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力をくれるもの
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「俺はあまり、勉強しろよ、っていう説教はしたくはないタチなんだがな。お前のクラス担任の手前なぁ」
頭を掻きながら木戸は困った表情を浮かべ言った。
「すみません」
試験期間中は、生徒は職員室立ち入り禁止のため、教師が生徒に折り入って何か話しがある時は、進路指導室に場所を移す。しかしそれは、試験問題の漏えい疑惑など起こらぬよう、終わった科目の教諭のみ許される行為となる。木戸の世界史は、昨日終わったところだった。
篤と木戸は、受験関係の資料がびっしり詰まった本棚に囲まれた指導室の真ん中に据えられたテーブルを挟み、向かい合う形で座った。ドアを閉めきると放課後の喧騒がわずかに届く静かな部屋だった。
篤にとって、木戸は数少ない、素直に受け入れられる大人、だった。
「実はそのクラス担任、桂木先生にな、これ以上緒方君の成績が下がるようなら彼だけ出場停止処分にしてもらいます! とか言われてなぁ」
元気な、三十代前半の女性教諭の声音を真似た木戸に、篤は危うく吹き出しそうになった。ユニフォームは、試合用はもちろんのこと、練習用までビシッと着こなすのに、普段のスーツに関してはヨレヨレ、という姿がますます笑いを誘う。
しかし、声真似にしろ、そのスタイルにしろ、木戸は決してウケを狙っているわけではない。監督の真剣な表情と向き合う篤は、今吹き出すのはマズイな、と必死にこらえた。そんな篤の心情など知らぬ木戸はため息混じりに言葉を継いだ。
「ま、出場停止なんてのは無しにしてもな、そんだけ桂木先生も困ってんだわ。終わってしまった世界史は俺が特別なお土産……あ、宿題のことな……とかで何とかしてやるから、とにかくこれからある科目だけはできる限り頑張ってくれや」
押しつけがましい響きを持たず、身振り手振りを交えて軽快に話す木戸の言葉はいつも、乾いたスポンジが水を吸い込むように篤の心に染み渡る。素直に頷いた篤に木戸は、柔和な笑みを向けた。
「お前がどれだけ野球が好きで、どれほど野球に気持ちが傾倒しているか、皆ちゃんと分かっているんだ。桂木先生だって、お前から野球を取り上げようとしているわけじゃない。ただな、哀しいかな、今お前が野球をやっていられるのは、高校というところに通っていられるからで、部活動としてやっている野球はどうしたって学校生活の一部なんだ。部活のせいで学校生活の本分である勉強が欠落してしまうような事があってはいけないんだよ」
木戸の言葉は、温和な表情とは違う重いものだった。黙って聞いていた篤の表情は硬くなる。木戸は、篤の心情を酌んだ上で、話しを続けた。
「そんな、学業まで完璧であれ、なんて誰も言っていない。この先、野球を続けるにしろ、続けないにしろ、お前は、進路を考えなければいけないだろ。その事を念頭に置いて、自分はまだ高校生なんだ、という最低限の自覚さえ持てば、お前なら自ずと結果はついてくるはずだ。大丈夫だ、お前は。俺は信じてるよ」
篤は、ハッと顔を上げ、改めて木戸を見た。
お前は大丈夫。
そうだ、この言葉一つで良かったんだ。この言葉が欲しかったんだ。
足元がぐらつき始めていた自分は、野球に対する情熱、信念を、見失いかけていた。それは、知らず知らずの内に駆り立てられていた進路への不安と焦燥のせい。
そこなかとなく拡がる不安は、ひたひたと足音も無く近寄り自分を呑み込もうとする闇となった。その闇に負けまいと必死に抗う自分を近しい人間は救おうとはしてくれなかった。
身近な人間の抱える期待は、思い描く理想とは違う現実を見た時落胆に変わる。そして修正を図ろうという焦燥が、不安を掻き立てるような言葉となってしまう。畳み掛け、追い詰める身内の態度には、反発心しか生まれない。
素直に受け止めようという感情は遠ざかる一方だった。
大丈夫。信じている。お前なら。
ほんの短い言葉で良かったのだ。信じて欲しかったのだ。自分は、信じられている、それだけの事実がどれだけ自分を鼓舞するか。
そこまで考え、篤は、あ、と思った。数日前の父の言葉が脳裏に蘇った。
「篤は、出来ます。必ずやれます」
確かに父は祖父にそう言った。
あの言葉は、自分のどこに掛かるのか。篤は、膝の上で拳を握った。今さら、父に対して何かアクションを起こすことなど。今さら、何と言えば、どう切り出せば。
「緒方」
心中で問答を始め、俯いてしまっていた篤に木戸は優しく声を掛けた。
「お前は、不思議な男だな」
え、と篤が顔を上げると木戸は腕を組み、ニッと笑った。
「自分では気づいとらんみたいだが、お前は、周りを巻き込む天才なんだな」
なんだそれ、と篤は憮然とした表情で言った。
「なんかすごく迷惑なヤツみたいじゃないすか」
篤の言葉に一瞬目を丸くした木戸は、ハハハと笑った。
「巻き込むは、いい意味だよ。言い方が悪かったな。お前は、人を動かす力を持っている、俺はそう言いたかったんだが……ふむ、そうだな、別角度からみたら迷惑、とも言えるか」
篤は怪訝な表情のまま、意味が分からない、という顔をしてみせた。
「お前はお前のままで、この先も自然体で突き進んでくれたらいいさ」
木戸はそう言い快活に笑ったが、勉強はしてくれよ、という言葉を付け足すのは忘れなかった。苦笑を浮かべた篤は肩を竦めた。
頭を掻きながら木戸は困った表情を浮かべ言った。
「すみません」
試験期間中は、生徒は職員室立ち入り禁止のため、教師が生徒に折り入って何か話しがある時は、進路指導室に場所を移す。しかしそれは、試験問題の漏えい疑惑など起こらぬよう、終わった科目の教諭のみ許される行為となる。木戸の世界史は、昨日終わったところだった。
篤と木戸は、受験関係の資料がびっしり詰まった本棚に囲まれた指導室の真ん中に据えられたテーブルを挟み、向かい合う形で座った。ドアを閉めきると放課後の喧騒がわずかに届く静かな部屋だった。
篤にとって、木戸は数少ない、素直に受け入れられる大人、だった。
「実はそのクラス担任、桂木先生にな、これ以上緒方君の成績が下がるようなら彼だけ出場停止処分にしてもらいます! とか言われてなぁ」
元気な、三十代前半の女性教諭の声音を真似た木戸に、篤は危うく吹き出しそうになった。ユニフォームは、試合用はもちろんのこと、練習用までビシッと着こなすのに、普段のスーツに関してはヨレヨレ、という姿がますます笑いを誘う。
しかし、声真似にしろ、そのスタイルにしろ、木戸は決してウケを狙っているわけではない。監督の真剣な表情と向き合う篤は、今吹き出すのはマズイな、と必死にこらえた。そんな篤の心情など知らぬ木戸はため息混じりに言葉を継いだ。
「ま、出場停止なんてのは無しにしてもな、そんだけ桂木先生も困ってんだわ。終わってしまった世界史は俺が特別なお土産……あ、宿題のことな……とかで何とかしてやるから、とにかくこれからある科目だけはできる限り頑張ってくれや」
押しつけがましい響きを持たず、身振り手振りを交えて軽快に話す木戸の言葉はいつも、乾いたスポンジが水を吸い込むように篤の心に染み渡る。素直に頷いた篤に木戸は、柔和な笑みを向けた。
「お前がどれだけ野球が好きで、どれほど野球に気持ちが傾倒しているか、皆ちゃんと分かっているんだ。桂木先生だって、お前から野球を取り上げようとしているわけじゃない。ただな、哀しいかな、今お前が野球をやっていられるのは、高校というところに通っていられるからで、部活動としてやっている野球はどうしたって学校生活の一部なんだ。部活のせいで学校生活の本分である勉強が欠落してしまうような事があってはいけないんだよ」
木戸の言葉は、温和な表情とは違う重いものだった。黙って聞いていた篤の表情は硬くなる。木戸は、篤の心情を酌んだ上で、話しを続けた。
「そんな、学業まで完璧であれ、なんて誰も言っていない。この先、野球を続けるにしろ、続けないにしろ、お前は、進路を考えなければいけないだろ。その事を念頭に置いて、自分はまだ高校生なんだ、という最低限の自覚さえ持てば、お前なら自ずと結果はついてくるはずだ。大丈夫だ、お前は。俺は信じてるよ」
篤は、ハッと顔を上げ、改めて木戸を見た。
お前は大丈夫。
そうだ、この言葉一つで良かったんだ。この言葉が欲しかったんだ。
足元がぐらつき始めていた自分は、野球に対する情熱、信念を、見失いかけていた。それは、知らず知らずの内に駆り立てられていた進路への不安と焦燥のせい。
そこなかとなく拡がる不安は、ひたひたと足音も無く近寄り自分を呑み込もうとする闇となった。その闇に負けまいと必死に抗う自分を近しい人間は救おうとはしてくれなかった。
身近な人間の抱える期待は、思い描く理想とは違う現実を見た時落胆に変わる。そして修正を図ろうという焦燥が、不安を掻き立てるような言葉となってしまう。畳み掛け、追い詰める身内の態度には、反発心しか生まれない。
素直に受け止めようという感情は遠ざかる一方だった。
大丈夫。信じている。お前なら。
ほんの短い言葉で良かったのだ。信じて欲しかったのだ。自分は、信じられている、それだけの事実がどれだけ自分を鼓舞するか。
そこまで考え、篤は、あ、と思った。数日前の父の言葉が脳裏に蘇った。
「篤は、出来ます。必ずやれます」
確かに父は祖父にそう言った。
あの言葉は、自分のどこに掛かるのか。篤は、膝の上で拳を握った。今さら、父に対して何かアクションを起こすことなど。今さら、何と言えば、どう切り出せば。
「緒方」
心中で問答を始め、俯いてしまっていた篤に木戸は優しく声を掛けた。
「お前は、不思議な男だな」
え、と篤が顔を上げると木戸は腕を組み、ニッと笑った。
「自分では気づいとらんみたいだが、お前は、周りを巻き込む天才なんだな」
なんだそれ、と篤は憮然とした表情で言った。
「なんかすごく迷惑なヤツみたいじゃないすか」
篤の言葉に一瞬目を丸くした木戸は、ハハハと笑った。
「巻き込むは、いい意味だよ。言い方が悪かったな。お前は、人を動かす力を持っている、俺はそう言いたかったんだが……ふむ、そうだな、別角度からみたら迷惑、とも言えるか」
篤は怪訝な表情のまま、意味が分からない、という顔をしてみせた。
「お前はお前のままで、この先も自然体で突き進んでくれたらいいさ」
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