取ってつけたように携帯で時間を確認して慌てて立ち上がった。
「あらそう? 残念」
わたしは肩を竦めてちょっぴり残念がるフリをして見せた。
そそくさと帰っていった二人の後姿に、小さく舌を出してはみたものの、ふう、とため息が漏れてしまった。
『ため息なんてつくなよ。
一つするごとに一つ幸せが逃げるぞ』
快活に笑ってそう言ってくれた彼の声が脳裏に蘇って、胸に焼き付くような痛みを覚えた。
彼女達の会話、あのままわたしへのイヤミで終わるなら別に放っておいた。
でも、彼の話題になりそうだったから。
そこにだけは持って行って欲しくなかったから。
だから、あんな形で割って入った。
イヤミに意地悪。
わたしはこうやって嫌な女になっていくのかしら。
こうなりたかった訳じゃないのに。
彼に話したら、きっと笑うわね。
「お前、そんなだからいつまでもカレシ出来ねーんだぞ」って。
カラカラってあっけらかんと。
日に焼けて精悍で、わたしをときめかせてやまなかったあの顔をはっきりと思い出してしまって、喉の奥が痛くなった。
放っておいてよ。
妄想の会話ね。
今ではもう会うこともない彼に、心の中でそう言った。
そうよ、わたしはこんなだから、新しいカレシが出来ないの。
放っておいて。
*
都心から離れた郊外の街にだって、ワインバーなんてお洒落なバーはある。
仕事が終われば、そこに繰り出して、日々のうっぷんを晴らす、のだけど。
わたしの目の前で、熟女美人がワイングラス片手に豪快に笑っている。
「アハハハッ、それはいいわ!
いいわよ翠川菊乃(みどりかわきくの)、そういう女達にはにはそうやって遠慮せずぶつかっていくのよ。それでこそ、私が見込んだ女だわ」
通称、美魔女弁護士。
わたしの事務所の所長で、君島蓉子(きみじまようこ)先生。
御年、還暦を超える、とだけ言っておこう。
どう見たって40後半にしか見えないのだから。
わたしは蓉子先生が立ち上げた芙蓉法律事務所、という小さな事務所に弁護士として所属している。
法律事務所、と一言で言っても、それぞれの事務所にはカラーがある。得意とする分野が違うのだ。
弁護士が取り扱う事案にはいくつもの種類がある。
広く知られている刑事民事の事件法務から始まり、企業法務、渉外、そして、刑事事件までは行かずとも、人と人との間に起きるトラブルの代理人として交渉するのも弁護士の役目。
それは家庭内、特に拗れに拗れた離婚問題も入っていた。
その離婚を専門に扱う事務所もある。
芙蓉法律士事務所は、まさに離婚相談を売りにする事務所だった。
最近では女性の駆け込み寺として巷で知られる事務所になっていた。
蓉子先生は、今はこんなに明るくていらっしゃるけれど、離婚を2度経験した方。
その時に大変な苦労をした経験から、40過ぎてから弁護士を目指して見事司法試験に合格した、という経歴の持ち主。
家裁、特に離婚関係のエキスパートでいらっしゃる。
そんな蓉子先生が、以前勤めていた法律事務所を追われて路頭に迷っていたわたしを拾ってくださったのだけど。
「菊乃、この間の合コンはどうだったの?
ほら、30過ぎてから10回目の」
「先生! 10回目じゃありません!
7回目です!」
「7回目? いやあね、もう四捨五入して10回にしちゃいなさい!」
一事が万事こんな調子。
蓉子先生には敵わない。
「蓉子先生、今夜はこちらのワインがお薦めですよ」
いつも、ソムリエの資格を持った店のマスターはわざわざ蓉子先生のところにボトルを持って来ていいワインを紹介する。
そうねぇ、と蓉子先生はマスターの、手の中のボトルを見て少し考える。
そんな蓉子先生を見るマスターの目が、とても優しい。
わたしは知ってる。
マスターは蓉子先生に対して、特別な女性として接していること。
蓉子先生の気持ちは知らないけどね。
でも、そんな男性はマスターだけじゃない。
蓉子先生は美人、ではないんだけれど、きっと内面から湧き出るバイタリティーみたいなものが人を惹きつけるのね。
蓉子先生みたいにわたしもなれるかしら、と何度も思ったけれど。すぐにそんな願いは打ち消される。
蓉子先生とわたしでは〝恋愛経験値〟が明らかに違う。
年を考えれば当然なのかもしれないけれど、蓉子先生はわたしの年の頃にはもうすでに一回目の結婚をされていた。
わたしは、本当に恋愛に臆病になってしまった。
「で、今回もそのスッチーの友人と一緒に玉砕なワケね」
「先生、スッチーって言い方、オジサンみたいです。
やめた方がいいですよ。
今は、キャビンアテンダント、CA、です。
それともう一つ。
合コン、ではあまりません。パーティーです」
「まあぁ、相変わらず可愛くない女!」
「そうです、こんな三十路女は可愛くなんてなれません」
「開き直ったわねー」
蓉子先生、カラカラと笑った。
可愛くない、か。
連絡先を交換する男はいた。
でも、その後何度か食事に行ったり、まで。
幾度目かの時に大抵の男はこう言った。
『君は、独りで生きていけるよね』
遠回しの〝君とはお付き合いできません〟の言葉。
はっきり言ってくれた方がよっぽどいいのに。
男はこの年くらいになると〝可愛げのある子〟を望むようになるらしい。
どうせ、わたしは可愛くありませんよ。
なんて。
こんな可愛げのない女が卑屈さまで身に付けてしまったらもう目も当てられない。
色恋なんて遠ざかる一方ね。
ワイングラスに口を付けた時、先生が言った。
「菊乃は、まだその例の彼の影を追ってるの?」
ドキン、として口に含んだワインが危うくグラスに逆流するところだった。
ゴックン、と飲み干して、ナプキンで口元を拭う。
「もう諦めました!」
ちょっとムキになって言ったわたしに先生が、フフと笑った。
「その言い方は、諦めきれていないわね」
先生の流し目が色っぽくてドキッとした。
そうか、こうやって男性を落とすのか。
なんて考えてしまう。
そうね、わたしは諦めきれていないから、今でもこうして燻っているのね。
「極上の男に出会ってしまって、その男を射止めることが出来なかった女の悲劇?」
その言い方はあまりにも、わたしのど真ん中を突く言い方。
よく研がれた日本刀で、一気に一突き!
わたしは、深く息を吐いた。
「最高の、男だったんです。
彼以上の男なんてきっといません」
懐が深くて、潔くて、頼りがいがあって、それでいて、包み込むような優しさを持っていた。
そんな男、彼以外、どこを探しても見つからなかった。
「なんの仕事してる人だったっけ?」
わたしは、一呼吸置いて、ゆっくり答える。
最上級の男に、弁護士、医師、ベンチャー企業の社長、そんな肩書なんていらない。
「普通の、高校の教師、です」
蓉子先生は相変わらずお色気たっぷりの仕草で、テーブルに肘をついて手を組み、その上に軽く顎を乗せてわたしを見た。
「その彼のこと話す時のあなたの目、トロンとしてる。
よっぽどいい男だったのね。
セックスも」
ごちそうさまでした、と挨拶をして先生をタクシーにお乗せしてわたしは駅へ向かう。
腕時計を見ると、駅前から出るバスの最終には余裕で間に合いそうだった。
酔いを醒ます為に初夏の涼しい夜風を浴びながら、わたしはゆっくりと歩き出した。
セックスも、だなんて。
蓉子先生の言葉を受けた時、ドキンとしてしばらく口も利けなかった。
甘く、低く、柔らかく、耳から滑り込んだ彼の声はいつもわたしを痺れさせた。
彼の指も、手も、肌も、そして――、彼の全てが愛しかった。
欲しくて欲しくて、貪欲にしがみついた頃もあった。
先生の言葉が、わたしの中でむりやりに眠らせていた甘い記憶を呼び起こしてしまった。
「遼太……」
思わず声に出してしまった彼の名前は、ひんやりと冷えた夜風がどこかへ運んで行った。
いいの、わたしには仕事があるから。
心の中に生まれた迷う自分にそう言い聞かせ、わたしは前を向いて歩き出した。
駅のロータリー近くまで来ると人通りが多くなる。
駅から出てきた人の流れに逆らうように進むと雑踏の中、若い女の子達がキャピキャピとした声で話しながら、タクシーに乗り込むのが見えた。
「先生、ごちそうさまでした~」
「また明日~」
口々にお礼を言う女の子達を見送るのは、スーツ姿の背の高い男性。
キャバ嬢さん達? と思ったけれど、女の子達はお洒落なOLさん風。
このあたりのオフィスで働いていて、仕事上がりに呑んで帰るところ、といったところね。
見送る男性はさしずめ、上司?
そんなことを思いながら自分が乗る路線バスの停留所に着いたわたしは遠目に様子を見ていて、思わず声を上げそうになった。
タクシーに乗り込んだ女の子達を見送る男性は、わたしの知る男だった。
スラリとしたモデルのような長身だけでもひと目引くのに、その顔はまるで歌舞伎の女形が出来そうなくらい美しい。
街の光が灯る中、その出で立ちは画になった。
緒方君……。
心の中でその名前を呟いた。
声を掛けるか、悩んで、やめた。
見つからないようにすぐそばにあったバス停看板の影に隠れてしまった。
「お疲れ様。気を付けて」
良く通る澄んだ、耳に心地よい響きを持った男性の声が聞こえた。
ああ、やっぱり緒方君だ、と思うと同時に、この辺りで働いているのかしら、という疑問が浮かぶ。
正直、あまりお会いしたくはないのだけれど……。
恐る恐る様子を窺うと、タクシーを見送った彼はこちらとは反対方向である駅の中に入って行くところだった。
人混みに紛れる筈の後姿、背筋の伸びた長身のそれはあまりにも目立って建物の中に完全に入ってしまうまで見失うことはなかった。
どうして、こんなところで見つけてしまったのか。
緒方君に会って話しかけたりでもしたら、わたしが目をつぶる為に置き去りにした感情を呼び覚ましかねない。
たとえこの近くで働いていたとしても、もう会うことはありませんよう、そう願いバッグを持つ手に力を込めた。
顔を上げると、こちらに向かって静かに滑り込んでくるバスが見えた。
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