永遠のヴァージン【完結】

深智

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ひまりの決断1

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 ケンさんからの最後のLINEのメッセージが届いていたのは昨日の夕方。

 わたし、どうして直ぐに開かなかったんだろう!

 ケンさんは、今月はもうお山に登る予定はない筈だった。でも、昨日の朝、奥穂高に向かった。何故かというと。

 山岳部の一年生部員の数名が、勝手に計画して、行ってしまったから。本当は先月登る予定だったのが、お山のコンディションが悪く断念していて、次回は来年、という事を一年生はとっても不満に思っていたのだとか。

 その結果、事故が起きた。下山予定の日を二日経過しても、消息不明となっていた。

 あんな勝手な行動は登山家にあるまじき行為だ、と目の前の蜷川先生が怒ってらっしゃる。いつも穏やかで紳士な蜷川教授の憤慨ぶりに、わたしは思わず背筋を伸ばしてしまった。

 今日は特にゼミも無く、先生に頼まれていたお仕事もないけれど、私は朝から教授のお部屋に来ていた。おケイちゃんからの電話の後、先生から連絡が来て、お話し聞かせていただける事になったので。

「奥穂高のあの登山ルートは経験の浅い登山者だけのパーティーで登れるコースじゃないんだよ。ただ、皆が一度は登ってみたいルートなのは確かなんだ。こんな事になった時は、本来は四年生が責任を持って迎えに行くべきなんだが、今四年生は就活期間中でね。宮部君にお願いしたという事なんだ」
「そうだったんですか」

 知らなかったのですが、蜷川先生は山岳部の顧問でした。

 顧問の先生は何人かいらっしゃるらしく、今日、どうしても休講に出来ない講義が二つほどある蜷川先生は後から行くという。

 とりあえずは、別の顧問の先生と三年生部員全員とが先に上高地まで向かったそう。

「あの」

 不安と緊張で、張り付いてしまいそうな喉に空気を通して、声を出す。

「後から行った部員の方とか、は、その、待機するだけ、ですよね? 山に入ったりは、しないんですよね?」

 そうであって欲しかった。

 聞けば、穂高連峰の一帯はここ数日天候不順で捜索も難航しているらしい。そんな山の中にケンさんが入って行ってるなんて、想像したくなかった。

 蜷川先生のお顔を、そっと窺う。ドクンドクンと鳴る鼓動が息苦しさを誘う。

 いやだよ、ケンさん。絶対駄目。祈るような気持ちで先生のお返事を待つ。

〝そうだよ、山には入らずに待つだけだよ〟

 そう言って欲しかった。でも蜷川先生は渋面を作った。

「多分、宮部君は黙って待っていられるタイプじゃないな」




 世界が、色を失う。

 空から落ちてくる雨粒が、わたしのいる世界から全ての色を落として行くような気がした。

 足取りが重い。濡れた地面が泥濘んだ泥道みたいで、一歩一歩がズブズブって埋まっていくようだった。

 どうしよう。どうしよう。

 蜷川先生のお部屋から出たわたしは、講義に出る気持ちにはとてもなれず、かと言ってお家に帰るなんてとんでもなくて、とぼとぼと構内を歩く。雨に濡れる紫陽花が目に入った。

 群生する紫陽花は、紫と青。色の配置がとてもバランス良く、綺麗なグラデーションになっていた。白い紫陽花は、ここでは咲かないの、と思っていたわたしの目にふわっと白い影が映った。

 え、と目を擦ると。

「あ」
「こんにちは」

 律子さんだった。

 横浜でお見かけした時は萌黄色のお着物。お寺でお会いした時は藤色の作務衣姿。そして今日は白いシャツにテラコッタカラーのパンツスタイルだった。

 雨が周囲をグレーに染める風景の中で、真っ白なシャツが輝いて見えた。そこだけ光が当たっているかのように。

 アップにした髪と立たせた襟が顔をとても小さく見せていて、どきっとするくらい綺麗だった。

 やっぱり、美人さんだ。

「あの? 今日は、ケンさんは」

 言いながら、ケンさんの事はもう知ってるのかな、って思った。律子さんは、ううん、と首を横に振った。

「今日は、ひまりさんとお話ししたくて来たの」
「わたしと?」

 驚いて、思わず自分を指差したわたしに律子さんはにっこりと優雅に微笑んだ。



 目白駅近くのビルの地下に、朝の割と早い時間から開いているカフェがあり、そこに律子さんと二人で入った。

 落ち着きそうな奥の席に案内してもらって、わたしは紅茶、律子さんはカフェオレを頼んだ。

「昨日は、紫陽花ありがとうございました。とっても綺麗で、母も喜んでました」
「それはよかった。紫陽花、所々間引いてあげないと喧嘩しちゃうから」
「けんか、ですか」

 目を丸くしたわたしに律子さんは肩を竦めていたずらっぽく笑った。

 綺麗なだけじゃなくて、とってもチャーミングな人なんだ、って感じた。

 お姉さん、なんだよね?

 ケンさんのお姉さん、って聞いているのに、どうして不安が消えないんだろう。

 横浜でケンさんが律子さんに見せていた表情のせいかもしれない。特別な人にしか見せない顔に見えたから。

「今日はね」

 律子さんがバッグの中から何か出して、テーブルの上に置いた。

「これを届けに来たの」
「あ、これ」

 わたしの、片方だけのピアスだった。お洒落な柄のチャック付きのビニール袋に入れてあった。

 実は昨日、ピアスを片方だけ何処かで落として失くしてしまっていた。長い髪を下ろしていて耳が隠れていたから、お風呂に入る時まで気付かなかった。何処で落としちゃったんだろう、ってショックだったのだけど、まさかこんな形で現れるなんて。

「うちのリビングに落ちていたの」
「そうだったんですか。ありがとうございます。これ、お気に入りだったから、よかったです。ありがとう、ございます」

 手に取ってお礼を口にした途端、ほんの小さな事なのに、胸がジンと熱くなって、涙が溢れそうになった。こんな時だから、失くしたと思っていたものが思いがけず手元に戻ってくる事にとても敏感になっていた。

 ケンさん、何処にも行かないで! そんな気持ちが胸の奥から湧いて来て、止まらない。

 ピアスを両手でぎゅっと握り締めたわたしに、律子さんが静かに話し始めた。

「実はね、昨日そのピアスを見つけてあなたにお返ししなきゃって思った時、直ぐにおケイちゃんに連絡すればいい事だったのに、私、ケンに連絡したの」

 え、とわたしは顔を上げて律子さんを見た。律子さんの顔から優しい笑みが消えていてドキッとした。真剣な眼差しでわたしを見ていた。

「ケンに、確かめてみたかったのね、私」

 律子さんの声に、何処か哀しいような、苦しいような、そんな感情が滲んでいるような気がして、わたしは直感した。

 律子さんは、ケンさんを好きな人だ。

 ケンさんのご実家に飾られていた家族写真。違和感を覚えた理由が今分かった。あの中に律子さんが、いなかったからだ。

 律子さんは、ケンさんとは本当のご姉弟じゃないんだ。

 ケンさんと、亡くなった双子のお兄さん。それから、律子さん。

 この三人の間に何かが?

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