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『好きなんだ?』
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ふらふらとベンチに座り込んだわたしの傍で、ケンさんは受け付けの南さんに声を掛けた。
「コイツ、パンプするからアイシング頼む」
ぱんぷ?
あいしんぐ?
首を傾げたわたしにケンさん、フッと笑いかけた。
「ここと足、冷やしてもらうんだ」
ケンさんはそう言ってわたしの腕に触れた。
「パンプっていうのは、パンプアップって言う言葉の略で、筋肉が腫れあがることを言うんだ。お嬢は今日、使ったことないような筋肉使ったろ。それをそのままにしておくと、筋肉痛めてしまうから、アイシング、といって冷やしてクールダウンさせるんだ。お嬢は、今日はこれで終わりにしてゆっくりアイシングして休んでろ」
わたしは、ケンさんに触れられてる、っていう緊張から来る強張りの方が、筋肉に悪そうです、と心中で呟きながらも、うん、って頷いた。
南さんが、クリアケースのような入れ物に氷水を入れて持ってきてくれて、わたしが座るベンチの前のテーブルに置いた。
「これに、両腕を入れて」
言われるがままに両手を曲げた状態で冷たいお水の中に腕全体が浸かるように入れた。
つめた……。
顔をしかめたわたしに、ケンさんクスリと笑って言った。
「我慢しろ。こうすれば、明日は多少楽になる」
あ、確かに、火照ってパンパンになっていた腕から、少しずつ熱が抜けていく感じがあって、気持ちよくなってきた。
南さんが「ちょっとごめんね」と言いながら足にひんやりするスプレーをしてくれた。足も楽になってくる。
「これで、明日は筋肉痛になったりしない?」
「それはないな。お嬢、あきらかに運動不足だろ。明日は腕が上がらないし階段は地獄かもな」
えー。
ガックリしながら隣に座ったケンさんを見ると、ケンさんはアイシングどころか、手にテーピングを巻き始めた。
あれ?
「ケンさん、登るの?」
「ああ。お嬢が頑張ったのを見たら、俺も、って思ってさ」
白い歯を見せていたずらっ子みたいに笑ったケンさんを見てわたしの胸が破裂しそうない勢いで跳ねた。
少年みたいに輝く目は、クライミングが本当に好きなんだって語り掛けている。わたしはその、ケンさんの大好きなもののほんの端っこでも触れる事が出来ましたか?
立ち上がったケンさんが軽く腕を回して準備運動していると、東堂さんが湿布薬を持ってきた。
「ひまりちゃん、これ持って帰っていいよ。きっと数日苦しむから」
「え、そんなにたくさんいただいちゃったら申し訳ないです。お金、払います」
戸惑いを分かりやすく顔に出したわたしに東堂さんとケンさんが笑う。
「いいよ、今日は〝実験台〟になってもらっちゃったから」
じっけんだい……。東堂さんの言葉に苦笑いをこぼしたわたしにケンさんも言う。
「こっちが想定していた以上の働きをしてくれて助かったしな」
アハハと笑うしかない。ケンさんの為だから、という言葉は呑み込みます。
「じゃあ、俺はこれからあっち登ってくるからお嬢はもう少しそうしてろよ」
「はい」
腕を付ける氷水が、ぱちゃんと音を立てるのを感じながら、わたしはケンさんのスラッとした後ろ姿を見つめていた。
ケンさんはわたしがさっき登った壁とは違う、切り立った崖のような壁の前に立った。
上の方は床面に直角とかじゃない。逆45度です。それは、どうやって登るの? そこを登り切るのは万有引力の法則に逆行する行為と思うのだけど。
テーピングを巻いた手に滑り止めのチョーク付けながらを壁を見上げるケンさんの真剣な横顔にドキドキした。あのお顔は、本当に好きなことする時のお顔なんだね、きっと。
詰まりそうな胸に、息が苦しくなる。そっと深呼吸をした。
登り始めたケンさんが、迫ってくるように倒れ掛かっている壁に向かう。果敢に挑むケンさんの横顔が見えた。
時折、指しか掛からないんじゃないかな、っていうくらい小さなホールドに片手のみでぶら下がる。でも、少しも危なっかしくないの。まるで何かに吊られているみたいに安定してる。
真剣な表情の中の瞳は、先へ、先へと見つめてる。腕の筋肉が、隆起して凄い。スリムに見えるのにケンさんの身体には、こんな秘密があったんだ。
綺麗。
ふっと、そう思った。
前しかみていない真っ直ぐな瞳も、流れる汗も、ボツボツの壁すらも、すべてが一体となって、全部綺麗、そう思った。
ケンさんの全てに、ドキドキする。
触れたい、って自然に思った自分に驚いた。
手を、伸ばしたい。さっき、ホールドに手を伸ばしたみたいに、必死に手を伸ばしたら、ケンさんに届きますか。
苦しくて、胸が痛くて、涙が出てきそうになった。
今日、あなたと一緒に過ごして、分かった事があります。
わたしは、あなたを好きになっていたんです。
いつから? もうずっと前から。
そう、あの、桜のトンネルの向こうで出会ったあの日から。わたしはケンさんが――、
「ケンが好きなんだ?」
わたしの心をそのまま読んだような声に、びっくりして振り向いた。視線の先には、南さんの笑みがあった。
「あの、えっと」
一気にドキドキと戸惑いに呑み込まれたわたしは水からバシャッと手を出してしまった。南さんは「そのままそのまま」としなやかな手で再び水の中に戻してくれて、笑った。
「あなた、とっても分かりやすい」
冷やしているはずなのに、熱い。多分、氷を一気に溶かしてしまうくらい。
俯いたわたしの耳に、南さんのフフっという笑い声が滑り込んだ。顔を上げると、南さんの視線は壁を登るケンさんに向けられていた。
ケンさんを見つめる南さんは、眩し気に目を細めている。何とも言えないその表情には、どんな感情が隠されているのかな、って考えると胸がギュッと苦しくなった。
改めて、知った。ケンさんの周りには、たくさんの女の人がいるんだってこと。
わたしは、どうしたらいいのかな。
「コイツ、パンプするからアイシング頼む」
ぱんぷ?
あいしんぐ?
首を傾げたわたしにケンさん、フッと笑いかけた。
「ここと足、冷やしてもらうんだ」
ケンさんはそう言ってわたしの腕に触れた。
「パンプっていうのは、パンプアップって言う言葉の略で、筋肉が腫れあがることを言うんだ。お嬢は今日、使ったことないような筋肉使ったろ。それをそのままにしておくと、筋肉痛めてしまうから、アイシング、といって冷やしてクールダウンさせるんだ。お嬢は、今日はこれで終わりにしてゆっくりアイシングして休んでろ」
わたしは、ケンさんに触れられてる、っていう緊張から来る強張りの方が、筋肉に悪そうです、と心中で呟きながらも、うん、って頷いた。
南さんが、クリアケースのような入れ物に氷水を入れて持ってきてくれて、わたしが座るベンチの前のテーブルに置いた。
「これに、両腕を入れて」
言われるがままに両手を曲げた状態で冷たいお水の中に腕全体が浸かるように入れた。
つめた……。
顔をしかめたわたしに、ケンさんクスリと笑って言った。
「我慢しろ。こうすれば、明日は多少楽になる」
あ、確かに、火照ってパンパンになっていた腕から、少しずつ熱が抜けていく感じがあって、気持ちよくなってきた。
南さんが「ちょっとごめんね」と言いながら足にひんやりするスプレーをしてくれた。足も楽になってくる。
「これで、明日は筋肉痛になったりしない?」
「それはないな。お嬢、あきらかに運動不足だろ。明日は腕が上がらないし階段は地獄かもな」
えー。
ガックリしながら隣に座ったケンさんを見ると、ケンさんはアイシングどころか、手にテーピングを巻き始めた。
あれ?
「ケンさん、登るの?」
「ああ。お嬢が頑張ったのを見たら、俺も、って思ってさ」
白い歯を見せていたずらっ子みたいに笑ったケンさんを見てわたしの胸が破裂しそうない勢いで跳ねた。
少年みたいに輝く目は、クライミングが本当に好きなんだって語り掛けている。わたしはその、ケンさんの大好きなもののほんの端っこでも触れる事が出来ましたか?
立ち上がったケンさんが軽く腕を回して準備運動していると、東堂さんが湿布薬を持ってきた。
「ひまりちゃん、これ持って帰っていいよ。きっと数日苦しむから」
「え、そんなにたくさんいただいちゃったら申し訳ないです。お金、払います」
戸惑いを分かりやすく顔に出したわたしに東堂さんとケンさんが笑う。
「いいよ、今日は〝実験台〟になってもらっちゃったから」
じっけんだい……。東堂さんの言葉に苦笑いをこぼしたわたしにケンさんも言う。
「こっちが想定していた以上の働きをしてくれて助かったしな」
アハハと笑うしかない。ケンさんの為だから、という言葉は呑み込みます。
「じゃあ、俺はこれからあっち登ってくるからお嬢はもう少しそうしてろよ」
「はい」
腕を付ける氷水が、ぱちゃんと音を立てるのを感じながら、わたしはケンさんのスラッとした後ろ姿を見つめていた。
ケンさんはわたしがさっき登った壁とは違う、切り立った崖のような壁の前に立った。
上の方は床面に直角とかじゃない。逆45度です。それは、どうやって登るの? そこを登り切るのは万有引力の法則に逆行する行為と思うのだけど。
テーピングを巻いた手に滑り止めのチョーク付けながらを壁を見上げるケンさんの真剣な横顔にドキドキした。あのお顔は、本当に好きなことする時のお顔なんだね、きっと。
詰まりそうな胸に、息が苦しくなる。そっと深呼吸をした。
登り始めたケンさんが、迫ってくるように倒れ掛かっている壁に向かう。果敢に挑むケンさんの横顔が見えた。
時折、指しか掛からないんじゃないかな、っていうくらい小さなホールドに片手のみでぶら下がる。でも、少しも危なっかしくないの。まるで何かに吊られているみたいに安定してる。
真剣な表情の中の瞳は、先へ、先へと見つめてる。腕の筋肉が、隆起して凄い。スリムに見えるのにケンさんの身体には、こんな秘密があったんだ。
綺麗。
ふっと、そう思った。
前しかみていない真っ直ぐな瞳も、流れる汗も、ボツボツの壁すらも、すべてが一体となって、全部綺麗、そう思った。
ケンさんの全てに、ドキドキする。
触れたい、って自然に思った自分に驚いた。
手を、伸ばしたい。さっき、ホールドに手を伸ばしたみたいに、必死に手を伸ばしたら、ケンさんに届きますか。
苦しくて、胸が痛くて、涙が出てきそうになった。
今日、あなたと一緒に過ごして、分かった事があります。
わたしは、あなたを好きになっていたんです。
いつから? もうずっと前から。
そう、あの、桜のトンネルの向こうで出会ったあの日から。わたしはケンさんが――、
「ケンが好きなんだ?」
わたしの心をそのまま読んだような声に、びっくりして振り向いた。視線の先には、南さんの笑みがあった。
「あの、えっと」
一気にドキドキと戸惑いに呑み込まれたわたしは水からバシャッと手を出してしまった。南さんは「そのままそのまま」としなやかな手で再び水の中に戻してくれて、笑った。
「あなた、とっても分かりやすい」
冷やしているはずなのに、熱い。多分、氷を一気に溶かしてしまうくらい。
俯いたわたしの耳に、南さんのフフっという笑い声が滑り込んだ。顔を上げると、南さんの視線は壁を登るケンさんに向けられていた。
ケンさんを見つめる南さんは、眩し気に目を細めている。何とも言えないその表情には、どんな感情が隠されているのかな、って考えると胸がギュッと苦しくなった。
改めて、知った。ケンさんの周りには、たくさんの女の人がいるんだってこと。
わたしは、どうしたらいいのかな。
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