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武明
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みちるは2人を見比べ、戸惑った。
右京さんのご親戚って、あの人だったの!
思いがけない場所で、密かな想い人に出会えた。でも。
喜びに踊ったみちるの心は一瞬で悲しみの底に落ちた。
私がここにいる理由は知られたくない!
ギュッと目を閉じ、胸元を掴んだみちるの頭を撫でる優しい感触があった。
「この子は私の知人の娘さんだ。ちょっと事情があって少しの間だけ預かっている」
みちるは御幸を見上げた。
〝知人の娘〟。
絶妙な表現だ。完全な嘘ではない。
誤魔化してくださったの。
御幸の微笑みにみちるの心が緩んだ。武明は、ふうん、と思案顔をする。
「おじさんにそんな知人がいるなんて初耳ですね」
軽く、しかしはっきりと訝しがる視線を御幸へ送った武明だったが、「まあいいや」とみちるにニコッと笑ってみせた。
「やっぱり君とは不思議な縁があったという事だ。みちるちゃん、と言ったよね」
名前を覚えていてくれたの。
みちるの心が再び弾む。
全身の体温が一気に上がりそう。
背の高い武明はみちるの目線まで屈み、柔らかく笑いかけた。
「この間、やっと会えて喜んだのも束の間、急に走って行ってしまったから」
胸がキュンと鳴るのをみちるは聞いた。
この感覚は。どうしよう。
「気に、かけてくださっていたんですか」
武明は、少し恥ずかしそうに笑った。
「僕は、何か気に障るような事言ってしまったかとずーっと落ち込んでた」
「えええっ、そ、そんな」
身振り手振りで困惑を表現するみちるに武明はハハハッと笑い出した。
「あ、あの」
「ごめん、驚かせちゃったかな」
明るく爽やかな声に笑顔。眩しさに目を細めたみちるは、胸が強く締め付けられる感覚を覚えた。
この人は、眩しい。
切なさに泣きそうになる。
「でも、気になって仕方なかったのは本当」
肩を竦めて悪戯っぽい笑みを見せ、武明は言う。
「元気だった?」
少し空気が変わった。
優しく柔らかで、しなやかで。溢れ出る気品。
みちるはそっと息を呑む。呼吸を整える。
「私は、元気でした」
それなら良かった、と武明がニコッと微笑んだ時。
「武明」
2人の様子を黙って見守っていた御幸が、静かに口を開いた。
「話があって来たのだろう。書斎で聞こう。来なさい」
顔を上げ、御幸に視線を向けた武明は緊張気味に「はい」と言う。
微かな空気の変化を感じた。
奥の書斎に向かい歩き始めた御幸はみちるに言う。
「みちるはミキエさんに、私の書斎にコーヒーを持って来るように伝えてください」
「はい」と答えたみちるに御幸は優しく微笑みかけ、後に付いて歩き出した武明は「また後で」とウインクしていった。
みちるは、2人の背中が奥の書斎に消えるまで、廊下に佇んでいた。
†††
「駄目だな、アジア圏の株価の変動に対する持論の展開がこれでは弱すぎる。その上、実証も裏付けも甘い。こんな論文ではあちらでは見向きもされない」
壁一面が本棚となり、そこに入りきらない書物が脇にも積まれている。それでもこの書斎が整然と片付いて見えるのは主人がここにある数多くの書籍全てを位置まで把握しているからなのか。
「おじさんはさすがに手厳しいですね。変におだてられるよりはいいですけど……」
書斎に置かれたモダンな設えのダイニングセットに座る御幸は、テーブルを挟み向かい合い座る武明の分厚い論文の添削をしていた。
「武明には誰も的確な指示や鋭い指摘をしてはくれないのだね。そうだな、早く海外に行ってしまった方が良いだろう」
添削を終えた御幸が赤ペンの蓋を閉めながら言う。武明は苦笑いする。
「お祖父様は背中を押してくれたけど、父さんが長期の留学にはなかなか首を縦に振ってくれないんですよ。
僕を必ずお祖父様の後継者にしたくて、あまり長く日本を離れさせたくないみたいです。
どうして、父さんがそんなにお祖父様のポストにこだわるのか僕にはあまりよく分かりません」
叔父貴のポスト、か。御幸は「そうか」とだけ答え腕を組む。
「おじさんからも父さんに会った時はそれとなく話してみてください」
武明の言葉に御幸は失笑する。
「武さんと恵三叔父とで話しをしてもらうのが筋だろう?」
ハハハと笑う武明は「無理ですよ」と言う。
「あの2人は水と油です。永遠に解け合う事はありません。
とにかく、僕は誰かに決められた人生を生きるつもりはないので。
誰の指図も受けませんから」
論文をバッグにしまった武明は、そう言えば、と話題を変えた。
真っ直ぐに御幸を見つめている。
「彼女は、何者なんです」
御幸は武明の、隙のない瞳と向き合った。一瞬の表情の動きも見逃すまい、という感情が伺える。
武明は、ただの〝お育ちの良いお坊ちゃん〟ではない。何処かに、泥臭さすら感じさせる抜け目なさがあった。
御幸はいつも思う。
さすがは恵三叔父の孫。そして――あの男の息子だ。
適当な事で誤魔化されるようなタイプではない。
「悪いが、今はちょっと話せない」
事態がどう転ぶか分からない今は、彼女の事はまだ何も口外出来ない。
御幸は正直に話した。
「そう、ですか」
武明は、腑に落ちない、という表情を見せつつも、それ以上の深追いはしなかった。
御幸はそんな彼に1つ釘を刺す。
「まだ何も始まっていないであろう今だから言っておこう。彼女はやめなさい。君も彼女も苦しむ結果しか待ってはいない――」
それまで穏やかな雰囲気しか感じさせなかった武明が、あからさまな不快感を示した。
「そんな事は、おじさんにとやかく言われる覚えはありませんよ。
僕は、好きになれば迷う事も隠す事もしませんから。
たとえ、相手にどんな秘密があろうと。
さっきも言った通り、僕は、僕が信じた道を行く」
御幸は、ふぅ、とため息を吐いた。
若いエネルギーというものは止められるものではない。
勉強するといい、武明。
いずれ、自分の父がどんな人間かも知るのだろうから。
†††
縁側からほころぶ梅の花を見上げ、みちるは思い切り息を吸い込んだ。
いい香りが、しますよ。
目を閉じる。
巡る季節を一緒に過ごしたのは誰だった?
『ねぇねぇ、保さん! 今日ね、お寺の境内にある梅の花が咲いてたの』
はしゃぐみちるにいつも『もう春なんだね』と保は微笑み返していた。
みちるの、閉じた目蓋の裏に保の優しい笑顔が浮かび、胸がキュッと痛んだ。
あの2人に出会ってから、こんなに離れて過ごしたのは初めてだった。
私の芯に深く深く根差している、星児さんと保さん。
梅の花を見上げるみちるの瞳は、切なさに涙が滲んだ。
2人は私の事どんな風に思いながら過ごして来たんだろう。
恋しくて恋しくて、傍にいたくて離れたくなくて、目を閉じれば浮かぶ。
愛しい。
それは、私だけの感情だったの?
勝手に自分は大事にされていると思っていた。
込み上げる潰されてしまいそうな想いにみちるの視界が曇った。
ずっと忘れていた。
素敵な出会いがあって、その大切な人達に守られていると思い込んで忘れていた。
悲しい過去も、辛い記憶も、一生付いて回るんだ!
みちるは胸元でキラリと光ったペンダントを握りしめた。
こんな私だから。
利用されたとしても構わない。
決めました。
2人の為になら私は何でも出来る。何だってーー、
「みちるちゃん」
背後から、柔らかなトーンの男の優しい声がした。
振り向くと微かに首を傾げて彼女を見つめる武明の姿があった。
「泣いてたの?」
穏やかな物腰でそばに来た武明は、みちるの頬をそっと拭った。
「あ……」
初めて触れた彼の手は、ひんやりと心地よい冷たさだった。みちるの心臓がトクン……ッと脈打つ。
「この家には、君をいじめるような人はいなさそうだけど?」
肩を竦めた武明の瞳がいたずらっ子のようだ。みちるの気持ちを和ませる気遣いである事が分かる。
「いやだ……」
背の高い武明を見上げ、みちるは知らず知らずのうちにこぼれていた涙を指で拭いながらニコッと笑ってみせた。
「すみません、この間は」
自分が何者かを話すわけにいかないから逃げた、なんて言えなかった。かと言って、他に適当な理由などうかばなかった。
けれど、「いいよ、気にしなくて」と応えた柔らかな笑みに見つめられ、みちるの心が少しだけ解れ素直になる。
「思いがけない場所でお会い出来て、ちょっと嬉しい……」
真っ直ぐに見つめて話したみちるに武明はクスッと笑った。
「ちょっとだけ?」
「え、あ、いえ、た、たくさん、かな?」
顔を見合わせて、2人はアハハと笑い出した。
ここに連れて来られてからずっと右京さんと接してきて、なんとなく貴方の面影を感じてた。
それは武明さん、貴方が右京さんと血の繋がりがあったから?
それだけじゃない?
会いたかったから――?
「やっぱり笑顔が一番素敵だけど、ムリに笑う笑顔はちょっとこちらが辛いかな」
「え……?」
静かに真っ直ぐに見つめる瞳に捉えられみちるも武明の視線と向き合う。
「もし勘違いだったらごめん。でもね、悲しい時は、ムリに笑わなくていいんだよ」
静かに言った武明の言葉が終わった時、みちるの顔に影が出来た。
ほんの一瞬。風のように、微かに触れた唇。
「武明様ーー、もうお帰りになられたかしら? お車はまだあるのに」
母屋の玄関からミキエの声がした。サッと離れた武明は答える。
「すみません、先程、おじさんとの話が終わって縁側にいます」
武明はみちるの頭をそっとひと撫でし、ミキエの元へ行った。
武明の声が梅の縁側にいるみちるの耳にも届く。
「今日はこれから研究室のゼミと講義があるから直ぐに大学戻らなきゃいけないので。おじさんにどうしても目を通して欲しい留学関係書類をお渡ししたのでまた後日来ます!」
留学、するんだ。
みちるの胸に絞まるような小さな痛みを与えた。
今、一瞬触れた唇の感触を確かめるように指で軽く自らの唇に触れる。
キスの意味は、何だろう。ねぇ、保さん。
みちるの中に無意識に、保の姿がフッと浮かび、消えた。
いつまでも佇むみちるの元へ、風が…梅の花の香りを辺りに運んでいた。
†††
右京さんのご親戚って、あの人だったの!
思いがけない場所で、密かな想い人に出会えた。でも。
喜びに踊ったみちるの心は一瞬で悲しみの底に落ちた。
私がここにいる理由は知られたくない!
ギュッと目を閉じ、胸元を掴んだみちるの頭を撫でる優しい感触があった。
「この子は私の知人の娘さんだ。ちょっと事情があって少しの間だけ預かっている」
みちるは御幸を見上げた。
〝知人の娘〟。
絶妙な表現だ。完全な嘘ではない。
誤魔化してくださったの。
御幸の微笑みにみちるの心が緩んだ。武明は、ふうん、と思案顔をする。
「おじさんにそんな知人がいるなんて初耳ですね」
軽く、しかしはっきりと訝しがる視線を御幸へ送った武明だったが、「まあいいや」とみちるにニコッと笑ってみせた。
「やっぱり君とは不思議な縁があったという事だ。みちるちゃん、と言ったよね」
名前を覚えていてくれたの。
みちるの心が再び弾む。
全身の体温が一気に上がりそう。
背の高い武明はみちるの目線まで屈み、柔らかく笑いかけた。
「この間、やっと会えて喜んだのも束の間、急に走って行ってしまったから」
胸がキュンと鳴るのをみちるは聞いた。
この感覚は。どうしよう。
「気に、かけてくださっていたんですか」
武明は、少し恥ずかしそうに笑った。
「僕は、何か気に障るような事言ってしまったかとずーっと落ち込んでた」
「えええっ、そ、そんな」
身振り手振りで困惑を表現するみちるに武明はハハハッと笑い出した。
「あ、あの」
「ごめん、驚かせちゃったかな」
明るく爽やかな声に笑顔。眩しさに目を細めたみちるは、胸が強く締め付けられる感覚を覚えた。
この人は、眩しい。
切なさに泣きそうになる。
「でも、気になって仕方なかったのは本当」
肩を竦めて悪戯っぽい笑みを見せ、武明は言う。
「元気だった?」
少し空気が変わった。
優しく柔らかで、しなやかで。溢れ出る気品。
みちるはそっと息を呑む。呼吸を整える。
「私は、元気でした」
それなら良かった、と武明がニコッと微笑んだ時。
「武明」
2人の様子を黙って見守っていた御幸が、静かに口を開いた。
「話があって来たのだろう。書斎で聞こう。来なさい」
顔を上げ、御幸に視線を向けた武明は緊張気味に「はい」と言う。
微かな空気の変化を感じた。
奥の書斎に向かい歩き始めた御幸はみちるに言う。
「みちるはミキエさんに、私の書斎にコーヒーを持って来るように伝えてください」
「はい」と答えたみちるに御幸は優しく微笑みかけ、後に付いて歩き出した武明は「また後で」とウインクしていった。
みちるは、2人の背中が奥の書斎に消えるまで、廊下に佇んでいた。
†††
「駄目だな、アジア圏の株価の変動に対する持論の展開がこれでは弱すぎる。その上、実証も裏付けも甘い。こんな論文ではあちらでは見向きもされない」
壁一面が本棚となり、そこに入りきらない書物が脇にも積まれている。それでもこの書斎が整然と片付いて見えるのは主人がここにある数多くの書籍全てを位置まで把握しているからなのか。
「おじさんはさすがに手厳しいですね。変におだてられるよりはいいですけど……」
書斎に置かれたモダンな設えのダイニングセットに座る御幸は、テーブルを挟み向かい合い座る武明の分厚い論文の添削をしていた。
「武明には誰も的確な指示や鋭い指摘をしてはくれないのだね。そうだな、早く海外に行ってしまった方が良いだろう」
添削を終えた御幸が赤ペンの蓋を閉めながら言う。武明は苦笑いする。
「お祖父様は背中を押してくれたけど、父さんが長期の留学にはなかなか首を縦に振ってくれないんですよ。
僕を必ずお祖父様の後継者にしたくて、あまり長く日本を離れさせたくないみたいです。
どうして、父さんがそんなにお祖父様のポストにこだわるのか僕にはあまりよく分かりません」
叔父貴のポスト、か。御幸は「そうか」とだけ答え腕を組む。
「おじさんからも父さんに会った時はそれとなく話してみてください」
武明の言葉に御幸は失笑する。
「武さんと恵三叔父とで話しをしてもらうのが筋だろう?」
ハハハと笑う武明は「無理ですよ」と言う。
「あの2人は水と油です。永遠に解け合う事はありません。
とにかく、僕は誰かに決められた人生を生きるつもりはないので。
誰の指図も受けませんから」
論文をバッグにしまった武明は、そう言えば、と話題を変えた。
真っ直ぐに御幸を見つめている。
「彼女は、何者なんです」
御幸は武明の、隙のない瞳と向き合った。一瞬の表情の動きも見逃すまい、という感情が伺える。
武明は、ただの〝お育ちの良いお坊ちゃん〟ではない。何処かに、泥臭さすら感じさせる抜け目なさがあった。
御幸はいつも思う。
さすがは恵三叔父の孫。そして――あの男の息子だ。
適当な事で誤魔化されるようなタイプではない。
「悪いが、今はちょっと話せない」
事態がどう転ぶか分からない今は、彼女の事はまだ何も口外出来ない。
御幸は正直に話した。
「そう、ですか」
武明は、腑に落ちない、という表情を見せつつも、それ以上の深追いはしなかった。
御幸はそんな彼に1つ釘を刺す。
「まだ何も始まっていないであろう今だから言っておこう。彼女はやめなさい。君も彼女も苦しむ結果しか待ってはいない――」
それまで穏やかな雰囲気しか感じさせなかった武明が、あからさまな不快感を示した。
「そんな事は、おじさんにとやかく言われる覚えはありませんよ。
僕は、好きになれば迷う事も隠す事もしませんから。
たとえ、相手にどんな秘密があろうと。
さっきも言った通り、僕は、僕が信じた道を行く」
御幸は、ふぅ、とため息を吐いた。
若いエネルギーというものは止められるものではない。
勉強するといい、武明。
いずれ、自分の父がどんな人間かも知るのだろうから。
†††
縁側からほころぶ梅の花を見上げ、みちるは思い切り息を吸い込んだ。
いい香りが、しますよ。
目を閉じる。
巡る季節を一緒に過ごしたのは誰だった?
『ねぇねぇ、保さん! 今日ね、お寺の境内にある梅の花が咲いてたの』
はしゃぐみちるにいつも『もう春なんだね』と保は微笑み返していた。
みちるの、閉じた目蓋の裏に保の優しい笑顔が浮かび、胸がキュッと痛んだ。
あの2人に出会ってから、こんなに離れて過ごしたのは初めてだった。
私の芯に深く深く根差している、星児さんと保さん。
梅の花を見上げるみちるの瞳は、切なさに涙が滲んだ。
2人は私の事どんな風に思いながら過ごして来たんだろう。
恋しくて恋しくて、傍にいたくて離れたくなくて、目を閉じれば浮かぶ。
愛しい。
それは、私だけの感情だったの?
勝手に自分は大事にされていると思っていた。
込み上げる潰されてしまいそうな想いにみちるの視界が曇った。
ずっと忘れていた。
素敵な出会いがあって、その大切な人達に守られていると思い込んで忘れていた。
悲しい過去も、辛い記憶も、一生付いて回るんだ!
みちるは胸元でキラリと光ったペンダントを握りしめた。
こんな私だから。
利用されたとしても構わない。
決めました。
2人の為になら私は何でも出来る。何だってーー、
「みちるちゃん」
背後から、柔らかなトーンの男の優しい声がした。
振り向くと微かに首を傾げて彼女を見つめる武明の姿があった。
「泣いてたの?」
穏やかな物腰でそばに来た武明は、みちるの頬をそっと拭った。
「あ……」
初めて触れた彼の手は、ひんやりと心地よい冷たさだった。みちるの心臓がトクン……ッと脈打つ。
「この家には、君をいじめるような人はいなさそうだけど?」
肩を竦めた武明の瞳がいたずらっ子のようだ。みちるの気持ちを和ませる気遣いである事が分かる。
「いやだ……」
背の高い武明を見上げ、みちるは知らず知らずのうちにこぼれていた涙を指で拭いながらニコッと笑ってみせた。
「すみません、この間は」
自分が何者かを話すわけにいかないから逃げた、なんて言えなかった。かと言って、他に適当な理由などうかばなかった。
けれど、「いいよ、気にしなくて」と応えた柔らかな笑みに見つめられ、みちるの心が少しだけ解れ素直になる。
「思いがけない場所でお会い出来て、ちょっと嬉しい……」
真っ直ぐに見つめて話したみちるに武明はクスッと笑った。
「ちょっとだけ?」
「え、あ、いえ、た、たくさん、かな?」
顔を見合わせて、2人はアハハと笑い出した。
ここに連れて来られてからずっと右京さんと接してきて、なんとなく貴方の面影を感じてた。
それは武明さん、貴方が右京さんと血の繋がりがあったから?
それだけじゃない?
会いたかったから――?
「やっぱり笑顔が一番素敵だけど、ムリに笑う笑顔はちょっとこちらが辛いかな」
「え……?」
静かに真っ直ぐに見つめる瞳に捉えられみちるも武明の視線と向き合う。
「もし勘違いだったらごめん。でもね、悲しい時は、ムリに笑わなくていいんだよ」
静かに言った武明の言葉が終わった時、みちるの顔に影が出来た。
ほんの一瞬。風のように、微かに触れた唇。
「武明様ーー、もうお帰りになられたかしら? お車はまだあるのに」
母屋の玄関からミキエの声がした。サッと離れた武明は答える。
「すみません、先程、おじさんとの話が終わって縁側にいます」
武明はみちるの頭をそっとひと撫でし、ミキエの元へ行った。
武明の声が梅の縁側にいるみちるの耳にも届く。
「今日はこれから研究室のゼミと講義があるから直ぐに大学戻らなきゃいけないので。おじさんにどうしても目を通して欲しい留学関係書類をお渡ししたのでまた後日来ます!」
留学、するんだ。
みちるの胸に絞まるような小さな痛みを与えた。
今、一瞬触れた唇の感触を確かめるように指で軽く自らの唇に触れる。
キスの意味は、何だろう。ねぇ、保さん。
みちるの中に無意識に、保の姿がフッと浮かび、消えた。
いつまでも佇むみちるの元へ、風が…梅の花の香りを辺りに運んでいた。
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