舞姫【中編】

友秋

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1970年3月 京都

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「武はん、春どすえ。花名刺も衣替えどす。もろてくれはりますか」

 お座敷遊びに盛り上がる宴席の隅で静かに酒を呑む武に酌をしていた芸妓は、しなやかに、たおやかに、花名刺を差し出した。

 普通の名刺よりも一回り程小さな桜色の紙は花型に抜かれ、赤い字で名前が書かれていた。

〝姫扇〟

「君から貰った花名刺は、これで何枚目になるかな」

 仏頂面をしている事が多い武の顔が微かに綻んだのを見、姫扇は嬉しそうに答える。

「五枚目どす。武はんと出会ってから季節が一巡りしたんどす」
「そうか……」

 島田の鬢の髪に白塗り化粧。目元に紅。素顔を知れば知るほど彼女の芸妓姿の美しさと品も際立つ。

 姫扇を見る武は愛しげに目を細めた。どちらからともなく、手を重ね合っていた。

「うちは、武はんと京都の桜が見たいどす」

 姫扇の、ぽろりと零した本音に武の手が反応した。誰にも気付かれずに握る手に微かな力が込められていた。

「姫花」

 周りを憚る小さな声だった。姫扇は武を見上げる。

「次の休みは」
「明後日どす。武はんは、いつまで京都にいらしはりますの?」
「明後日東京に戻る予定だったが、一日伸ばそう。明後日、君のマンションに迎えに行くよ」

 姫扇の表情がぱあっと明るくなった。

 あまりにも分かりやすい、まるで恋をする少女のような表情に武は苦笑いした。

「芸妓が客にそんな表情かおを見せてはいけないだろう。芸妓姫扇は営業用の表情がちゃんと出来るのか心配になるな」

 姫扇は拗ねたような表情を見せた。

「武はん、イケズどす。誰にでもこないな顔見せると思てはりますのん」

 武はお猪口を持ったまま、ハハハと笑った。武が珍しく声を出して笑った事に嬉しくなり、姫扇も口元を隠しながら笑う。

「何処の桜を見に行こうかな」
「そうどすね……鴨川の桜なら、ゆっくり歩きながら見られますえ」
「ああ、それもいいな」

 うちは、と姫扇は武の横顔を見ながら思う。

 こうして貴方と静かに語らう時間を持てるだけで幸せなんえ。

 ううん、会えるだけで幸せなんえ。



「姫扇さんねえさん」

 お座敷を終えて帰るタクシーの中、妹分芸妓、富久扇が遠慮がちに話し始めた。

「うちは姫扇さんねえさんが心配どす」
「心配?」

 春の夜、車窓に時折見える桜に目を細める姫扇に、富久扇は躊躇いながらも言った。

「津田さんは、妻子のあるお方どす。今日なんて、お茶屋のおかあさんが『ご長男誕生おめでとうございます』言うてお祝い渡してはりました。姫扇さんねえさん、遊ばれてるだけやないの。うちはそんなんいやなんどす。うちは、姫扇さんねえさんほど上手う舞うねえさんは知りまへん。うちは、姫扇さんねえさんの妹であることが誇らしゅうて誇らしゅうてーー」

 言葉は次第に熱を帯び、今にも泣き出しそうな富久扇に姫扇は優しく「おおきにな」と微笑んだ。

「道ならぬ恋やいう事は分かっとるんよ。けど、あないに悲しい目をした男はんに会うたんは初めてだったん。放ってなんておかれへんかったん。それに、うちはきっと、叶わぬ恋しか出来ない女なんよ」

 え、と聞き返す富久扇に、姫扇は柔らかな笑みを向けた。同性でもドキリとする程の美しさに富久扇は言葉が出なかった。

 姫扇は静かに話し始める。

「芸妓がみんな、叶わぬ恋をするわけやないの。だから、富久扇ちゃんはうちとは違う恋をするんえ。ちゃんと身請けしてくれはる旦那はんに出会えたねえさん達もぎょうさんいてはるから」

 どこか諦めの色を帯びた姫扇の言葉だった。富久扇は縋るように言う。

「何言うてはりますの姫扇さんねえさん! 姫扇さんねえさんは、襟かえの支度をぜんぶ請け負ってくれはったいい旦那はんがいらしはったやないの」

 姫扇の身体が微かに震えたようだった。

「おおきに、富久扇ちゃん」

 気遣ってくれる可愛い妹分に姫扇は微笑んだ。その笑みが余りにも哀しげに見え、富久扇は追い縋るように続けた。

「今の時代に襟かえの支度をたった一人で請け負える旦那はんがどれくらいいてはると思いますのん。それだけ姫扇さんねえさんが愛される芸妓というーー」
「富久扇ちゃん」

 富久扇の言葉を姫扇が静かに遮った。

「あの方はね、うちの手が届くような方やないの。うちなんかとは身分が違ごうて、遠い遠い殿方なんえ」

 姫扇はひと息吐いて、小さな掠れ声で呟いていた。

「うちは、叶わぬ恋をする星の下に産まれたんえ」

 タクシーに沈黙が訪れていた。

 目を閉じた姫扇の瞼の裏に、一人の紳士が浮かんでいた。

『姫扇、君はまだ若い。沢山の恋をしなさい』

 右京はん。うちの恋は。

 うちの恋はいつだって、最後の恋と思てするんどす。

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