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ひまりの決断2
しおりを挟む開いていなかったケンさんからのメッセージを、今朝、ニュースを観てから開いた。
『急遽、奥穂高に登る事になった。登っていた後輩の下山が予定よりちょっと遅くなっているんだ。ソイツら迎えに行ってくる。戻ったらお嬢に話したい事がある。だから、必ず戻る。いい子で待っていろよ』
いい子で待ってろ、って。どういう意味ですか。わたしがどんな悪い事すると思ってるんですか、ケンさん。
不安に押し潰されそうなな気持ちを紛らわそうとここにはいないケンさんに訴えてみたりする。
現状が見えて来て、ケンさんのメッセージの意味がわたしの中で消化された。ケンさんは、決して穏やかとは言えない山の中に入って行くつもりなんだ。
ケンさん、ケンさん!
叫びたい。体の底から声を出して、ケンさん! って呼びたい。
わたしもケンさんに沢山伝えたい事があります!
律子さんの表情の中に交錯するのは苦悩とか悲哀と思っていたけれど、その中にもう一つ別の感情が微かに滲んで見えた気がしたのだけど、それは諦めの色だったのかもしれない。
律子さんは、昨日、既に現地にいたケンさんと電話でお話ししたという。
「あなたの事を、ケンに聞いたの。単刀直入に、ストレートにね」
「わたしの、事を?」
「そう」と頷き微笑んだ律子さんの表情がわたしの胸を締め付ける。この人は、どうしてこんなに美しいのだろう。
わたしの持っていないものを全て持っている人に思えた。こんな人になら、ケンさんは本気になるの? 苦しくなる胸にそっと深呼吸して空気を入れる。
「私自身が、前に進む為にね」
律子さんが前に進む為? 直ぐには意味が理解できない。言葉が遠い、って思った。
律子さんは運ばれて来たカフェオレのカップを手に持ち、視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。
「少し、私達の事を話してもいい?」
聞かれてわたしは固唾を吞み込んだ。
怖いけど。聞きたい。ケンさんの事、知りたいから。知ってからもっとちゃんと向き合いたいから。
急く鼓動を感じながらわたしはテーブルの下で拳をグッと握り締めた。覚悟を決める。
「聞きたいです」
わたしの答えを聞いて、律子さんは微笑みと共に「ありがと」と小さく言った。
わたしの勘は正しくて、律子さんはケンさんと本当の姉弟じゃなかった。律子さんはケンさんのご実家のお寺に養女になったのだけど、その経緯がとっても複雑だった。
律子さんは、ケンさんのご実家のお寺と同じ宗派のお寺の娘さんで、ケンさん兄弟とは幼い頃から一緒に育ってきた幼馴染で、ケンさんの双子のお兄さんの、婚約者だった。
そこまで聞いた時点で、複雑に絡み合う事情が、見えて来てしまった。
普段は直感なんて働かないわたしだけど、どうしてだろう。異、ケンさんの事となると見たくない、知りたくない事も見えてきてしまう。
ケンさんの、律子さんに向けられたあの表情がわたしの脳裏に焼き付いていてふとした瞬間に蘇ってしまう。
ケンさん、ケンさんは、律子さんの事が好きだったのでしょう。律子さんも、ケンさんの事が好きで。でも、決して叶う事の無い想いで。
お兄さんが亡くなった時、ケンさんと律子さんは?
胸に、色んな事が込み上げて来て、自然と涙が溢れた。
「ひまりさん?」
驚く律子さんは慌ててハンカチを差し出してくれた。わたしは、自分のハンカチを出す余裕も無くて律子さんから差し出されたハンカチで涙を拭った。
でも、拭っても涙は止まらない。考えれば考えるほど辛いから、声に出してアウトプットする。
「ケンさんと、律子さんは、好き同士だったのでしょう?」
絞り出した声は、信じたく無いとか、認めたく無いとか、言い表せないグチャグチャな感情が乗って、掠れて震えた。
でも、しっかりと律子さんの耳には届いていたみたいです。
「そうよ」
凛とした声だった。
視界は涙で曇っていたのに、律子さんの姿は不思議なくらいクリアに映った。
清々しいくらいに堂々と。逃げたり誤魔化したりしない。この人の美しさはこんなところに秘密があるのかもしれない。
泣いてなんていられない。唇を噛み締めて涙を止めようとした時、律子さんが口を開いた。
「でもね、私は宿命を受け止めたの」
宿命? 律子さんは肩を竦めた。
「私が生まれ落ちた場所には、定めがあったのね」
遠い目をした律子さんの表情がわたしの胸を締め付ける。
お兄さんが亡くなった時に、ケンさんと律子さんの想いは完全に断絶された。
律子さんが受け入れた宿命とは、家を、お寺を守る為に生きる事。
ケンさんのお父様は、決してケンさんにお寺を継がせようとはせず、お嫁さんとして来てくれる筈だった律子さんを養女にした。
律子さんは、お坊さんになる為に研鑽を積む宮部方の親戚の方と近く結婚する事が決まっているそう。
今、この時代に、そんな。信じられない想いで一杯だった。
「律子さんは、それでいいんですか。だって、だって律子さんは」
律子さんは軽く睨むような表情を見せた。
「わたしの気持ちを揺らがせるつもり?」
「いえそんな」
「言ったでしょう。わたしは宿命を受け止めて生きると決めたの」
律子さんの美しさは、凛とした、一本芯が通ったような強さにある事を肌で感じた。
何も答えられず唇を噛んだわたしに律子さんはクスッと悪戯っぽく笑った。
「やっぱり、やめちゃおうかな」
「え?」
「ケンは渡さない、って言ったらあなたどうする?」
律子さんの顔が一瞬で真剣な表情に変わった。ギクッとする。
ケンさんを、渡さない?
「ダメです!」
幼い頃から今に至るまで、どんな時もワンテンポ遅いって言われるわたしが、信じられない速さで反応していた。
譲れないものが出来たから。絶対に、守り通さなきゃいけないと決めたら手を離してはいけないんだ。
驚いた表情をする律子さんにわたしは続けた。
「駄目です。ケンさんだけは、絶対に譲れません。どうぞ、なんて言いません」
目を丸くしてわたしを見ていた律子さんがアハハと笑い出した。律子さんの様子に呆気にとられていると。
「今の言葉、ケンに聞かせてあげたかった」
「え?」
律子さんは笑みを収めてわたしを真っ直ぐに見た。
「ケンに釘を刺されたの。『アイツはちょっと押されると〝どうぞ〟とか言いかねない。だからそっとしておいてくれよな』って」
「えっと、それは」
脳内の認知回線が繋がらない。理解が追い付いて行ってない。律子さんの言葉を懸命に反芻していると。
「ずっと立ち止まったままだったケンは、やっと一歩踏み出す事が出来た。安心した。私も、心置きなく前を向けるわ」
律子さんの言葉は深くて静かで、重くて。浮かべた微笑は、どうしてかわたしの胸をぎゅっと締め付けるものだった。
海よりも広くて深くて山よりも大きくて高い無限大の愛情とか、生きる指針を揺るがないものとする強い覚悟とか。
まだ幼いわたしには到底推し量ることの出来ないものを背負っている律子さんの纏う雰囲気には、悲哀とか諦観とかが滲んで見えていた。
けれど今、ほんの少しだけ、春の日差しみたいな清々しさが射し込んだような気がした。
ケンさん、わたしは決めました。
貴方の傍に行くって。
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