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1992年4月 トライアングル2
しおりを挟む流れる月日。
愛しい人に守られて。
辛い過去と悲しい記憶は、パンドラの箱。
その蓋が開く時、運命が動き出す。
*
通されたのは、薄暗い霊安室。お線香の香りが漂っていた。
部屋の中には、白い布が被せられ横たわる二人。
「ご確認ください」
制服の警官が、少女に声を掛けた。
彼女は、ここまで連れて来てくれた近所のおばさんにそっと背中を押してもらい、恐る恐る白い布に近づいて行った。
ゆっくりと外された布の下には――。
チュンチュン、とベランダで鳴く雀の声が聞こえた。カーテンの隙間から優しい朝日が漏れる。
パチリと目を開いたみちるは、暫く天井を見つめていた。涙が耳元まで一筋だけ伝っている感触があった。
もう何年も見てなかった夢を最近よく見るようになった。
けれど、あの前後がどうしても思い出せない。記憶が消えているのだ。
何が起きて、どうしてあんな事になってしまったのか。未だに靄の中に隠れ、見えていない。
私はあの後、どうしたのだろう? 泣いた? 叫んだ?
ううん、何故、自分は置いていかれたのか。彼らが出かける時、自分はどうしていたのか。
何も、分からない。
みちるは微かなため息と共に小さく首を振った。
そっと右側に顔を向けたみちるはフワッと微笑んだ。
夕べ、寝る時はいなかったのに。
みちるは、自分の右手をしっかりと握ってくれている星児の寝顔を少しの間、見つめていた。
あの日からずっと変わらない。ううん、ますます、凛々しく、精悍になった。
胸の締め付けに、みちるは目を逸らした。
あの、拾われた一六の日から四年の月日が経っていた。みちるの、星児を見る時の胸の痛み、苦しみは、年を追う毎に辛くなっていた。
「ん……」
左隣で寝返りの気配がした。
みちるの左手を握る手に、ほんの少し力が加わる。
起きたかな?
顔を左側へ向けたみちるは、愛しそうな眼差しで保の寝顔を見た。童顔の保の寝顔は、星児よりもほんの少しばかり幼い。みちるはクスリと笑った。
今日は保さんもお寝坊さん。
握られた両手をそっと外したみちるは静かに身を起こした。両脇で熟睡中の二人の男達を見ていて、いたずらを一つ思いついた。
起こさないようにそろりと二人の手を繋がせた。
やだー、かなりときめいちゃう構図?
笑いだしそうなのを必死に堪え、みちるはそろそろと足元からベッドを下りた。
起きた時がすごく楽しみ。手を口に当て、クスクス笑いながら部屋を出た。
軽くシャワーを浴びたみちるは、タオルで身体を拭き脱衣室にある鏡に自分の姿を映し出した。
星児と保に拾われたあの日から四年目。十九歳になっていた。もうすぐ二十歳を迎える。
白い肌。艶めく長い黒髪。街を歩けば、時折すれ違う者が振り向くような女性になっていた。
胸、まだ大きくなれるのかな。麗子さんはもっと、大きいよね。
思わず胸の膨らみを麗子のそれと比べてしまう。
一緒にお風呂に入った時思わず、いいな、と言ったみちるのセリフに、麗子は言った。
『大きさじゃなくて、形よ。美しければ、いいの』
たゆたう湯気の向こうで微笑んだ麗子は、本当に綺麗だった。三十四歳になるが、美しさは四年前から少しも変わらない。
「私は、麗子さんみたいになりたい」
鏡に向かい、みちるは小さく呟いていた。
パパッと下着を着け、洗いざらしのTシャツを頭から被り、パステルカラーの淡いブルーのジャージを履いた。
長い髪の毛にヘアクリームをつけ、ドライヤーで乾かしクリップで留める。
洗面台の棚から基礎化粧品を取り出し、鏡をみながら手入れをしてナチュラルメイクを施した。桜貝色のリップをサッと塗って、朝はおしまい。
お風呂場の横にある洗濯機に洗濯物を放り込んで洗剤を量って入れてスタートボタンを押し、みちるは洗面室を出た。
リビングのカーテンを開けると、春の陽射しが部屋一杯に射し込む。
「いー天気。よしっ」
朝ごはんを作ろう、とみちるがキッチンに入ろうとした時だった。
「うおぉおぉぉー!?」
「きめえぇえぇぇー!!!」
寝室から聞こえてきた野太い悲鳴にみちるは吹き出した。
想定以上の反応です。
「みちるっっ!」
バタンッ! とドアが開き、真っ先に飛び出してきたのは星児だ。後から、頭を抱えた保が続く。
「こらぁっ!」
「きゃあっ」
星児はみちるの腕を掴み腰を抱き、くすぐりながら羽交い締めにし床に押し倒した。
「ひゃあぁっ! ごっごめんなさいーっ」
うつ伏せになったみちるは背後から覆い被さる体勢の星児にくすぐられ、思い切り身体を捩らせ悶絶する。
尚も続く星児の手がみちるの首や脇など急所を攻撃。みちるは、ひーっ、と泣き笑い状態で逃れようと手を伸ばした。
「ろーぷっ、ろーぷっ!」
「……プロレスか」
保が苦笑いしながらみちるが伸ばした手を握る。
「星児、ギブだってよ」
みちるは涙を流しながら、うんうんとうなずいた。みちるの耳元に顔を近づけた星児は囁く。
「もうしません、って言え」
耳から滑り込む星児の甘やかな艶っぽい声がみちるの躰に微弱電流を流す。
だ、だめぇ……っ。
「は……んん……っ……」
小さく震え首を竦めたみちるの口から吐息が漏れ、ギュッと目を閉じてから、叫ぶように言った。
「ごっ、ごめんなさいっ! もうしませんー!」
「よぉし、と言いたいとこだが、反応がおもしれーから、もうちょい……」
「ひぃいぃあぁー!」
「せいじっ!」
その手が、肌が、触れた所にまるで心臓があるかのようにドキドキする。けれど、自分を騙し、なんでもない、普通の、まるで兄と妹のスキンシップのように振る舞う術を無意識に身に付けた。
苦しいよ、星児さん。
†
「なにもよ、蹴り飛ばすことねーだろ」
「そうでもしねーと悪ノリしたお前は止められねぇだろうがっ」
ダイニングの椅子に座り脇腹を軽くさする星児の前に、保が、ダンッ! と乱暴に牛乳の入ったグラスを置いた。
「こぼれたし」
「自分で拭けっ!」
「お前が溢したんじゃねーか」
「俺の手を離れてお前の前に置かれた時点でその液体の所有権も責任もお前にあるんだよっ」
「うわっ! うぜぇっ! なんだその理屈!」
テーブルの上にあったクロスで星児がブツブツ言いながら拭く。
カウンターキッチンの向こうで朝食を作っているみちるがクスクスと笑った。
出会った頃の、少女の面影がすっかり薄れてしまった大人びた笑顔だ。みちるの笑顔をチラリと見た保の胸を微かな痛みが走る。
いつだったろう。みちるの、星児に対する想いを必死に隠す、痛ましいまでに健気な姿に気付いてしまったのは。
そして、いつからだっただろう。そんなみちるの姿を見る度に、自分の胸が張り裂けそうな痛みを抱えるようになっていたのは。
『保、必要以上の“情”は禁物だとずいぶん前に言ったよな』
二、三日前に、星児に釘を刺されていた。
気付かれていた。自分の気持ちに。睨み付ける星児の目から、保は逃げる事なく向き合っていた。
『何の事か分かんねーな』
その場はそうシラを切るしかなかった。
おせーよ、星児。心の中で毒吐いてはみたが、いやそうじゃないな、と考える。
遅いわけじゃない。初めて出会ったあの日から、もうすでに始まっていたのかもしれない。
「保さん、コレお願いね」
サイドボードからマグカップを出しながら考え込んでいた保は、みちるに声を掛けられ顔を上げた。
キッチンのカウンターに、スクランブルエッグとベーコン、サラダが綺麗にのったプレートが3セット並んでいた。
「テーブルに出してね」
目が合うと、みちるはニコッと微笑んだ。
「ああ」
保もその柔らかな笑顔に吊られて笑う。星児は新聞を拡げ、読んでいた。
星児がみちるの気持ちに気付いていない筈はない。
東側の窓から射し込む陽射しが星児に当たり、彫りの深い横顔に陰影をつくる。何時もと変わらぬ表情だ。
その取り澄ました冷静な顔が時折保にとって妙に鼻につくようになった。
こんな事なかったのにな。気付かれないよう保は小さくため息をついていた。
決して口にしてはいけない、生まれてしまった想い。
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