舞姫【前編】

深智

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嵐の夜に1

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 雨と風。

 闇、そして雷。

 怯える私を助けに来たのは

 貴方だった。




 正午過ぎから強まり始めた風に煽られ、夜の闇が拡がり始めた窓の外ではネオン看板が激しく揺れていた。

 事務所のデスクで、今朝保に渡された経済誌に目を通していた星児は、それを閉じ机上に置いた。

 雑誌の表紙を飾るのは、葉巻を手に不敵に微笑む白髪の老紳士。紳士面しているが〝腹は真っ黒〟という内面が滲み出ている。

 津田商事会長、津田恵三けいぞう

 海外でもその業績を伸ばし続ける大会社を一代で築き上げた男は、書き連ねる事が出来ない程の肩書きを持つ。彼の剛腕ぶりは、経済界のありとあらゆる分野に根を張る事で知られていた。

 政界にも強い発言力を持ったフィクサーとも言われる、名実共に、政財界の、ドンだ。

 保のヤツ。俺にコイツをどうにかしろってか。これはさすがに俺でもハードル高ぇわ。

 タバコを取り出しくわえながら星児は苦笑いをした。

 標的を討ち取るにはまずその親玉から手玉に取って外堀を埋めないと始まらない、というのが保の理屈らしい。

 それにしても、と星児は苛立たしげに煙を吐き出した。

 郡司のヤロー、とんでもねートコ潜り込んでやがった。

 星児は霧散するタバコの煙を見ながら思案する。

 津田恵三と繋がりそうな、自分と関係のある女は何人か、いた。しかし、それだけではそこまで辿り着けないだろう。そんな単純な相手ではない。

 何かデカイ土産になる、釣れるようなネタでもねーと、恐らくムリだな。

 立ち上がり窓の外を見た星児の目に、闇の中で光るパトカーの赤い光が見えた。摘発なら情報が入る。恐らくケンカだ。

 宵闇の中の赤は、不意に過去に引き戻される。保もこの色のコントラストを目にすれば同じ光景を思い出すだろう、と星児は思う。

 赤い光を眺める星児の脳裏に蘇るのは、あの日の父の言葉だ。

『いいか、星児、たもっちゃんを連れて逃げろ! あっちの山が風上だ! とにかく登れるところまで登るんだぞ! 父さんは眠ってるだろう村の皆を起こしに戻る! 絶対に振り返るなよ!』

 父の最後の言葉だ。

 空気が乾き、しんしんと冷えた冬の夜だった。

 夕食後の家族全員が揃った団欒のひととき。九歳だった星児に父が言った。

「こんな日はあの山から見る星が最高にいい。
日の出も素晴らしいんだ。星児、見に行くぞ。隣のたもっちゃん連れて来い」
「えー! 寒いよ父さん」
「男が何言ってやがる」

 母や祖父母、弟達が、コタツで笑っていた。

 平凡な日常はいきなり奪われた。

 それが人為的なものだった事は、生き残った自分達しか知らない。幼かった自分達に出来る事など、何も無かった。

 山間の小さな集落の焼失など、時の流れに埋もれ、忘れ去られたのだろう。今となっては誰も知らない。

 ならば、いつか自分達が復讐してやる。

 俺達が生きてきた糧は〝それ〟だけなのだから。

 星児がタバコを咥えていたタバコを外そうとした時、スラックスのポケットで携帯電話が鳴った。

 今年発売された新型携帯電話は、以前のものとは格段に違う。小さなディスプレイに相手の番号が表示されていた。

 二人で持てば連絡を取りやすい、と同時期に手に入れた麗子の携帯電話の番号だった。

 耳に当てながらアンテナを伸ばすと、雑音の中を麗子の艶っぽい声が通って届いた。

「星児、ごめんなさい、今大丈夫?」
「大丈夫だ。どうした」
「星児、今夜は家に帰れない?」

 今夜は保が出張の為、麗子にみちるの事を頼んでいた。麗子も踊り子達を連れて地方公演に出ていたのだが、今日帰る予定になっていた。

「この嵐で飛行機、飛ばないのよ。今夜中に帰るのは無理そう」

 彼女は、未だ夜を怖がる。夜を一人で過ごせない。

 星児は窓の外を見た。

 バラバラと音を立てて、大粒の雨が落ち始める。窓ガラスは強風に鳴り、横風に流され当たった雨粒が激しい音を奏でていた。

「麗子は無理するな。気をつけて帰って来い。みちるの事は大丈夫だ」

†††

 風が強まり天候が荒れる事が予想される為か、夕刻にはお客はほとんどいなくなった。

 ガランとした店内には、有線の優しい洋楽が流れる。みちるはカウンターに座り、紙ナフキンを丁寧に三角に折りフォークを包む。マスターは赤ペンを耳に掛け、真剣な顔で競馬新聞を読んでいた。

 ナフキンで綺麗に包んだ数十本のフォークをケースに入れ、定位置にしまったみちるは、マスターの方へ身を乗り出し話しかけた。

「マスター、お塩くださいね。卓上塩も補充しておきますから。あとつまようじも」
「お、ありがとう」

 新聞から顔を上げたマスターはニコニコしながら立ち上がり、棚から塩とつまようじを出してみちるに渡した。

「よろしくね」
「はい」

 受け取りながらみちるも微笑んだ。



 みちるが各テーブルから集めてきた容器に塩とつまようじを補充し始めるとマスターは再び新聞に目を落とした。こんな静かな日はちょっと彼らのお話を聞いてみたくなる。

 みちるはそっと、ある問いを投げ掛けた。

「マスターは、保さんや星児さんと昔から知り合い、なんですか?」

 ずっとみちるの中にあった疑問だった。

 顔を上げたマスターの表情は、少し驚嘆の色が浮かんでいた。

「あ、すみません、突然変な質問しちゃって」

 オロオロとしてしまったみちるに「変な質問じゃないよ」とマスターは優しく笑いかけた。

「なんだ、たもっちゃん達はまだみちるちゃんに話してあげてなかったんだ、と思ったんだ」

「うん」と頷いたみちるに、マスターは穏やかな笑みを浮かべて「そうかそうか」と手にしていた新聞を畳んで置いた。

「僕達は、同郷の人間なんだよ」
「どう、きょう?」
「そう、同じ故郷。ガキんちょだった頃の彼等を知ってるんだよ、僕は」
「がきんちょ……あはは」

 みちるは肩を竦めて笑い、マスターも笑った。

 星児からも保からも、故郷の話を聞いた事は未だなかった。

 みちるは想いを馳せた。

 子供の頃の星児さんと保さん。

 ほんの少し想像し、見てみたいと思うみちるは、胸に締まるような微かな痛みを覚えた。

 何故話さないのか、を思った時胸に去来するのは途方のない切なさ。自らと重ね合わせていた。

「たもっちゃんはちょっと泣き虫で、セイジは、かなりの悪ガキだったよ」

 柔らかな口調で語られる幼い日の彼らの姿にみちるは「えー」と目を丸くした。ハハハと笑ったマスターは、でもね、と続ける。

「僕は故郷を捨てた人間だから、彼らの過去にとやかく言う権利は無いんだ」

 視線を落としたマスターは、シンクに残る水滴を見つめたまま動かなかった。

「捨てた、の?」

 みちるは遠慮がちに問う。

「そうだよ。あの頃の若い子はね、皆都会に憧れて」

 田舎が嫌で仕方なかったんだよ、とマスターは静かに言った。

 〝田舎〟という言葉にみちるは、保が以前話した故郷に関する一言を思い出した。

『俺も星児も、田舎から出て来た人間だから』

 田舎、ってどこだろう。北かな? 南かな?

 人差し指を軽く顎に当て小首を傾げるみちるに、マスターは優しく微笑んだ。

「みちるちゃんの故郷は、今でもその姿を留めてそこにあるのかな? あ、辛ければこの質問にはムリに答えなくていいからね」

 何事に対しても思慮深いマスターは、みちるの繊細な部分に土足で踏み込むような事は決してしなかった。

 マスターの器の広さと深さ、気遣いが、みちるに安堵感を与える。いつも、凪いだ心でいられた。

「ありがとうマスター。故郷の景色、思い出すのはちょっと辛いけど、大丈夫」

 応えながらみちるは少し思案顔をした。

「もう、ずっと行ってないけど、変わらないと思う」

 満開の桃の花が何処までも続く桃源郷。その、故郷の風景は毎年季節になると新聞やニュースで観る。

「切なさはあるけれど。今でも愛しくてとっても好きな場所、です」

 言いながらほんの少し伏し目がちになるみちるに、マスターが優しく言葉をかけた。

「いつかまた、その大好きな故郷の風景をその目でちゃんと観られる日が来るといいね」

 みちるの心に温かく染み込んでいく、マスターの言葉。

「はい」

 心穏やかにあの風景を観られる日が来るといいな。

 胸に手を当て、静かに物思うみちるに、マスターが少し寂しげな表情を見せていた。

「人間というのは悲しい生き物でね。大事な物は、失ってみて初めて気付いたりするんだ」
「え……?」

 みちるは顔を上げた。

「その愛しさに気付いているなら、ちゃんと大事にしなければいけない――何に於いても言える事だけどね」

 マスターは肩を竦めたながら静かに続けた。

「僕達の故郷はもうそこには無いんだ。そう。もう二度と観る事が、出来ないんだよ」



†††
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