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白紫陽花のお寺
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「まったく。ほら」
「ごめんなさい」
呆れるおケイちゃんに渡されたティッシュで、鼻をかむ。
その人は全てを優しく包み込むような笑みを浮かべて、鮮やかな色のアイスグリーンティーを出してくれた。
ホタル焼きの白い湯呑み茶碗に綺麗な緑色。とても初夏らしい。さり気ない季節感は、その人をふんわりと表現している。
「どうぞ」
しなやかな仕草と共にお茶を勧めてくださる柔らかな声が心に沁みた。
案内されたのは、お寺の境内の中、本堂の裏手にあるお住まいだった。広いリビングは洋風の造りで、大きな窓から日差しが入る明るい部屋だった。
「昨日、お声掛けてくださったらよかったのに」
その人は、肩をすくめて笑った。
「いえ、そんな。なんだか、お邪魔、したら申し訳ないって思って」
「そういう雰囲気に見えたんですって、りっちゃん先輩」
おケイちゃん、なんだか含みのある言い方ですよ。
俯きながらおケイちゃんを盗み見たけれど、表情はちょっと分からなかった。
この女性、〝りっちゃん先輩〟は宮部律子さん。
おケイちゃんが教えてくれた。
「ケンさんのおねえさんだよ。そしてこのお寺は、ケンさんのご実家。今日は、安産祈願をお願いしていたの」
安産祈願って、神社さんだけでなく、お寺さんでもしてくれるのだとか。……というか。
ケンさんは、お寺の息子さんだったという事実を、今初めて知りました。
改めて、わたしはケンさんの事を知らない、という事実を突きつけられて、そして、わたしが色々邪推して勝手に心グチャグチャにしてしまっていたそのお相手がお姉さんだった、という事とか。
わたしはやっぱりまだまだケンさんに名前で呼んでもらえるような女性にはなれないのかもしれません。
項垂れてしまったわたしに、律子さんがフフッと笑った。
「ケンったら、教えてくれたらよかったのに。こんな可愛い恋人さんが出来たこと」
ドキッとした。
「いえ、まだそんな」
慌てて訂正しようとしたら、おケイちゃんが横から遮るように話し出した
「りっちゃん先輩。ケンさんにとってひまりは今までとは違うから。だから、りっちゃん先輩もちゃんと吹っ切って後ろ振り向かないで前に進んで」
おケイちゃんの言葉の意味、わたしには分からなかったけれど、律子さんは「そうね」と肩を竦めて小さく笑った。その笑顔が、なんだか寂しげに見えて胸がチクンと痛くなった。
「おケイちゃんは、相変わらず厳しいの」
「私はウジウジ後ろばかり向いている人見ると蹴り飛ばしたくなるの」
「いやだ、私なんて真っ先に蹴り飛ばされちゃう」
「自覚してるの。最悪だわ」
律子さんは、おケイちゃんの高校時代の部活の先輩だったそう。二人の軽快な掛け合いに圧倒されて、脇で黙って見つめていたわたしだったけれど、ずっと何かが引っ掛かった。
なんでだろう。どこかしっくりと来ないの。何が、どうしてなのかは釈然とはしないのだけど、胸の中に忘れている何かがあるような気がするの。
「りっちゃん先輩自身が決めた人生なんだからね」
ちょっと強めのおケイちゃんの口調に、律子さんはアハハと乾いた笑いを零した。
「そう、そうね。私はもう前に進まないとね。ケンにも迷惑、掛けちゃダメだよね」
律子さん、ケンさんのお姉さんなんだよね? どうしてか、律子さんの〝ケンさん〟って呼ぶ声に甘さが滲んで聞こえるの。
気のせいだよね?
律子さんが、お顔をわたしに向けた。同性でもドキッとしてしまうくらい優美な笑みがわたしの胸を締め付ける。
「ケンをよろしくね」
「あ、いえそんな、」
よろしくだなんて、と言おうとした時、部屋に上品なおば様が姿を見せた。
「慶子ちゃん、いらっしゃい!」
「お邪魔してます。おば様」
おケイちゃんは頭を下げながら、わたしに小声で言った。
「ケンさんのお母様」
ケンさんのお母様!
わたしは慌てて立ち上がっておケイちゃんと一緒に頭を下げた。
「あら、そちらは?」
不思議そうにわたしを見たお母様に、わたしは挨拶をした。
「わたしは、鯉沢ひまりと申します。ケンさ……君とは大学が一緒で、親しくさせていただいてます」
「まあ、こんな可愛いお嬢さんが賢の。これからも仲良くしてくださいね」
とても品があって綺麗なお母様。顔立ちはちょうどケンさんを柔らかく、丸くした感じだった。
ケンさんはお母様似だった。ケンさんの事、一つ知る事が出来て嬉しいのに、やっぱり胸のつかえが取れない。
わたし、何かを忘れている気がするの。肝心な、なにかを。
「そうそう、慶子ちゃん。本堂に準備が出来ているから、いらっしゃいな」
話していたお母様は思い出したように言った。おケイちゃんがそれに応える。
「お願いします。ごめん、ひまり、直ぐに終わるからちょっとこちらで待たせてもらっていて」
「あ、うん」
結局、律子さんもお母様に「来て」と言われ、広いリビングにわたし一人になってしまった。
なんだか、気落ちがそわそわする。落ち着かない。
一つ深呼吸して、ゆっくりと周りを見た。
ここは、ケンさんの育った家。そう考えて、もう一度深呼吸した。
高校時代、ううん、もっとずっと前のケンさんの息吹が残っているような気がしてドキドキした。
あ、でも。とわたしは一つ思い出す。ケンさんは、今一人暮らしているんだ。
どうしてだろう。ここからなら、通えるのに。どうしてわざわざ。
お部屋を見回したわたしは、家族写真が幾枚か飾られた一角がある事に気づいた。
並んで写る二人の男の子の成長記録である事が伺えて、気になってしまったわたしはよく見えるところまで近くづいた。
「あ……」
幼稚園、小学校、中学校、高校、と成長していた写真の中の兄弟に、わたしは声を漏らした。
ケンさんが、二人。ううん、愛らしい姿を見せる幼稚園時代から凛々しく成長していく瓜二つの兄弟だった。
ケンさんは、双子だった?
『宮部君は、お兄さんを亡くしていてね』
先生の言葉が蘇る。
飾られる写真は、ご両親と一緒に写るものもあったけれど二人の兄弟のものがほとんどだった。
多分、亡くなられたケンさんのお兄さんというのは、双子のお兄さんの事だ。
そしてわたしは、この写真群の中の足りない〝何か〟に後から気付く事になる。その意味と一緒に。
「ごめんなさい」
呆れるおケイちゃんに渡されたティッシュで、鼻をかむ。
その人は全てを優しく包み込むような笑みを浮かべて、鮮やかな色のアイスグリーンティーを出してくれた。
ホタル焼きの白い湯呑み茶碗に綺麗な緑色。とても初夏らしい。さり気ない季節感は、その人をふんわりと表現している。
「どうぞ」
しなやかな仕草と共にお茶を勧めてくださる柔らかな声が心に沁みた。
案内されたのは、お寺の境内の中、本堂の裏手にあるお住まいだった。広いリビングは洋風の造りで、大きな窓から日差しが入る明るい部屋だった。
「昨日、お声掛けてくださったらよかったのに」
その人は、肩をすくめて笑った。
「いえ、そんな。なんだか、お邪魔、したら申し訳ないって思って」
「そういう雰囲気に見えたんですって、りっちゃん先輩」
おケイちゃん、なんだか含みのある言い方ですよ。
俯きながらおケイちゃんを盗み見たけれど、表情はちょっと分からなかった。
この女性、〝りっちゃん先輩〟は宮部律子さん。
おケイちゃんが教えてくれた。
「ケンさんのおねえさんだよ。そしてこのお寺は、ケンさんのご実家。今日は、安産祈願をお願いしていたの」
安産祈願って、神社さんだけでなく、お寺さんでもしてくれるのだとか。……というか。
ケンさんは、お寺の息子さんだったという事実を、今初めて知りました。
改めて、わたしはケンさんの事を知らない、という事実を突きつけられて、そして、わたしが色々邪推して勝手に心グチャグチャにしてしまっていたそのお相手がお姉さんだった、という事とか。
わたしはやっぱりまだまだケンさんに名前で呼んでもらえるような女性にはなれないのかもしれません。
項垂れてしまったわたしに、律子さんがフフッと笑った。
「ケンったら、教えてくれたらよかったのに。こんな可愛い恋人さんが出来たこと」
ドキッとした。
「いえ、まだそんな」
慌てて訂正しようとしたら、おケイちゃんが横から遮るように話し出した
「りっちゃん先輩。ケンさんにとってひまりは今までとは違うから。だから、りっちゃん先輩もちゃんと吹っ切って後ろ振り向かないで前に進んで」
おケイちゃんの言葉の意味、わたしには分からなかったけれど、律子さんは「そうね」と肩を竦めて小さく笑った。その笑顔が、なんだか寂しげに見えて胸がチクンと痛くなった。
「おケイちゃんは、相変わらず厳しいの」
「私はウジウジ後ろばかり向いている人見ると蹴り飛ばしたくなるの」
「いやだ、私なんて真っ先に蹴り飛ばされちゃう」
「自覚してるの。最悪だわ」
律子さんは、おケイちゃんの高校時代の部活の先輩だったそう。二人の軽快な掛け合いに圧倒されて、脇で黙って見つめていたわたしだったけれど、ずっと何かが引っ掛かった。
なんでだろう。どこかしっくりと来ないの。何が、どうしてなのかは釈然とはしないのだけど、胸の中に忘れている何かがあるような気がするの。
「りっちゃん先輩自身が決めた人生なんだからね」
ちょっと強めのおケイちゃんの口調に、律子さんはアハハと乾いた笑いを零した。
「そう、そうね。私はもう前に進まないとね。ケンにも迷惑、掛けちゃダメだよね」
律子さん、ケンさんのお姉さんなんだよね? どうしてか、律子さんの〝ケンさん〟って呼ぶ声に甘さが滲んで聞こえるの。
気のせいだよね?
律子さんが、お顔をわたしに向けた。同性でもドキッとしてしまうくらい優美な笑みがわたしの胸を締め付ける。
「ケンをよろしくね」
「あ、いえそんな、」
よろしくだなんて、と言おうとした時、部屋に上品なおば様が姿を見せた。
「慶子ちゃん、いらっしゃい!」
「お邪魔してます。おば様」
おケイちゃんは頭を下げながら、わたしに小声で言った。
「ケンさんのお母様」
ケンさんのお母様!
わたしは慌てて立ち上がっておケイちゃんと一緒に頭を下げた。
「あら、そちらは?」
不思議そうにわたしを見たお母様に、わたしは挨拶をした。
「わたしは、鯉沢ひまりと申します。ケンさ……君とは大学が一緒で、親しくさせていただいてます」
「まあ、こんな可愛いお嬢さんが賢の。これからも仲良くしてくださいね」
とても品があって綺麗なお母様。顔立ちはちょうどケンさんを柔らかく、丸くした感じだった。
ケンさんはお母様似だった。ケンさんの事、一つ知る事が出来て嬉しいのに、やっぱり胸のつかえが取れない。
わたし、何かを忘れている気がするの。肝心な、なにかを。
「そうそう、慶子ちゃん。本堂に準備が出来ているから、いらっしゃいな」
話していたお母様は思い出したように言った。おケイちゃんがそれに応える。
「お願いします。ごめん、ひまり、直ぐに終わるからちょっとこちらで待たせてもらっていて」
「あ、うん」
結局、律子さんもお母様に「来て」と言われ、広いリビングにわたし一人になってしまった。
なんだか、気落ちがそわそわする。落ち着かない。
一つ深呼吸して、ゆっくりと周りを見た。
ここは、ケンさんの育った家。そう考えて、もう一度深呼吸した。
高校時代、ううん、もっとずっと前のケンさんの息吹が残っているような気がしてドキドキした。
あ、でも。とわたしは一つ思い出す。ケンさんは、今一人暮らしているんだ。
どうしてだろう。ここからなら、通えるのに。どうしてわざわざ。
お部屋を見回したわたしは、家族写真が幾枚か飾られた一角がある事に気づいた。
並んで写る二人の男の子の成長記録である事が伺えて、気になってしまったわたしはよく見えるところまで近くづいた。
「あ……」
幼稚園、小学校、中学校、高校、と成長していた写真の中の兄弟に、わたしは声を漏らした。
ケンさんが、二人。ううん、愛らしい姿を見せる幼稚園時代から凛々しく成長していく瓜二つの兄弟だった。
ケンさんは、双子だった?
『宮部君は、お兄さんを亡くしていてね』
先生の言葉が蘇る。
飾られる写真は、ご両親と一緒に写るものもあったけれど二人の兄弟のものがほとんどだった。
多分、亡くなられたケンさんのお兄さんというのは、双子のお兄さんの事だ。
そしてわたしは、この写真群の中の足りない〝何か〟に後から気付く事になる。その意味と一緒に。
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